先手必勝





「ま、て……っ、て…! …みつ…っ」
 押し退けようと御剣のぶ厚い胸板に突っぱねた手は、1pも効力を発揮せず、制止の言葉も後半は御剣の口腔内へ舌ごと吸い上げられてしまう。
『ああ、これはヤバイ…』
 御剣の巧みで容赦ないベーゼと押し付けられる下肢への刺激とで、どんどん熱くなっていく肉体と反比例して、成歩堂の思考はすうっと冴えていった。




 来たくは、なかったのだ。
 マズイとの予測は訪れる前からしていた。
 何回かメールや電話で遣り取りはして、裁判所では対決したり(結果は言わずもがな)ニアミスはあったものの。二人っきりの空間に収まったのは、優に一ヶ月半振り。
 何も、意図的に避けていたのではない。
 珍しく依頼が幾つも舞い込んだ為に崖っぷちモードで連日走り回り、平時なら大抵御剣の家へ泊まっていた休日も、返上して仕事をするか自宅で泥のように眠りこけ。
 『多忙』が基本スタイルと言ってもよい御剣が、それでも上手くやり繰りして時間を作りだしては何度も成歩堂を誘ってくれたのだが、ことごとく成歩堂の都合で食事すら断わり続けていたとくれば。
 御剣が煮詰まっている事は、容易く想像がついた。
 メールの文面や短い会話、擦れ違う時に寄越される視線も、日に日に切羽詰まったものになってきていたから。
 どうしても必要不可欠な書類がここ、御剣の執務室にしかなければ、誰が来るものか。
 長い期間絶食させられた猛獣の檻に、わざわざ飛び込むようなものだ。
 故に、尤もらしい理由を付けて糸鋸刑事と二人で訪れ。どんなに多忙かをさりげなく、しかし明瞭に織り交ぜながら会話して、さっさと退散しようとしたのだが。
「イトノコギリ刑事。今すぐ捜査に戻らないと、今月の給与査定がどうなるのか分かっているのだろうな?」
「ハッ! 御剣検事どの、今すぐ戻るッス〜!!」
 生殺与奪権を握った男の一言で、糸鋸はあっという間に消え失せ。
「じゃ、僕も失礼するよ」
 成歩堂も慌てて鞄を引っ掴んで糸鋸の後を追おうとしたが、御剣の執念はそれを許さなかった。
「うわっ!」
 立ち上がりかけた成歩堂の肩が強く押され、ソファに逆戻りした隙に、御剣は執務室の鍵をかけてしまう。
「生憎、貴様にはまだ用事があるのだ。残ってもらわねば、な」
 やはり猫科肉食獣のような敏捷さで成歩堂の上にのし掛かると、成歩堂の抵抗をものともせず体全体を使って拘束し、文字通り上から宣告した御剣の目は、完全に据わっていた。
 『ヤバイ』
 危険信号が明滅する。今回限りは、ふてぶてしく笑っている場合ではない。
「み、御剣。僕もなかなかゆっくりできる時間が取れなくて、残念なんだけど」
 できるだけ、理性的に。かつ不必要に御剣を煽らないように。御剣と会えなくても平気だったという部分を、まず否定して。
「どうしても、外せないアポを控えてるんだ」
 以前は真面目すぎて黒い噂を引き摺る程だった、職務への真摯さを突き。
「もう少ししたら、片がつくから。待って、くれよ?」
 羞じらいつつ、恋人ならではの甘えをちらつかせる。
 研究に研究を重ねて編纂した『御剣マニュアル』に従って、成歩堂はピンチレベル4を切り抜けようと試みた。
 が、恐ろしい事に。今日の御剣は、最高ランクの『レベル5』まで到達していたのだ。
「もし貴様が信用を失って、弁護士稼業が立ち行かなくなったとしたら……」
 端整な面に浮かぶ邪悪な笑みは、そこいらのホラー映画より肝を冷やす。
「喜んで、責任を取ろう」
 寧ろその方が好ましいのだ、と涼やかな切れ長の双眸に宿る光は、奸計とその結果への期待に異様な雰囲気を湛えており。
 『御剣マニュアル』によると、最低最悪の展開だった。成歩堂のハッタリが通用する域を越えている。
 このガッツキ具合からすると、2・3時間は間違いなく執務室に監禁されるに違いない。
 その後仕事ができるだけの余力が残るかといえば、『No』に決まっている。
 冗談ではない。
 今日はこれから依頼人にあって、現場に行って、必要書類を提出して、とやらなければならない事が目白押しなのだ。スケジュールを崩す訳にはいかなかった。
 万年発情期の、変態検事の所為で。
 そんな男を一応『恋人』にしている事は、今日だけ無視だ。
 かといって、妙な境界に入った御剣から逃れるのは、至難の業。
 最終兵器、『別れるぞ』を繰り出せば、何とかなるだろうが。
 後々厄介だから、乱発は控えたい。
 となると、成歩堂が打てる手は限られてくる。

                                          


この後は、黒ナル発動。訳あって積極的ですので、お嫌いな方は読まないで下さいませ〜。