トクトク、なら可愛いもの。
ドクドク・バクンバクン・ドッドッドッと、己の心臓ながら非常に煩い。
そっと、服の上から胸を押さえる。正確には布地と心臓の間にある、見えない刺青を。
鼓動が乱れに乱れきっているのは、人生初の海外渡航だから。日本語が使えない国へ行くから。パスポートを、初めて持ったから。
繰り返し、自分自身に言い聞かせる。全力疾走をしたかのごとく、脈拍が生体反応で速まっているだけだと。
感情が伴っている高揚は、刺青を通して狼に伝わってしまう可能性がある為、己に言い聞かせなければならなかった。
それまでに、事件が解決していれば。
すぐに他の場所へ移動していなければ。
一日がかりの用事が入らなければ。
沢山、条件はあった。寧ろ、クリアできる確率は少なかった。
しかし、どんな作用が働いたのか針の穴を通すようにタイミングがぴったり重なり。成歩堂は、とある計画を実行に移す事となる。
それは、とてもシンプルな作戦。
金曜の夕方、日本から、飛行機で4時間強の距離にある香港へ行き。
時差も利用して、金曜中に狼の誕生日を祝う。
―――シンプルでも、ハードルは高い。
日本から一歩も外へ出た事がないから、まずはパスポート取得がスタート。
飛行機のチケットを取り。香港での滞在先を予約し。
狼には、内緒にし。
誕生日に押し掛けて祝うなんて、ベタな行為の恥ずかしさと照れ臭さとむず痒さに耐える。
といっても、物理的に一番難関だと考えていた飛行機とホテルの手配はスミさんが引き受けてくれ。しかも空港までの迎えも申し出てくれた為、実際は気持ちの問題だけだったりする。
最大限、仕事の邪魔にならないよう考察に考察を重ねたが。狼が疲れていたり、鬱陶しく思ったらどうしよう、と成歩堂の思考はネガティブループだ。恋愛スキルがマイナス(というより当たりが悪すぎる)なので、どうしても狼と上手くいくのか、狼の気持ちが本当なのかとの疑心を払拭できない。
狼は戸惑う位、積極的で熱烈だし。来世でも縛られるらしい刺青を彫られたから、だいぶ成歩堂も前向きに考えられるようにはなってきたものの。時折、こんな風になってしまう。
100万ドルの夜景を見下ろしながら、ぐるぐる取り留めもない思考に耽る。窓ガラスに映る顔は、きっとビリジアン。
ギリギリ崖っぷちだった裁判の判決を待つ気分で、スミさんが狼を連れてきてくれるのを待つ。
狼は同じホテルの、実用一点張りの部屋に宿泊していて。数ランクあげた部屋を予約し、そこへ適当な理由をでっち上げてスミさんが狼を連れてくる段取りだった。
【 蛇足だが。スミさんが建て替えてくれたチケットと部屋代、その他雑費を支払う段で一悶着あった。お土産と差し入れの食べ物は喜んで受け取ってくれたのに、代金は固辞したのである。
手強い相手だったが、『受け取ってくれないと、もうスミさんに頼み事は出来ません・・!』と訴えたら。サプライズがなくなる→その原因が知られたら、狼にシメられ。知られなくても狼の不機嫌率が高くなる、と脳内電卓で弾き出したスミさんは。
素晴らしい笑顔と共に、『いつでもどこでも成歩堂龍一弁護士のお役に立ちます!』と鮮やかに態度を変えた】
ピッ
電子錠が解除され。
「こちらのお部屋です。では、失礼します」
「応。おめぇらも、早く休めよ」
スミさんと―――狼の会話が聞こえてくる。
ドクン・バクン・ドッドッ
一気に鼓動が乱舞し、成歩堂は心臓の辺りを強く押さえた。
サク、サク、サク、と絨毯を踏み締める足音は成歩堂の方へ向かってきていたが。
「・・・・・」
急に、音は止み。あれ?、と小首を傾げた成歩堂の耳に届いたのは。
カチッ
やけに冷たい、金属音。
そして―――
「Freeze!!」
「いやいやいや!?」
数ヶ月振りに再会した成歩堂の恋人は、鋭い警告を発して銃を突き付けた。
軽く腰を落として構えるその姿は、非常に格好良い。緊迫した場面に似合わない感想が、過ぎる。
「り、龍一っ!?」
成歩堂を視界に捉えた途端、険しく隙のない表情が驚愕一色に染まる。固まり、ぱっかりと口を開けて。
辛うじて『Freeze』の意味を知っていた成歩堂は、その通りにしながら。
いつも危険な仕事をしている狼の身を案じていたから、たとえ部下が手配した部屋でも警戒を怠らない事を、安心材料とすべきか。
来世を誓わされた相手に銃で狙われるなんて、やっぱり己の恋愛は一筋縄ではいかないと感心すべきか、迷い。
それよりも、かつてお目にかかった事のないちょっと間抜けな様が可笑しくて、何故か嬉しくて。
小さく微笑んで。
「士龍さん、お誕生日おめでとうございます」
両手をホールドアップの形にしたまま、狼の生誕を祝った。