どんな世界なのかという事より。
『誰』がそこに在るかが、重要。
香ばしくて、柔らかで、温かい匂い。甘くもある香りを胸一杯に吸い込み、成歩堂はニッコリ笑った。
「真宵ちゃん、仕上がったよー」
「こっちもできた!」
別のオーブンを覗き込んでいた真宵も、会心の笑顔を見せる。今日はおばちゃんのOKを貰えそうだ、と成歩堂の気持ちが弾んだ。
「じゃ、行ってくる」
「ゴドーさんによろしく〜」
エプロンを外し、スーツを見下ろして白いモノがついていないかざっと確認した成歩堂は、バスケットを持ち上げた。おばちゃんと出来立てのパンを手際よくトレイに並べていた真宵の声に送られ、外へ出る。
中世の欧州を思わせる街は、朝から活気に満ち溢れていた。顔馴染みのご近所さんや常連客と挨拶を交わしつつ、パン屋からそれこそパンの冷めない距離にある店へ向かう。
少し細い路地を入った行き止まりの、外装からはそれと分からない喫茶店―――基、珈琲屋が成歩堂の目的地。
「お早うございます、ゴドーさん」
「クッ・・・起き抜けの一杯とコネコちゃんの囀り。目覚めに相応しいぜ」
「いやいや、コネコじゃありませんし。第一、ネコは囀りませんから」
一枚板のカウンターに寄り掛かってマグカップを掲げる長身の男へ成歩堂がツッコむも、この店の主であり、訪れるどの客より杯数多く珈琲を呷るゴドーはニヤリと嗤って流すだけ。
「今朝はコネコちゃんのツッコミも、パンも、ウマいな」
「え・・食べてないのに、どうして分かるんですか?」
成歩堂の方は、何気なく告げられた言葉をスルーできなかった。ゴドーのツボは独特なので、ツッコミの出来はともかく。『味』に関しては妥協しないゴドーが、いい加減な評価をするなんて事は考えにくい。
実際、ゴドーが淹れる珈琲にあうパンが作れるようになるまで、成歩堂はダメ出しという名の珈琲を散々奢られてきた。定期的に注文が貰えるようになった今でも、ゴドーの舌にそぐわない時は容赦なくチェンジを突き付けられるのだ。
そんなゴドーが味見もしないで誉めたら、どうしたって嬉しさより不安が先に立つ。ゴドーはゆっくり褐色の液体を含み、肉感的な口唇を愉しげにカーブさせた。
「それはな。コネコちゃんの顔に『今日のパンは良い出来で嬉しいです』ってデカデカと書いてあるのさ」
「!」
反射的に頬を押さえる成歩堂。浮かれていた自覚があるだけに、恥ずかしさも一入だった。真っ赤になって固まった成歩堂の手からバスケットを取り、改めてサンドイッチ用のパンを確かめたゴドーが、一つ頷く。
「そろそろ、俺の為に夜明けのブレッドを作っちゃくれないかィ?」
「ぇえ!?」
とんでもない発言にバッと床からゴドーへと視線を移せば、驚く程近くに迫った精悍な顔。10p、5p、と距離はどんどん縮まっていき―――。
「ちょっと待ったぁっっ!!」
ガバッ!!
成歩堂の異議が、響き渡った。
広い広い、寝室に。
「・・・・・ゆ、夢か・・・」
きょろきょろ周りを見回し、ようやく現状を把握する。ツッコミ所は多々あれど、妙にリアルな夢だった。ドクドク脈打つ胸を押さえて深呼吸すれば、鼻先を夢の中で嗅いだのと同じ匂いが掠める。
焼き立ての、香ばしい香り。それは、最近パン作りに嵌っているゴドーによるものだ。今朝も早くから起きて、朝食用に準備してくれているのだろう。パンの匂いが寝ている成歩堂を刺激して、あんな夢を見たに違いない。
「あれ、ゴドーさんがパン屋じゃなかったな・・」
その差異が、『夢』たる所以なのか。何となくしっくりこないものの、それよりもゴドーの姿を確認したい衝動が込み上げて。
成歩堂は、勢いよく温かいベッドから抜け出した。
「ゴドーさん、お早うございます」
「クッ・・眠気より食い気が勝ったコネコちゃんのお出ましだ」
夢と同じ格好で成歩堂を迎えたゴドーが齎したのは―――じわりと滲む幸せ。
2人で在れるなら。
どんな世界でも、やっていけそうだ。