夢を、見た。
優しくて、煌めいていて、希望に満ち溢れ。
幻影だと分かり。失われた過去だと再確認した時の切なさは形容し難い夢を。
「ゴドーさんてば! いい加減にして下さいっ」
頬を、熟した林檎の色に染めて。カモメ眉が、困ったように下がり。ジタバタと藻掻く。たとえソファに寝転がったゴドーの上に覆い被さる体勢でも、柔軟な鋼を束ねたような腕をガッチリ腰に廻しているから、成歩堂は意志に反して抱き込まれたまま。
「クッ・・そんなにシて欲しいのかィ?」
陸へ引き上げられた若鮎か。悪友がからかって呼ぶのに倣えば、生まれたての子鹿がプルプル震えているのか。生命の躍動を堪能しつつ、ゴドーは耳元で囁いた。殊更、低音を響かせて。
「いやいやいや、何でそうなるんですか!?」
ぶるり、と肩を揺らした成歩堂は更に顔の赤みを濃くし、必死でツッコんでくる。上昇した体温と。抗議の中に棘がない事と。身動ぎだって、伝わってくるのは動揺と困惑と羞恥。嫌悪や拒絶なんて、欠片もない。
「素直になれないコネコちゃん、嫌いじゃないぜ!」
「ひゃっッ!!」
込み上げる愉悦に忍び笑いを漏らしながら、成歩堂の耳を軽く噛んだゴドーは腕の力を緩める。それこそ尻尾を踏まれた猫のごとく、成歩堂が慌てて距離を取った。途中、何もない床に躓いたのはご愛敬。
長い手足を伸ばして寛ぎ。真っ赤になってこちらを警戒している成歩堂へ、ニヤリと人の悪い笑みを披露する。今日は見逃してやる、と余裕をチラつかせて。
そう、いつでも捕まえられる。成歩堂が戸惑いつつも、こちらを意識している事は明白で。じわじわ追い詰めて、逃げ道がなくなったと成歩堂自身が自覚した所で平らげるのも面白そうだ。
ゴドーは、コネコとの一進一退な駆け引きを楽しんでいた。
―――7年前。
戯れなど脇に置いて、成歩堂との関係を深めていたら。
『現在』は、どんな風になっていたのだろうか。
「ゴドーさんてば、起きて下さいよ」
「・・・・・あ?」
沈んでいた意識が通常の位置へ戻り。細く瞼を開いたゴドーの腕が、何かを探すかのように宙を掻く。その手に押し付けられたモノを装着すれば、焦点を結んだ視界に映る顔。
ツンツンの髪の毛を隠す、ニット帽。申し訳程度に生えている無精髭。ゴドーと違って起きていた筈なのに、眠たげに眇められた黒瞳。印象が違い過ぎて、すぐには夢に出てきた人物とイコールで結びつかなかった。
「ああ、コネコちゃんかィ・・」
その点、本能に支配される肉体は愛しい存在をきちんと認識し、ゴドーが色っぽく掠れた声で呟く前に抱き寄せていた。思考が追いついた所で、夢の中のように耳朶を甘噛みする。刹那、肩が戦慄く反応も同じ。
「寝ぼけてないで、早く移動して下さい。邪魔です」
しかし、顎から頬へ移動する唇へ柔らかくはあるが毅然と手が当てられ。成歩堂は、自力で起き上がってしまう。
「もうすぐ、みぬきが帰ってきちゃいますから」
「・・・クッ・・お嬢ちゃんの為なら仕方ないな」
離れる温もりは惜しいけれど、魔法の呪文を唱えられたらゴドーは諦めるしかない。のそりと長身を給湯室へ移動させるゴドーを余所に成歩堂が始めたのは―――清掃だった。
現・成歩堂なんでも事務所の内がごちゃっとしている原因は、芸術家気質のマジシャン・みぬきにある。いつでもどこでも、思いついた時にマジックを始めるみぬきがやりやすいように『並べて』ある―――ものは言い様だ―――のだ。
以前ならこれ幸いとばかり放置を決め込んだだろうが、今の成歩堂は愛娘を溺愛する親バカで。王泥喜がいれば、修行だと丸め込んで押し付けても。仕事や休みでいない時は、埃や塵でみぬきの体調が崩れたら大変だと、道具の位置は変えないままみぬきの帰宅までに掃除を済ませている。
驚くべき、変化。
漆黒の闇を呷りつつ、動き回る成歩堂を眺めるゴドー。夢を引き摺っている所為か、感慨が次から次へと湧いてくる。
『待ってろ、とは言わねぇ』
少しの逃げと。自惚れに近い自信と。根拠のない楽観。
『待ってる、とは言いません』
多大な寂寞と。覚悟とは遠い諦念と。不安のある希望。
戻ってきた時、飲み乾せない位に後悔した。手を離してしまった事を。独りにした事を。
けれど。
再び会えた奇跡を喜ぶべきなのだろう。辛い記憶が、思い出に変わるまで。
「まるほどう、それが終わったらご褒美あげちゃうぜ!」
「結構です」
マグを掲げて言い放ったゴドーへ、すぱんとツレナイ返答が投げられる。ポーカーフェイスが上手くなったコネコに喉の奥で笑いつつ、ご褒美を強制執行しようとゴドーは歩き出した。
夢を、見ている。
切なさすら、愛おしさへと昇華する暖かい夢を。