予感:前編




 予感は、あった。
 いつかこんな日が来ると、意識の奥深い所で識っていた。
 『彼』から逃れるのは、不可能だと――。




 いくらぼんやりと後ろの柱に寄り掛かり、眠たげに半分瞼を閉じていても。
 『ニット』や『ニットさん』と呼ばれる男――彼の本名が『成歩堂』である事は、店のオーナーも知らない――の神経は、ボルハチの店の隅々にまで張り巡らされている。
 『今夜も、何事もなく過ぎそうだな』
 『もうちょっと、温度を上げてくれればイイのに』
 『リュウへのお土産は、何にしようか…』
 どんどん、仕事から外れていく思考。

「!」

 ゴソゴソと身動ぎした成歩堂の琴線が、異質なものを感知したのは一秒後。
 その気配を感じる、一秒前。
 先んじてふわりと届いた匂いは、『 Un arome illegal 』。
 そのオードトワレは馥郁としたアンバーを基調とし、その中に何とも表現しがたい複雑なスパイシーさを漂わせている。
 『彼』の為だけに調合された、この世で彼だけが纏う香水。
 懐かしい香りによってもたらされた衝撃はかなりの所大きかったが、それを素直に表すような成歩堂ではなかった。

「……今日は、リクエストを受け付ける気分じゃないんですよ」

 行儀悪く瓶の口から直接グレープジュースを呑みながら、振り返りもしないで億劫そうに呟く。

「つれない事を言うなよ、コネコちゃん」

 ――ああ。
 肌の表面を切なく擽る、官能的な憂いを帯びた声。
 独特の揶揄するような喋り方も、意味不明な呼び方も、記憶の深層に押し込まれていたものと寸分変わらない。

「それに『一見さんはお断り』って、オーナーから聞きませんでした? こう見えても店のルールで、お高く設定されちゃってるんでね」

 振り返らなくても、迂闊に言の葉にのせてはならない『ゴドー』という名を持つ彼である事は、重々承知していたが。
 成歩堂はよいしょと漏らしながら半身だけを捻り、トレードマークのニット帽の影から大儀そうな目つきで見上げ、口振りだけは当たり障りなく繕ってみせた。
 あくまで初対面を強調するのは、関わりを拒絶する意志の現れ。

「クッ…アンタがお安くないのは、よく知ってるぜ」

 仄暗い照明を背に、圧倒的な陰翳を造り出すゴドーは、特徴的な双眸を隠す為にサングラスをかけていたけれど。
 鋭角に持ち上げた口端といい。
 きっちり整えられた顎髭といい。
 消し去ったつもりでその実、一片たりとも欠けていなかった記憶のままだった。
 いや、重ねた月日の分だけ。
 雄の、危険な色香が増しているのが、唯一の変化と言えるかもしれない。

「正当に評価した値段を、つけたつもりだ。いつだってな。そうだろう?、………」

 ほんの少しでもどちらかが動けば接触してしまう位置で立ち止まり、ゴドーは最後の一言を低く――成歩堂以外は聞き取れない音量で送り出した。
 『 Phoenix 』、と。
 だが成歩堂の目線も、だらしなく柱に凭せかけていた上半身も、一切の揺らぎを見せない。

「どなたかと、お間違いのようですね。僕は、ただのしがないピアノ弾きですよ?」

 口元だけで笑みを形作り、惚け続ける。
 三年の間に身に付けた、のらりくらりと煙に巻く技術は相手が納得しようがしまいが関係ない。
 逃れられれば、それで充分なのだ。相手が突き付けられる証拠など、この世には存在しないのだから。
 しかしゴドーは、証明など間怠い事はすっぱり省いて、ただ、見せつけた。
 己の力を。
 成歩堂ですら逃れられない、運命の軛を。

「!?」

 ポン、と成歩堂の膝へ落とされたモノを見るなり、成歩堂の雰囲気は一変した。
 それまでの茫洋とした、掴み所のない仮面をさっと取り払って。
 殺意が実体化したならば、大量殺戮も可能になりそうな険しく苛烈な眼差しでゴドーを射抜く。

