予感:後編




 カードキーに刻印された部屋は予想通りエグゼクティブルームで、老舗ホテルならではの荘厳かつ華美な装飾だったが。
 今の成歩堂に、周囲を気にする余裕はなかった。

「リュウの生存確認をお願いします」
「クッ…闇のアロマを飲み干すまでは、魅惑の液体への疑いを抱き続けるのかい?」

 微妙に分かりにくい、回りくどい物言いも久方振りだが、やはり感慨に耽る暇はない。
 成歩堂は細い眉尻をキリキリと吊り上げ、醸し出す雰囲気を秒毎に冴え冴えと研ぎ澄ませていった。
 稀代の暗殺者『 Phoenix 』として暗黒街で名を馳せた頃、そのままの覇気だった。
 心臓の弱い者なら変調を来してしまいそうな視線を、傲岸に真っ正面から受け止めたゴドーは。

「――ボウヤ。ちっちゃいコネコちゃんを、出してくれ」

 一拍後、少しだけ視線をずらし、磨き抜かれたマガホニーデスクに置かれたノートパソコンへ話し掛けると、液晶画面を成歩堂の方へ向けた。

「リュウ!」
『ナル兄ちゃん! お仕事、お疲れさま』

 画面一杯に映し出されたリュウの姿に、緊張していた筋肉が弛緩する。

『ボク、イイ子で待ってるから、早くお仕事終わらせて迎えに来てね!?』
「…うん。ごめんね。ちょっとだけ、我慢してくれるかな?」

 不安がらせる事など、できはしないから、幼い弟が信じ込まされている嘘を敢えて否定せず、成歩堂はいつも通りの口調と態度で対応した。
 が――。

『ちゃんとチビは面倒見るから、心配すんな』
「!?」

 リュウの隣に現れた、青年の域に入りかけた少年の風貌を一瞥するだに、思わず瞠目してしまう。

『おっさん、聞いてるんだろ!? ……ああ、アンタじゃないぜ、チビの兄さん。いけ好かない、気障ったらしい髭を生やしている奴だ』

 成歩堂も僅かばかりの無精髭を生やしているのだが、何故か綺麗に無視されているようだ。

『今度、俺の事を「ボウヤ」って呼んだら、あっついコーヒーをぶっかけるからな!?』

 威勢のよい台詞を最後に、ネットライブ映像は切り替わってスクリーンセイバーへと変化する。

「・・・・・」

 妙に間の抜けた沈黙が続いた後、毒気も抜けた成歩堂は気乗りしない態で口を開いた。

「二つ、質問があるんですが。……どうやって、リュウを連れ出したんです?」

 人懐こい弟だが、知らない人について行かないように繰り返し教えていたし、今まで言いつけに背いた事はなかった。

「ちっちゃいコネコちゃんを、責めるなよ? 電話越しじゃあ、アロマがドリップなのかインスタントなのか、区別はつかないからな」
「・・・・・・」

 成歩堂と似た声の部下に、成歩堂の口調を真似させて、『仕事でしばらく帰れないから、今から迎えに行く者の所に泊まっていてほしい』と弟を誘い出した事を、ゴドーは吐露した。

「で、もう一つの質問は何だい?」

 とりあえず弟の無事を確認できた事で、成歩堂はいつもの調子を取り戻しつつあった。
 ぐい、とニット帽の縁を引き下げ、その奥からボルハチの客を尽くリピーターにさせた妖冶な目つきでゴドーを見た。

「ゴドーさんに、お子さんがいるなんて知らなかったですよ。……いくつの時のお子さんですか?」

 画面の向こうにいたのは、年の頃十五・六歳の、いかにもやんちゃそうな少年。
 ライオンの鬣を思わせる髪の毛と目の色が漆黒なのを除けば、ゴドーの幼少期はかくやと彷彿させる酷似振りだった。

