「龍一」
「うわっ!」
突然、それこそ前触れも気配も全くないまま耳元で生じた音と温もりに、成歩堂は腰が抜ける寸前まで驚いた。
「士龍さん!」
耳を押さえ、瞬間的に茹で上がった顔だけを振り向かせて咎める。何故顔だけなのかは、声掛けと、ウエストへ逞しい腕が廻されたのが同時だったから。上から覆い被さられるような体勢で拘束されては、インドア派弁護士が太刀打ちできる術は言葉のみ。
「もう調査は終わったのか?」
とはいえ、生まれも育ちも体格もだいぶ違うこの狼捜査官には、言論も大した抵抗措置にはならない。狼は、己の都合良いペースでしか話さないから。
「終わりましたけど・・あの、放してくれませんか?」
しかも話し掛けるのに一々口唇を耳へ近付けるものだから、息がかかってくすぐったいし、精悍な面差しのアップが気恥ずかしくて、成歩堂は甲斐がないと経験上分かっていても抗議せずにはいられない。
「何で放す必要があるんだ? これからデートに行くっていうのに」
「デ、デートって・・ひゃっ!?」
益々腕の中に抱き込まれ、朗々たる声を0p距離で流し込まれ、最後にぱくりと耳朶を喰われ。
成歩堂は羞恥で満杯になった頭を無理に稼働させ、狼の言葉と行動、どちらから先に異議を申し立てるべきかを考えたが。その間にひょいと持ち上げられ、狼は成人男性一人分の体重がプラスされているとは思えない俊敏さで歩き出してしまう。
「士龍さん、待った! いくら何でもコレは・・!」
変形ではあるが『抱っこ』されている事には違わない状態に、流石の成歩堂も声を荒げた。
「イヤ、か?」
「・・・士龍さん」
その途端ぴたりと足を止めた狼が、こちらも表情を変えて、今は同じ高さになっている成歩堂の双眸を覗き込む。熱く、真摯に。
「龍一、イヤなのか?」
繰り返され、強調される単語は、否が応でも以前狼が成歩堂に告げた台詞を思い起こさせる。
狼曰く、『俺はこれから、龍一を誠心誠意口説くが。龍一から一度でも『嫌』と拒否されたら、俺は龍一の前から去る。それが俺の国の掟だ』
言葉自体は理解できても、内容がすぐには飲み込めなくて二度聞き返した成歩堂へ真面目に二度リピートし、狼は冗談でもドッキリでもない事を知らしめた。その後、狼は宣言通り誠心誠意というより猛烈なアタックをかけてきたのだが、今のように成歩堂が戸惑ったり引いたり迷ったりする都度、確認してくるのだ。
『嫌か?』と。
そして野性そのものの鋭い眼差しで成歩堂を射貫いて、返答を待つ。その双眸の奥には悲愴に高潔な決意が見え隠れしていて、その痛い程に孤高な光を見てしまうと。
もう。
「嫌じゃありませんけど、せめて降ろして下さい。自分で歩けます」
拒否を避けた言葉は、どうしたって肯定にしか聞こえず。
「美味い飯屋を見付けたんだ。龍一好みのな」
一転して満面の笑みを湛えた狼に、地面へ足がついたとはいえ腰を抱かれた格好で促される。
こっそり溜息をついた成歩堂は、己が日本人だからはっきり『No』と言えないのだろうか、と何とも的外れな事を考えつつ、今日も狼の手中に堕ちたのである。