霧ナル

見えない、見ない




 目覚めは、最悪だった。
 重い沼の底から辛うじて指先を伸ばし、長い長い時間をかけてようやく這い出したような気分。
「・・・・・はぁ」
 シーツに突っ伏していた成歩堂は、夢見の悪さ―――息苦しさの原因に気付いたけれど、すぐ寝返りを打つ事はしなかった。怠くて、動きたくないのもある。しかし、動かない方がいいと今までの経験から知っていたのだ。
 ただじっとしているだけでも、下半身のあらぬ所が鈍痛を訴える。率直に言って、まだ蹂躙されているのではと疑いたくなる程、違和感がある。
 微かに聞こえてくる水音は、一応嫌な想像を否定してくれた。が、本人不在でも安堵するのは早計に過ぎる。どんな悪趣味な仕掛けを残しているか、知れたものではない。少しだけ身動ぎ、今回は大丈夫そうだと判断する。
「・・・はぁ・・」
 馬鹿げた経験則に、再度溜息が出る。
「おや、起きたのですか。珍しい」
 ドアが開き、成歩堂を夢の中でまで疲労困憊に追い込んだ霧人が戻ってきた。身体は動かさず、視線だけをそちらへ向ける。
「・・・溜めないでほしいなぁ・・」
 1人すっきりした表情で、やはり1人シャワーを浴びてさっぱりした霧人に、当分はベッドから起き上がれそうにもない―――従って、べたべたの状態でいなければならない成歩堂は恨みがましく呟いた。
 霧人は容貌こそ、肉体的接触を嫌悪する潔癖症に見えるものの。実際は性欲旺盛で、しかも粘着質で変態チックなプレイを好む。
「これしきでバテるなんて、正月はいつにも増して怠けてたんですね」
 霧人に気遣う殊勝さは全くなく、逆に成歩堂の体力が乏しすぎるのだと指摘してくる。
 年末から年始にかけて、霧人の呼び出しは間があった。松の内が過ぎた今夜で、2週間近くが経っていた。成歩堂にしてみれば、もっと長くてもいいのだが。如何せん、最低限空いた日数分嬲られる為、ブランクの後は霧人に会うのがより一層憂鬱になる。
 そして案の定、今夜も霧人はしつこかった。幾度か意識が遠のいても、鮮烈な悦楽でその度叩き起こされ。耐えかねて無意識に逃げる身体は引き戻され、暴かれ、喰われ。
「これしきって・・・牙琉センセ、若いね」
「貴方と大して変わりません」
 しみじみ(嫌味込みで)言ってみれば、ぴしゃりと返される。もう、反論するのも億劫になってきた。
「今年は、もう少し年相応の身体作りをした方がいいですよ。協力して差し上げましょう」
「・・・あっはっはっ」
 今年『も』、好き放題する気かと乾いた笑いしか漏れなかった。
 今年『こそ』、霧人の薄っぺらい微笑みを引っ剥がしたいものだ。
 刃の毀れたナイフのような、鈍くも消えない痕を残す反駁を奥深くに押し込め、成歩堂はまたしても肌を辿り始めた手にそっと瞼を閉じた。




 実家で、新年早々煩わしい挨拶回りに付き合わされるのだと、霧人は以前言っていた。
 響也にそれとなく確認して、ブラフでない事は知っている。
 けれど。
 仕事始めには、マンションへ戻っている筈。なのに、霧人の呼び出しは毎年松の内を過ぎてから。
 ―――みぬきの学校が、始まってから。
 その理由が、『正月位、ゆっくり娘の側に居たい』と告げた所為なのかは分からない。尋ねる気も、ない。明らかにしない方が、いい。
 月日を重ねる毎に。
 霧人への赫い疑惑が、ふっと薄れる瞬間がある。偽りだらけの友情が、想いが、欠片の真実を含んでいるのではないかと錯覚しそうになる。霧人の束縛という保護が、本来なら生じる訳のない安寧を齎す。
 今年、終わらせなければ。
 成歩堂が求める真実は、永遠に遠ざかってしまうかもしれない。
 胸に走る焦燥は、哀しみに似た痛みを落とした。