「バンビーナ、暑気払いだ!」
勢いよく事務所の扉を開いて現れた恭介は、端的にそう告げると有無を言わさず成歩堂を引っ張りだした。
片付けもそこそこに連れていかれたのは、駅ビル屋上のビアガーデン。例年ならもう終了している時期だが、この猛暑の所為で延長営業しておりかなり賑わっていた。
「乾杯!」
「お疲れさまです・・」
身分を明かした訳でもなかろうに、二人が案内された席は夕暮れの空とネオンが輝き始めた街の両方が俯瞰できる特等席で。係のウェイトレスが恭介に愛想良く微笑みながらほんのり頬を上気させていたのを見た成歩堂は、『やっぱり容姿なのか・・』と複雑な気分になる。
テンガロンハットを隣の椅子へかけ、ウエスタンブーツとリーヴァイスに包まれた長い足を持て余し気味に組んだ恭介は、ワイルドかつほんの少し危険な雰囲気を醸し出し。草食系男子が好みならいざ知らず、大抵の女性は目に留めるに違いない。
「バンビーナ、夏バテか? 痩せただろう」
「クーラーがおんぼろで、少し寝不足なだけです。大丈夫ですよ」
「今日は共食いになってもいいから、しっかり食えよ」
「いやいや、何度も言ってますが僕は鹿じゃないですから。ああ、しかもそれは牛肉ですって!」
ビアガーデンのメニューとしては異色の本格的なステーキを、おそらく成歩堂に食べさせる目的で注文するのも、強引ではあるが鋭く不調を見抜いた上での行動。
風貌は、同性でも羨むレベル。
仕事でも目覚ましい活躍をし、将来有望。
性格は個性が強いものの、周りの超個性的な面々の中では一番の人格者かもしれない。
皆の、頼れる兄貴。
そんなフレーズが似合いそうな恭介が。
「バンビーナはすぐ無茶するからな。心配なのさ」
「恭介さん・・・」
いつもの陽気な色をすっと潜め。気遣わし気に酷く真摯な表情で成歩堂を見詰めてくる。成歩堂は見返す事ができず、視線を夜景の方へ流した。
ゴドーが『神乃木』だった頃、二人連んで数々の浮き名を流したとの話も聞いた事がある。今だって付き合う相手に不自由しないだろう恭介に―――想いを告げられたのは一ヶ月前。
片手で足りる恋愛経験だが、全て対象は女性だったし。恭介をそういう目で見た事はなかったし。今は一日も早く、受け継いだ事務所を軌道に乗せたくて。挙動不審な程動揺しつつも、成歩堂は正直な気持ちを恭介に話した。
遠回しのお断りと大して変わらない返答に、けれど恭介は諦めなかった。
嫌いではないのなら、可能性はある。考えた事がないのなら、これから意識してほしい。仕事を優先したいのなら、その意志は尊重する。そうやんわり、しかし押しに弱い成歩堂では突破できない包囲網を張り巡らし。
最終的には、前向きに検討する事を約束されられていた。
告白の後も、恭介の態度は大きく変わった訳ではない。きっと、成歩堂に気まずい思いをさせない為だろう。ただ、仕事の合間に寄ったりメールのやり取りをしたりと接触は増え。ふとした折りに。今、注がれているような慈しみと愛しさに溢れた眼差しを隠さず向けてくる。
「まだ、昼飯はまともに食えてないんだろ?」
「だいぶマシになりましたよ」
忙しさと暑さで食欲が落ちた事を見抜かれ、夕食に連れ出される回数も増えた。
「この細さじゃ、ちっとも納得できないがな」
そして、さりげないスキンシップ。大きく堅い恭介の手に掴まれた手首が、酷く熱い。ビールは、しっかり食べてからにしろという恭介の忠告に従って一口しか飲んでいないのに、もう酔ったのだろうか。
少しざらりとした指先が手首の豆状骨をそっと撫でて失われたラインを確かめ、成歩堂は目を泳がせた。こういう親密な触れ合いは、非常に困る。湧いてくる感情が嫌悪でないから、尚更困ってしまうのだ。
一ヶ月前、衝撃的な宣言をされ。引き際は心得ているけれども要所要所で存在感を示すアプローチを受けるにつれ、親しい知人で信頼の置ける刑事という位置付けが、少しずつ変わってきたかもしれない。―――変わる筈はないと、あの時は心底思っていた己に激しくツッコミたい。
「夏が終われば、すぐ元に戻ります」
「鱈腹、食わせてやるからよ」
注がれる柔らかい視線。力は入っていないものの、解けない手。テーブルの下で、いつの間にかくっついた膝頭。それらが、鮮烈に成歩堂の神経を刺激して。
何かが、成歩堂の内で芽生え始める。
夏が終わっても。元通りにならないモノができてしまったかもしれない。