「牙琉センセ、何か食べさせてくれ」
「ノックも挨拶もなしですか」
事務員の取り次ぎなしで現れた見窄らしい格好の男へ、霧人は辛辣な譴責と侮蔑の眼差しを向けた。
「貴方の不作法さには、ほとほと呆れます」
何度秘書に取り次いでもらえと注意しても聞き入れなくて直接所長室を訪れるのは、もう諦めたが。ノックなし、は見過ごせない。
「あ〜、ごめんごめん。お腹がすき過ぎちゃって、頭が回らないんだ」
霧人の剣呑な視線は、対峙した対峙した者を凍り付かせると専らの評判だった。しかしニット帽を目深に被った不審者―――成歩堂には効かず、ひらひらとおざなりに手を振った後はイタリア製の高級ソファに横たわってしまう。
その行き倒れさながらの姿に、霧人が眼鏡のブリッジを上げつつはぁ、と深く嘆息した。神経質で潔癖症で礼儀作法に煩い霧人も。成歩堂相手ではいらいらする一方、毒気を抜かれる。
憎たらしいけれど、心底憎めない男。それが、成歩堂だ。
霧人の厳しい基準をクリアした秘書が、成歩堂には甘くなってしまうのもその辺りが原因なのだろう。
「また、金欠なのですか?」
理由が分かっていて聞くのは、ささやかな嫌味。案の定、少しも堪えていない成歩堂はへらりと笑った。
「んー、みぬきの給食費を払ったらピンチになっちゃって、朝から絶食中」
「全く・・」
再度漏れる、溜息。
妖しげで不安定な仕事をしている為、生活は困窮気味でも。成歩堂が引き取った少女に不自由な思いをさせないよう、気を配っている。知り合った頃より線が細くなったのは、不健康な生活を送っているからというより、単純に栄養不足だろう。
「生憎、仕事が一段落するまでまだ時間がかかります。事務室に行って、何か貰ってきなさい」
終業しても良い頃合いでも、業務が予定の所まで進行していない。
雇い主と似て業務の円滑運営のみを考慮する秘書だが。どう見ても胡散臭い成歩堂が何故か気に入ったらしく―――本人曰く、無いと思っていた母性本能を擽られるそうだ―――接待用以外のお菓子を常備している。
自費で。
餌付けされているのか、絆したのか微妙なラインの秘書を話題に出すと、成歩堂の顔が持ち上がり・・・パタリ、と再び沈んだ。
「大人しく、待ってるよ〜」
ゆるゆるな口調も、どこか力ない。限界が近いようだ。
普段ならのっそり大儀そうに事務室へ向かい、しばらく後、大量の食べ物と共にテレテレ戻ってくる。そして仕事をする霧人を余所に、のんびり寛ぐのだ。
しかし今日は、その気力もないと見える。来て早々ソファへ俯せたから観察時間は短いが、顔色は悪かったしサイズのあっていないパーカーで覆われた肢体もラインが細くなったのではなかろうか。
おそらく、数日前からかなり食を減らしている。せめて身体に負担のかかる仕事を休めばいいものを、ずっと働き続けた筈だ。
血の繋がりも養う必要もない少女の為に、我が身を省みず。
霧人の眉が微かに寄る。仕事を切り上げるつもりはないが、今にも息絶えそうな様子は目障り。
「仕方ありません。猫よりは使い物になるでしょう」
霧人は広げていた書類を手早く纏め、ソファへ移動した。スプリングは大して軋まなくても、揺れと気配で霧人が座ったのを感じた成歩堂がのろのろと視線を寄越す。
「チェックを手伝いなさい。結審が明後日なんです」
概要、証言、調書など公にされるものしかチョイスしていないが、判断材料としては十分の筈。
「え〜、現役を離れてるんだから役には立たないよ」
目前の書類を胡乱に眺める成歩堂。いかにも嫌そうだったが、構わず次々と渡していった。
「早く食事をしたいのなら、なけなしの頭脳を働かせなさい」
「血糖値下がってて、無理だって・・」
ぶつぶつ抗議しながらも、霧人の表情から打開策はないと悟ったのだろう。だらしなく寝転んだまま、成歩堂が書類を読み始める。
霧人が担当する裁判だ。必ず無罪に『する』し、その為の準備も整った。けれど・・・小さな違和感があった。見逃すと取り返しのつかない過誤になりそうな、異物。
障害は、どんな手を使ってでも完全に取り除くのが霧人の常。
かつての『障害』に手伝わせている皮肉と奇妙な高揚を味わう事、数分。
「この証言、危ういんじゃないのー。証人3の裏と照らし会わせて突っ込まれたら、崩れる可能性ありそう」
「・・・確かに、再考した方が無難ですね。他にはないようですから、今日は終わりにしましょうか」
成歩堂の指摘を受け、霧人は軽く頷いて書類を片付けた。
「―――間もなく、上がります」
インターコムで秘書に終業を告げ、帰り支度をする霧人の様子はいたって普段通りでも。脳内は凄まじい勢いで思考を巡らせていた。
違和感の正体が、分かった。検察側がその綻びに気付かない確率は高いものの、万が一攻め込まれたら、対策なしでは不利な状況に追い込まれてしまう。
初見にもかかわらず、真実へ肉薄する成歩堂。流石、霧人が『排除』の必要を感じただけはある。資格を剥奪されて久しいのに、その閃きは鋭いまま。
だからこそ、愉悦が募る。
唯一恐怖を抱いた青い弁護士も―――今は、霧人の可愛い野良猫。
存分に、愛でてやろう。
法廷を遠く離れた、宵闇で。
「では、行きましょうか。貴方の好きなものを、奢ってあげますよ」
霧人は酷薄に、秀麗に微笑みかけた。