所長室の扉を開けた霧人は、視界に入ってきた光景に一瞬、動きを止めた。手入れされた指で、カチャリと眼鏡のブリッジを押し上げる。
「どう思いますか? 成歩堂さん」
「う〜ん。僕に聞かれてもねぇ・・。いいんじゃない、それで」
ソファへ横並びに座った王泥喜と成歩堂が、打ち解けた様子で話している。
厳密に言えば、打ち解けたというより王泥喜がおデコをテカらせ、目を輝かせながら熱心に話し掛けているのを、成歩堂がいつものだらけた口調ながら、いつもより真っ当な対応をしているように見えた。
「成歩堂、お待たせしました」
霧人にしては珍しい事だが、思考の前に言葉がするりと零れていた。表情が全く平常通りだったのは、日頃の修養の賜物。
「ああ、終わったのかい? 牙琉センセ」
ゆるりと頭を巡らせた成歩堂が、怠惰な動きで立ち上がる。
「王泥喜くん、時間外なのに悪かったですね。もう、あがって下さい」
「はいっ、大丈夫です!」
風体がだいぶ変容したとはいえ、憧れの成歩堂と話せた喜びを紅潮した顔全面に現した王泥喜が、こちらは勢いよくピョコンとソファから跳ねた。
終業時間間際にかかってきたクライアントからの電話が長引く事が予想され、しばらくしたら来るであろう成歩堂に、応接室で待っているようにメモなりを残しておいてくれと頼んだのは、霧人なのだが。
いつも終業時間後に事務所へやってくる成歩堂とは挨拶程度しか言葉を交わせなかった王泥喜は、ここぞとばかりに自ら成歩堂の接待をしたらしい。王泥喜の傾倒振りを知っている霧人は、指示外の行動をした王泥喜を咎めるでもなくただ退所を促し、成歩堂へ続いて所長室へ戻った。
「・・・あまり、王泥喜くんを誑かさないで下さいよ?」
中断していた書類の片付けを手際よく進めながら、霧人は退屈そうに観葉植物を突いている成歩堂へ声をかけた。
「誑かす?僕が、オドロキくんを? 面白い事を言うね、牙琉センセ」
首だけ廻し、口の端を持ち上げたその表情は、まさしく猫が新しいオモチャか獲物を見付けた時に酷似していて。
やはり面には出さなかったが、霧人は己の失言を悔やんだ。口に出さず、今まで通り成歩堂と王泥喜の接触を最小限に留めていれば済む話だったのだ。
「牙琉センセの大切な初弟子を、弄ぶなんてしないし」
ペタペタとサンダルを鳴らしながらゆっくり近付いて来た成歩堂は、霧人が眉を顰めるのも構わず机に腰掛け。
「それに、誑かすっていうのは、こういうのだろう?」
霧人の持っていた書類を取り上げると机の端に置き、徐にごろりと自らが天板に寝そべった。
「ねぇ、牙琉センセ。遊んでくれるかい?」
ほぼ垂直に霧人を見上げ、パーカーのジッパーを早くもなく遅くもない速度で、終わりまで下ろしていく成歩堂の仕草には、何とも表現し難い色香が漂っていて。
「家に着くまで、待てないのですか?」
呆れたような口調だったが、机から降りなさいとか資料が傷みますなどの小言はなかった。露わになった鎖骨から首筋を、爪の先で軽く撫で上げる。
「僕を放っておいたのは、牙琉センセの方だからね」
この気紛れな野良猫が、こうして自分から擦り寄ってくる事なぞ、本当に珍しい。どんな心境の変化かは知り得ないが、懐かない猫が甘えてくるというシチュは、見逃すには貴重すぎる。
霧人はくすくす笑いと共に首に廻った手に導かれ、緩やかに顔を傾けながら、一部の意識を所長室の扉へと向けた。完全に閉まっていない―――閉めなかった扉の隙間からは、容易に室内が見渡せる。
常なら、王泥喜は退所前に霧人へ挨拶をしに所長室を訪れる。しかし今日は、先程霧人から帰宅の許可を与えたから、そのまま事務所を出る可能性は5分5分。いや、王泥喜の、成歩堂への拘りようを考慮すれば、7:3かもしれない。
しかし7割の確率で王泥喜が所長室の光景を目撃したとしても、王泥喜の性格からして中へ踏み込んでくる%はゼロに近い。
その後、憧憬が軽蔑に変化するかどうかの試算は、今あるデータだけでは行えないが。
それは、些末な事。
「お待たせしたお詫びに、たっぷり遊んでさしあげましょう」
右耳を指先で丹念に弄びながら啄むようなキスを降らせていくと、忍び笑いが潤いを帯びて、まるで猫が喉を鳴らして歌っているようにも聞こえる。
そう、野良猫は中々懐かないからこそ、人を惹きつけてやまないが。
この猫を撫でるのは、霧人だけでいいのだ。
それ以外は、必要ない。