その人物は、最早伝説と化していた。
警察局長として君臨し。絶大な権力を有し。法曹界の暗黒時代を築き。
全てを掌握する寸前で、新米弁護士によって罪を暴かれ―――。
収監された後、ピタリと『その人』の消息は掻き消え。どこか曖昧模糊な不条理と理不尽を感じながら、関係者は挙って口を噤んだ。最早、影響力はない筈で。恐怖政治は終わったのに。迂闊に話題へ出したら、何らかの異変が身に降り懸かるかもしれないとの恐れを持っていたのだ。
不在ですら一種の牽制になってしまうその男の名を、巌徒海慈と言う。
掲示版へ張り出された、定型文の告知。公報は多い時で一日に何件も公示される。お役所的システムにより大抵の事案は暗黙下で周知されており、マスコミや一般人の第三者なら兎も角、業務に携わる者は一瞥もしない。
だが、今日だけは異なった。掲示板へ告知文が貼附される前から人が寄り集まる、異例な程の注目度。居心地悪げな担当者がそそくさとそれを張り付けた後は、人だかりがどんどん増え、一応は潜めた声で今見たものについて情報を交換し合っている。
「・・信じられんな・・」
「でも、局長室の準備は終わったって総務が言ってたぞ」
「いやはや、どんな裏があるんだよ?」
ある程度事情を知っている者にしてみれば有り得ない、有る筈のない辞令。騒然となるのも当然だった。
お役所の人事は、大抵が予定調和。前もって、根回しは済んでいる。しかし今回の辞令を掌握していたのは上層部の極一部で、一桁未満。それ故、当日になってから総務を起点として一気に情報が広まった。
急病を患って休職していた警察局長が退職した所までは、予想の範囲内。数週間で復帰できるような病状ではなかったのだ。問題は、その後任。副局長がスライドで昇任すると大方は見ていたのだが・・・。
『辞令 警察局長に任ずる 巌徒海慈』
誰一人として予想していなかった。巌徒が、警察局長として再登場するとは。
「戒厳令も引かれてなかったらしい」
「口止めする必要もない位の少数で決定したって事か」
「今のトップなら、まだ影響力があっても可笑しくないからな」
当時、巌徒の情報収集能力は群を抜いていたから、この辞令が本物ならば―――偽物だったら、それはそれで深刻な問題だ―――例えただの噂話であっても、身の安全の為、滅多な事は口にしない方が良い。
それでも今回の人事はイレギュラー過ぎて、上からの命令に唯々諾々と従うのが習慣になっている職員達も、噂せずにはいられない。
「自由になった、って所だけは当たったぜ」
「どんな手を使ったんだか・・」
巌徒が有罪判決を受け、収監された。その点までは、確かだった。しかし、刑が執行されたという話は一切聞こえてこず。然りとて再審請求の動きもなく。そもそも、何処の刑務所にいるのか自体、不明で。
今は、既にもう釈放されて(もしくは脱獄して)自由の身になり、犯人引き渡し条約を締結していない海国へ逃亡したのでは、という説が最有力だった。荒唐無稽な想像でも。その主語が巌徒なら、可能性は0でないと皆が思ってしまう。
『あの』巌徒局長が返り咲いた。
どれ程の嵐が巻き起こるのか―――来る日を想像して、少なくない職員が身体を震わせた。