「はぁ、はぁ、はぁ・・」
窓を白く曇らせる、乱れた呼吸。
黒瞳は潤み、ネクタイを緩めて鎖骨を少し覗かせた身体は、小刻みに震えている。
まるで情事の最中のような反応だったが、一つ、大きな差異があった。
「辛そうだな、バンビーナ。背中、摩ってやろうか?」
そう、成歩堂の顔色は見事なビリジアンに染まっていたのである。
現場の検証が終わった成歩堂は、どうやら解決の糸口が掴めた事に安堵しつつ、恭介の運転する覆面パトカーに乗車していた。
とっくに勤務時間を過ぎているにもかかわらず付き合ってくれた恭介に、ささやかながらやたぶきのラーメンを奢ると申し出たら、行き先は同じなんだからと乗せてくれたのだ。
「面倒くせぇし、このままやたぶきに直行しちまうか・・」
「いやいや、歩きで行きましょうよ。ビールもつけますから」
私用で公用車を使おうとする恭介を、慌てて止める。優秀な刑事なのだが、その破天荒さで始末書の常習犯なのを成歩堂は知っていた。
「バンビーナが優しいのは、俺への愛故に違いねぇ」
「ははは・・」
気遣いを見抜かれた上に、意味不明な揶揄。ツッコミの鬼と恐れられた成歩堂でも、恥ずかしいし、本能的に深く掘り下げない方がいいと感じ、乾いた笑いで誤魔化した。
ピッ、ガーッ
「!」
突然、籠もって不鮮明な機械音が車内に響き、ニヤニヤしていた恭介の表情が一変した。警察無線での遣り取りは隠語が多用されていて聞き取りにくいのだが、どうやら事件が発生したらしい。
「了解。急行する」
短く締めくくった恭介は無線を切り、赤色灯を車の屋根へ乗せた。
おお、刑事ドラマとかでよく見るシーンだ、と感動した成歩堂だったが。そんな暢気に構えている場合ではなかった。
ドラマではこの後けたたましくサイレンを鳴らしながら急発進するんだよな、と考えた所で。はっと、気付く。自分がテレビの前でなく、事件現場に急行しようとする車の中にいる事を。
「バンビーナ。ちょいと荒いロデオになるから、しっかり掴まってろよ」
「え? 待った! お、降ります〜っっ」
しかし、時既に遅し。上がった成歩堂の悲鳴は、あっさりサイレンに掻き消された。
そして、現在。成歩堂はリバースしなかった己を、誉めてやりたかった。
恭介は素晴らしいドライビングテクニックで逃走犯の車を追跡し、巧みに誘導し、周囲に被害が及ばない場所まで追い詰めて捕獲した。
逮捕に至ったのは喜ばしい。シェイクされて疲弊しきった内臓も、これで報われるというものだ。
一分一秒を争うから、一般人の成歩堂を降ろさなかった事にも文句を言うつもりはない。
ただただ・・・ぐったりしていた。ジェットコースターは苦手ではないが、レベルが違う。作られたものと、現実との違いはあまりに凄まじく、何度心臓が止まりかけた事か。
「バンビーナは、ロデオがお気に召さなかったか。おかしいなぁ」
息一つ荒げていない恭介が、背中をトントン叩きつつ首を捻る。
「・・異議あり。僕のどこが、武闘派に見えるんですか・・」
インドアもインドア。事件で走り回った次の日には、全身が筋肉痛に苛まれる位である。
「ハハッ、バンビーナだけに草食系なのは分かるぜ」
「いや、子鹿の前提が間違ってるとそろそろ気付いて下さい」
陽気に笑った恭介に、我慢しきれずツッコんでしまう。認識を訂正する様子の微塵もない恭介が、つい数分前、荒々しく逃走犯を組み敷いた手で柔らかく成歩堂の顎を掬い上げた。
「バンビーナも、容疑者を追い詰める時の緊迫感、嫌いじゃないだろう?」
「ええ、まぁ・・」
やっぱりバンビーナ呼びなんだ、と溜息を堪えつつ恭介の話を聞く。
「テンションが上がるかと思ったんだが、読み違いだったな。すまん」
少し硬めの指先で頬をなぞられ、成歩堂は苦笑する。
恭介の言わんとしている事は、理解できる。証拠によって被疑者を言い逃れできない所まで追い込む時の、独特な高揚。
目を見、表情を読み、呼吸を計り、どんな小さなサインも零さない。
真実という牙と爪で捕らえたモノが、全ての抵抗を諦め力を無くした瞬間、形容しがたい戦慄が身を貫く。
恭介は、それを疑似体験させてくれたのだろう。
だが、しかし。
「荒事が得意なら、弁護士ではなく、警官になりますって・・」
メインの理由は別にあったが、それ抜きでどちらを選択するか聞かれても答えは同じ。アドレナリン放出のベクトルは一緒でも、発動条件がかなり異なる。
「そういや、そうか」
恭介も納得したのか、もう一度謝って成歩堂の汗を拭い、ホルダーからペットボトルを取り上げて手渡した。温めのスポーツドリンクは干上がった喉に心地よく染み渡り、ほぅ、と深く息をつく。鼓動も次第にフラットへ戻りつつあった。
「落ち着いたか?」
「はい、お手数かけました」
ビリジアンから、やや青ざめた顔色まで回復した成歩堂は、含羞みながら頷いた。
―――何も考えず。
再度、顎を取られ。自然と恭介の方を見た成歩堂の肩が、ビクリと揺れる。危険察知能力だけは抜群なのだが、危機回避行動に繋がらないのが問題で。
即ち、恭介の双眸が『狩り』をしている時の鋭さを湛えている事は見抜けても、逃走する必要があると思ったりしない。
捕獲されたまま、ぼんやり見上げるだけ。
「俺は、興奮が鎮まらないぜ。・・バンビーナ、やたぶきはキャンセルだ。もっと美味いモノを喰う事にした」
「は? 恭介さ・・んんっ!?」
どういう事だろうと思考を巡らせている内に、恭介の顔が距離を詰め―――唇を奪われる。
キスで腰砕けになった成歩堂は、そのまま恭介のマンションへお持ち帰りされ。
『車、私用に使ってる・・・』
それが朦朧となった意識の、最後の思考。