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 夕方過ぎに降り始めた雨は、夜半になっても止む気配がなく。
 強い風に煽られて窓を叩く音をBGMに、霧人は読書をしていた。
「・・・・・?」
 音のある静寂が無粋なインターフォンで遮られ、柳眉を潜めながら時計を見遣れば、表示は23時15分。勿論来客予定などある筈もない。
 無視しようと本へ視線を戻しかけ、けれど結局モニターを確認しに行ったのは、幾許かの予感があったのかもしれない。
「・・・何て、格好です」
 モニターを一瞥するなり通話ボタンを押した霧人は、呆れ返った冷たい声をかけた。
『やぁ、牙琉センセ。雨宿り、させてくれないかな?』
 モニター越しに霧人を見遣った、元弁護士で現在霧人の『親友』である成歩堂は。
 肌を絞っても大量の水が滴り落ちそうな程に全身ずぶ濡れで、常態でも見窄らしいのに、霧人ですら憐れを催す無残な姿になっていた。



「タオルを貸してくれれば、ここで脱ぐけど」
 霧人が潔癖症に近い位、綺麗好きだと知っている成歩堂は、秒毎に大きくなっていく玄関の水溜まりを気にしながら申し訳なさそうに呟いた。
「いいから、早くお風呂場へ行きなさい」
 ピシャリと言い捨てて背中を促すように押せば、触れる前から冷気が霧人の指を包む。実際に指先へ伝わる感覚は、氷のようで。
「30分以内に出てきたら、また放り込みますよ」
 眼差しを険しくし、モタモタと貼り付く布に悪戦苦闘しながら成歩堂が衣服を脱ぐと、再度命令口調で告げて風呂場の扉を閉めた。



 30分後。乾燥機の中で回っている服の代わりに置いてあったバスローブを羽織り、成歩堂がペタペタと素足を鳴らしながらリビングへ向かうと、微かにブランデーの匂いのする紅茶を差し出された。
「貴方に自虐趣味があるとは、知りませんでしたよ。肺炎でも起こしたかったんですか?」
 霧人は、憤りを表情ではなく纏う空気で表現する。ピリピリと肌を刺すそれに成歩堂は肩を竦め、紅茶を啜りながら上目遣いに見上げた。
「いや、そういう訳じゃなくて。ぼぅっとしてたら、いつの間にか降られてたんだよね・・・」
 寒いな、と思ったらもうズブ濡れだった、と子供が怒られると分かっている悪戯の告白をするような眼差しに、霧人は怒る気も失せて長々と溜息を吐いた。
「貴方のぼんやり振りも、ここまで来るといっそ感心すらします」
 衣服を洗濯機に入れる際に調べたが、成歩堂の持ち物と言えば、鍵の束が一つきり。財布を持ち歩かない事は多々あるが、携帯すらないのでは誰か―霧人に連絡して迎えに来てもらう事もできず、延々と雨の中を歩いてきたのだろう。
「・・・何か、あったのですか?」
 水分を含んで項にかかる髪を弄びながら尋ねると、接触していなければ分からなかったに違いない、微かな反応があった。
「何も、ないよ?」
 成歩堂は口ではそう答えたが。成歩堂の身体は、違う答えを告げていたし。霧人は、一つの情報を入手していた。
 成歩堂の親友だった御剣が一時帰国している、との。
 成歩堂も、どこからかその情報を聞いたのだろう。噂だけで、激しい雨すら認識しないまま思考の海に溺れる程、未だ御剣との思い出に囚われている成歩堂。
 彼の為に人生まで変えたのだから、成歩堂の惑いも理解可能な範疇だ。
『けれど。会いには行かなかったのでしょう?』
 心の中だけの問い掛けだったが、こちらの答えも霧人は知っている。 
 御剣には会わず、御剣を想って冷たい雨に打たれても。成歩堂が足を運ぶのは、霧人の家。
 それが、重要なのだ。
 『娘』の為に生きる気力を繋ぎ、生きるだけで疲弊していく魂を休める為に、霧人の所を訪れる。
「まだ、震えていますね。いらっしゃい、成歩堂」
 この野良猫は自らは擦り寄って来ないが、引く手には逆らわず腕の中に大人しく収まる。
 全身で包み込んでやれば、芯の凍った体にとって温もりが心地よいのか、甘やかな吐息を漏らす。
 霧人はバスローブの下へ手を滑らせ、熱と快楽を織り交ぜて肌に刻み込んでいった。



 一つ一つ、成歩堂から大切なものを奪い。居場所をなくしていき。
 追い詰められた成歩堂が唯一逃げ込めるのは、最早此処しか残っていない。
 全てを奪った後は、霧人は一つ一つ成歩堂へ代わりのものを与えていく。
 安らぎを、甘やかしてくれる腕を、それから親友を。
 霧人が張った、精緻で巧妙な蜘蛛の糸に、少しずつ成歩堂の四肢は絡み取られていっているのだが、その事自体をも悟らせない。
 成歩堂を捕らえる糸は、成歩堂を守る繭と同義。
『可哀相な、可愛い成歩堂。元親友の分も、私が慈しんであげますよ』
 甘く、優しく、快い毒を成歩堂の身と心に注ぎ込んで。
 霧人は、美麗に艶然と微笑みかける。
 捕らえた獲物が逃げようとしない限り。
 ここは。
 この蜘蛛の巣は。
 世界で最も安全な、『家』。