毒にも成り得る薬。
そんな表現が、ふと浮かんだ。
「ベイビー、お邪魔するよ」
「・・直斗さん! こ、こんにちは」
開いたままだった所長室の扉が軽くノックされるまで。成歩堂は、直斗の訪問に全く気が付かなかった。
ぼんやりし過ぎだと己を戒めて、挨拶を返す。やや音量が強めになった以外は普段通りのつもりだったのだが、直斗は成歩堂と目が合うなり、端整な顔を盛大に顰めた。
「ああ、いけないねー。仕事は一時中断! ちょっとおいで」
「いやいやいや、一体何事ですか?!」
「よしよし、大丈夫だから〜」
そして持っていた書類を取り上げ、成歩堂を立ち上がらせ、ソファへ移動させる。成歩堂が目を白黒させて尋ねるも、爽やかな笑顔で受け流して腰掛けた。
かなりくっついた状態で。
「な、直斗さんっ?」
近さにも驚いたが、その後、直斗がとった行動に成歩堂からひっくり返った声が漏れる。
いい香りのする革に顔を埋め。
細身に見えてしっかり筋肉のついた両腕に、抱き込まれ。
頭頂部から後頭部にかけて、大きな手に何度も撫でられ。
成人して久しいのだから、あまり認めたくはないが。
これは、あやされている・・?
「あの話、聞いたよ。大変なのに、頑張ってるね」
「え・・・」
離してもらうべく息を吸った刹那、穏やかな声が耳元へ注がれる。抽象的で短い言葉でも、直斗が成歩堂の現状を正確に把握している事、そして隠した筈のメンタルブロウをすっぱり見抜いた事は明らかで。
気恥ずかしさと少々の悔しさで固まる成歩堂を摩る手付きは、ますます柔らかく優しくなり。押し退けるタイミングは、綺麗に消え失せた。
「また崖っぷちみたいだけど、ベイビーなら必ず逆転できるから」
狙ってか偶然か。耳に響く鼓動と話すリズムはシンクロしていて、どちらもするりと成歩堂の『内』へ浸透する。
やっぱり今の体勢は不自然だとか、ヨシヨシされるなんて何歳だとのツッコミや、極秘情報なのに何故バレているのかという疑問など。いつもの成歩堂なら気になって気になって仕方ない事が、ぼんやり霞み始めた。
「今は、少しだけ休憩しちゃいなよ。その方がミスも減るし能率は上がる」
基本甘ったれでも仕事に関しては意地や責任感や一途さで、己に立ち止まる事を許さないのに、今日に限っては『その方がいいのかな・・』と同意に傾く。
「ベイビーにはゆっくり休む事が必要だと思うんだよね。心身ともにリラックスすれば、新しい視点で事件に取り組める筈。だから、行こう?」
「・・どこに?」
直斗の囁きは、建設的で有用な響きに満ちていた。提案を受け入れるのが最善だと感じさせる影響力を有していた。
「俺の家なら疲れも癒せるし、鋭気を養えるし、気分転換になっていいロジックが浮かぶかもしれないよ」
「そう、ですかね・・」
ツッコミポイントは多々あるにもかかわらず、やはり不思議な事に訝しむ所か唯一の解決案とすら思えてくる。
項から肩、肩胛骨や背筋を辿って腰まで降りてきた手が心地よくて堪らない。この手なら、憂いを取り除いてくれるのではなかろうか。
「さぁ、龍一・・」
温もりを纏った旋律が、穏やかに成歩堂を導く。安寧へと、誘う。
成歩堂は、殆ど頷きかけ。
しかし、最後までは頷かなかった。
「・・・ありがとうございます、直斗さん。でも、もう少し頑張ってみます」
九割九分九厘、直斗に応じていたのに。成歩堂を止めた残り一厘が何に起因するものだったのか、成歩堂自身よく理解できていない。それでも、ここで直斗の労りを享受していけないと頭の隅から聞こえた。
今この瞬間に甘えてしまったら、ずるずると頼り切って一人で在れなくなるような気がしたのだ。
癒されるに違いない。心機一転して、陥ったカオスから脱却する閃きも生じるに違いない。
それは、良い事だ。決して悪い事ではないものの―――またピンチに見舞われた時。直斗の支えなしでは乗り越えられない予感がする。直斗は何度だって手を差し伸べてくれるかもしれないが、それとこれとは話が異なる。
効くからといって、強い薬を服用し続ければやがて依存し、結果として中毒になる。成歩堂は、直斗とそんな関係になりたくなかったのだ。
「―――そう。無理はしちゃ駄目だからねー」
ほんの僅かとはいえ自らの意志で離れた成歩堂を、直斗があくまで優しくソファへ凭れさせる。最後にもう一度トンガリ頭を撫で、直斗はしなやかに立ち上がった。
「何かあったら、いつでも連絡してよ。じゃ、また」
フリンジを揺らして姿勢の良い長身が遠離る。成歩堂は、衝動的にその背へ声を掛けていた。
「直斗さん!」
「ん?」
半身だけ振り返った直斗へ、成歩堂も立ち上がりながら早口に告げる。
「一段落したら。改めて、直斗さんの家へ遊びに行ってもいいですか・・?」
「ベイビーなら、大歓迎さ」
瞬間、瞠目し。けれどすぐ爽やか120%の笑顔を浮かべた直斗は、格好良くウィンクを決めて去っていった。