「おっと。アンタを敵に回したい訳じゃねぇ。……意味は、分かるな?」

 捕らえてはいるけれど、五体満足だと――傷付けてはいないと言外で告げる。

「いやだなぁ。脅かさないで下さいよ」

 全身の強張りが解け、一瞬の激昂を恥じるかのようにニット帽を更に深く被り直す。
 ゴドーはまさしく脅迫しているのだから、成歩堂のぼやきは皮肉に他ならない。

「とりあえず、場所をかえましょうか」

 無事と教えられても確証が得られるまでは安心できず、成歩堂はグレープジュースの瓶を手荒くサイドテーブルに置いた。
 無意識に、手の中のピンクのマフラーを握り締める。
 所々編み目が不揃いなそれは、成歩堂が弟のリュウに編んでやったものだ。
 リュウはとても喜んで、毎日毎日身に付けていた。
 リュウこそ、成歩堂が今、生き長らえている意味。
 たった一つの、存在意義。
 弟を守る為なら、成歩堂の持てるモノ全てと引き替えても、何ら惜しくはない。

「クッ…せっかちなコネコちゃん、嫌いじゃないぜ?」

 腰を浮かせかけた成歩堂の肩に置かれた、大きな手。
 その質感と温もりに、さっと肌が粟立ったのを、果たして気付かれてしまっただろうか――?

「だが、慌てなくていい。――まずは、リクエストに応えてくれ。チップは此処に置くぜ」

 節くれ立った、太い指輪が幾つも嵌められた指が流麗な仕草でリクエストカードと紙幣を譜面台に滑らせる。
 肩に添わされた手は人差し指だけが残り、肩から項のラインを、皮膚の下に眠る『何か』を呼び覚まそうとするかのごとく、ついと撫で上げてから、離れた。
 ――男の香りは、幾分遠ざかったのに。
 拘束は、数秒にも満たなかったのに。
 酷い酩酊感に身体の芯を揺さぶられた成歩堂はきつく双眸を瞑り、意識を切り替えるべくリクエストカードへ視線をやった。
 けれど。
 カードに書かれていたのは、『 Fantaisie-Impromptu in C sharp miner,op.66 』。
 その文字が網膜に刻まれた途端、奔流となって成歩堂を攫ったのは、三年も前の、それでいて全く色褪せない一シーン。



『それは、何て曲だい?コネコちゃん』
『だから、その呼び方止めて下さいって……。ショパンの幻想即興曲ですよ。お気に召しましたか?』
『――内に秘めたる焔、って印象だな。クッ…アンタによく似合うぜ、Phoenix 』



 気がつかぬ間に潜めていた息をほう、と零すと。
 決まり悪い思いをする位、甘やかな艶を含んでいた。

「どうやら選択の余地は、なさそうですね」

 それを誤魔化す為、殊更ぎこちない声を出して成歩堂はピアノへと向き直った。
 たちまち、店内がざわつく。




 成歩堂は、一応ボルハチの専属ピアニストとしての位置づけだったが。
 客が一番多く見掛けるのは、ピアノの前かカウンターの奥隅で身体を丸めてグレープジュースを呑んでいる姿。
 次に、常連客と話していたり、店が忙しい時にはウェイターもどきもやる。
 そして偶に、オーナーや常連客に強く請われれば、地下室で無敗記録を伸ばし続けているポーカーゲームをやったり。
 更に極々稀に、本来の業務であるピアノを弾いてみたり。
 最後に――これは目撃したという客が現れないので、店側が流した作り話ではないかと思われているのだが――用心棒として、働いたり。
 五番目の『用心棒モード』は殆ど都市伝説の部類に入る為、成歩堂がピアノを弾くという最も稀少価値の高い場面に遭遇できた僥倖を、居合わせた客達は喜んだ。




 最後の一音が哀しげな余韻を残しつつ、高い天井に吸い込まれ。
 沸き上がる拍手へおざなりに会釈しながら、成歩堂は譜面台のリクエストカードを取り上げた。
 ラスト一小節が終わる前に、ゴドーが消えたのは気配だけで把握していたから、『手がかり』が必ず此処にある筈なのだ。

「相変わらず、高尚なんだか、気障なんだか…」

 予想通り、チップの紙幣に紛れ込んでいたのは高級老舗ホテルのカードキー。
 あの街でも、ゴドーは好んでこのホテルグループを利用していた。
 カードの重厚な造りと、刻印されたルームナンバーから察するに、招待されたのはエグゼクティブルーム。
 またぞろ喚起される想い出が、成歩堂の身体に小さな熱を灯したけれど。
 今は感傷に浸るよりも、優先すべき重要事項がある。
 重苦しい溜息をつきながら、成歩堂はオーナーに早退の許可をもらおうと立ち上がった。





 三年前、全てを置き去りにした事に、後悔はない。
 ただ。
 この罪深い身に神の憐れみが施される事があるのなら、迷わず願っただろう。
 もう一度、『彼』に会わせて下さいと――。


                                          


……いろんな意味で、すみません(泣)