狼ナル

初めての…




 ぐつぐつと泡立ち。湯気と共に、鰹節と醤油の芳ばしい匂いが立ち上り。長年の勘で、味見をしなくてもそろそろ完成だと何となく分かる。
 何回となく繰り返した行程。熱が高くても失敗した事がないのだから、平常時の今、成功しない訳がない。
 けれど、成歩堂は緊張し、戸惑い、また緊張していた。
 ―――背面にぴったりくっつき。腰に手を回し。肩へ顎を乗せて、一部始終を凝視してくる狼の所為で。




 きっかけは、何だったのだろう。
 なんて、黄昏る必要はない。紛れもなく、100%、上司思いの部下が原因。
 優秀かつどこまでいっても狼に忠実な彼らは。『成歩堂龍一弁護士の得意料理はおじや』という情報を入手し、狼へリークしたのだ。どうやって知ったのかは疑問だが、報告する前にもっと詳細な調査をしてほしかった。
 まず第一、成歩堂は常日頃から料理をする訳ではない。もともと日常生活一般において、手抜きというか放置というかやる気なしで、自炊など週一すればいい方。外食をしない日は、専らレンチンか三分待機か総菜セット。
 第二に、おじやは真っ当に作れるものの作る時は決まっている。即ち、風邪を引いた時だ。
 昔から、体調を崩した時は母親がオジヤを拵えてくれ。それを完食できれば、次の日には快復していた。病は気から、というように。オジヤ=復調がインプリンティングされ。一人暮らしをするにあたって、母親からレシピを教えてもらったのである。
 大学の時、風邪をひどく拗らせた理由は。恋に目が眩んで、おじやの代わりにカゼゴロシZだけを服用した為だと、成歩堂は妙な確信を抱いている。
 余計な思い出はさておき。成歩堂が主張したいのは、オジヤは平常時に食べるものでもなければ『料理』として他人に振る舞うものでもないという点。
「うまそうな匂いがしてきたな」
「そうですか・・?」
 一応、その辺りを詳しく説明してみたのだけれど。『恋人の手料理』にいたくそそられたらしい狼は、作ってくれの一点張り。結局成歩堂が折れると、包丁や火を使うから危ないと注意しても、成歩堂の背中へ張り付き一部始終をそれはもう楽しげに観察している。
 何が面白いのか、成歩堂にはさっぱり不明。几帳面で潔癖症で完璧主義の御剣や、何でも器用にスマートにこなしてしまうゴドーの料理なら、見ているだけでもドラマ仕立てになりそうな気がするけれど。
 実家から持ってきた一人用の土鍋へ、ストックしてあるパック詰めの鰹節で出汁を取り。その間に有り合わせの野菜を細かく切って、柔らかくなるまで煮る。味付けは少々の塩と、気持ち多目な醤油のみ。卵はなし。(一度、吐き気が酷くなったトラウマにより)
 料理に慣れていない成歩堂でも短時間で出来るし、特別な配合もない。至って普通な、成歩堂の舌が覚えているだけのおじや。
 しかし。
「ウマイな。夜遅く帰った時に食いたい味だ」
「・・・士龍さんの口にあって、よかった」
 嘘はついてもお世辞は言わない狼が、しみじみ呟いたので。贔屓目に見ているとも。そんな誉められる程のものではないとも。いつも美味しいものばかり食べているくせに、と照れ隠しに思った成歩堂だったが。
 女の子が料理を頑張るのは、恋人のこんな表情を見たいからなのか、と少しばかり共感した事は―――秘密。