「ボウヤが俺のガキだとすると、俺が十二の時に、仕込んだって事になるな」

 全く悪びれず、ニヤリと質の悪い笑みを見せる。

「クッ…可能性は0じゃねぇが」

『――あるのかよ!?』
 内心で激しく突っ込む成歩堂を余所に、遠縁の子である事。
 ゴドーの稼業とは、全く関わりのない事などを告げる。

「ボウヤの小生意気な所は気に入らねぇが、ちっちゃいコネコちゃんの面倒はちゃんと見るだろうよ」

『間違いなく、アナタの血筋でしょうに』
 再びの突っ込みは成歩堂の表情からも読み取ったのだろうが、やはり都合よくスルーしてコーヒーを呷り、ゴドーは革張りの椅子から身を起こした。
 デスクを回り込んで成歩堂の前で立ち止まり、少し足を開き気味にしながら、スラックスのポケットに左手の指を二本だけ差し込む。
 そんな所作の一つ一つが憎らしい位、様になる男なのだ、ゴドーは。

「さて、Phoenix 。商談といこうか」

 二人の間に放たれたのは、成歩堂が三年前捨て去った、code name 。
 正確無比のスナイパーとして、裏社会では知らぬ者はなかったが。
 成歩堂にとっては三年間、一度として戻りたいと思った事はない、ただの過去。
 過去の亡霊を呼び起こすべく現れたゴドーを、倦怠でもない、阿るでもない、ただただ静かに凪いだ双眸で見返した。

「何がお望みですか? これだけブランクがあれば、ご期待に添えるとは、とても思えないんですが」
「クッ…豆は新鮮な内、と相場が決まっているが、中には熟成させる事によって魅惑のアロマを醸し出すモノもあるのさ」
「そんな話、聞いた事がありませんけど」
「今度、奢ってやるぜ」

 最後の一口を飲み干したコーヒーカップを一度成歩堂の方へ掲げ、カン、と後ろ手にデスクへと置く。

「アンタなら、すぐ勘を取り戻すだろうさ。何しろ、三年経った今でも、アンタ以上のスナイパーは出てきやしねぇんだからな」
「・・・・・」

 裏社会から逃げ出しても、常に注意深く動向は窺っていた。
 だからゴドーが大袈裟に言っているのではない事も、理解してしまう。
 最近のスナイパーは、いまいち質が悪い。スナイパーに求められる資質なんて、たった一つなのに。
 即ち、『殺られる前に、殺れ』。

「で、こんなロートルに何をやらせようと? キャンディスグループのジェノサイド?」

 最近小競り合いを繰り広げているらしい、敵対勢力の名を挙げると、ゴドーは短く、満足そうに喉を鳴らした。

「クッ… Phoenix 、『蒼い死神』は健在じゃねぇか。………そうだな。まずアンタには、ウチの専属になってもらう」

 ゴドーから条件を出されても、成歩堂の反応は細い眉を上げただけだった。
 以前の Phoenix は一匹狼で、利害関係抜きでどんな依頼も受けてきた。が、Phoenix ではなくなった成歩堂には、もうどうでもいい事。
 というより、拒否権はない。

「リュウが――」

 三年前、殆ど奇蹟の様な偶然で巡り会った、それまでは存在している事すら知らなかった実の弟。

「リュウが、健やかに暮らしている限り」

 以来、成歩堂はリュウの為だけに生き、死ぬと誓った。
 Phoenix を退いたのも、血生臭い金でリュウを育てたくなかったから。
 せめてリュウだけでも、光の世界で生きて欲しかったから。
 成歩堂には、望むべくもなかった。
 幸せなど。
 人並みの生活など。
 生まれてこの方、裏社会以外の世界を知らずに育ち、数多の生命を奪ってきたのだから繰り言を述べるつもりはない。
 だが、リュウには与えてやれる。
 成歩堂の何と引き替えてでも、リュウを幸せにする。
 成歩堂は覚悟という確固たる光を湛えた瞳で、真っ向からゴドーを見据えた。
 リュウは、ゴドーの手中にある。
 ならば、成歩堂に逆らう気などあろう筈もない。

「僕はゴドーさんに、忠誠を誓いますよ」

 一歩、前に出る。
 脇に垂らされていたゴドーの右手を、掬う。
 爪先まで『力』をイメージさせる指に嵌る指輪の一つには、『龍』の紋章が刻まれている。ゴドーの組織のシンボルマークだ。
 その紋章に口付けるのは、臣下の礼。
 忠誠の証。
 成歩堂は頭を下げ、躊躇う事なく指輪へ唇を触れさせようとした。

「――っ!?」

 が、接触する寸前で右手が引き抜かれ、翻ったそれは成歩堂の細い手首を握って強く引き寄せた。
 一秒にも満たない刹那で、0になった二人の距離。
 堅く引き締まったゴドーの肢体に、密着させられた成歩堂は。
 全身の細胞がゾワリと蠢くのを、まざまざと知覚した。
 仰け反る形で見上げた、ゴドーの精悍な面差し。
 不可思議な、色素の薄い朱い虹彩。
 凄惨だけれども、評価を貶めない真一文字の疵痕。
 通った鼻筋と、皮肉な笑みがよく似合う口唇。
 押し付けられた体躯の硬質な弾力と、外見からは予想できない熱さ。
 そして――『 Un arome illegal 』のミドル・ノート。
 ゴドーが成歩堂の感覚にもたらす刺激の熾烈さに、目眩すら覚える。
 焦点を合わせる事が難しい程の至近距離で、成歩堂の蒼みがかった瞳をヒタと凝視したゴドーは、低く押し殺した声を高みから降り注いだ。

「忠誠なんざ、犬にでも食わせちまえ」

 緋い双眸に潜む翳りが、今も昔も、成歩堂の心を捉えてやまない。
 合わせ鏡のごとくゴドーと成歩堂が共有する、絶望と孤独の寂寞。
 だがゴドーはそれだけで終わらず、極地の飢餓と、求めるものを全て手に入れようとする欲望と、それを実現させる剛鋭な意志が、瞳の深淵でそれこそ灼熱の焔のように踊っている。
 暗闇に沈む事をよしとしないその生命力を、成歩堂は含む所なく称賛したものだ。
 惹かれた、といってもよい。
 生を受けてから今まで、漣以上に心を動かされた事のない成歩堂の魂が、ゴトリと音をたてて揺らめいた位に。
 そう、もしも。
 人生に『 if 』なんて有り得ない事を最も知っている成歩堂でも、考えてしまう。
 もしもリュウの一件がなければ、ゴドーと成歩堂の関係は『何か』を生じさせていたかもしれない。
 しかし運命は、無慈悲に押し寄せ。
 決して埋める事のできない『刻』という溝が、広がってしまった。
 自ら進んで線引きした成歩堂は諦念と共に、瞼を閉じたのだが。

「俺が欲しいのは、アンタだ――まるほどう。身も心も全部、俺に寄こしな」

 耳朶から成歩堂を呪縛する、蠱惑的な旋律。
 注がれた甘やかな毒で、急速に成歩堂の自由は失われつつあった。
『まるほどう』
 ゴドーだけが紡いだ呼び名が、離れていた『刻』を飛び越えさせる契機となり。
 高圧的な宣告の次に成歩堂へ下されたのは、噛み付かんばかりの、支配欲とパトスと窮渇が複雑に絡み合った接吻。

「…んっ…!」

 呼吸をも奪い尽くす容赦ないベーゼは、成歩堂の眉を潜めさせたが。
 息苦しさと、ゴドーの鋭い歯で傷ついた舌の痛みだけが所以ではない。
 それらを易々と凌駕する、体中の骨をゼリー状にしてしまう程の悦楽。
 いくら上辺では、当の昔に忘却の河を渡ったのだと装っても。
 覚えている。
 細胞の隅々にまで、刻まれている。
 たった一夜きりの、泡沫の閨。
 たった一度だけ成歩堂の身体に移った、媚薬のように成歩堂を酔わせたラストノート。
 身動ぎすら許諾しない強さで拘束するゴドーの両腕以上に、ミドルノートから変化しつつある馨が、成歩堂を雁字搦めにする。
 もう、逃れられない。




 血の味のする、三年振りのキス。
 傷を負い、血を流し、この先の嵐が容易に予測できても。
 ゴドーの口付けは、身を蕩けさせ。
 ゴドーの存在自体が、成歩堂の絶対零度に凍り付かせた魂を呼び覚まそうとする。




 それ故に。
 二度と会わぬよう、何も言わないまま、ゴドーから離れた。
 ――ゴドーに会いたいと望むのは、許されない我が儘だと知っていたから。




                                          


いろんな意味で終わっているこの話を、救済して下さった桂香さまには感謝してもしきれません。なのに、恩を仇で返しているような気が…(汗)