午前一時の恋人
金曜の夜。
いや、日付変更線を過ぎた土曜の午前一時頃。
王泥喜は、恋人に会いに行く。
「成歩堂さん、お疲れさまです!」
ボルハチの裏口から成歩堂が出てくると、王泥喜は凭れかかっていた壁から身を起こし、足取りも軽く近寄っていった。
「ん……王泥喜くん、お待たせ」
いつもの気怠げな口調と、ぼやけた微笑ではあったが。濡れたような艶を宿すオニキスの双眸は、ちゃんと王泥喜を映し出しており。
それだけの事で、王泥喜の気持ちは高揚する。
「じゃ、行きましょうか。風が冷たいですけど、オレのジャージを着ますか?」
カレンダーは4月に切り替わったばかりで、この時間帯は未だ肌寒く。しかも今夜は北風が強く吹いている。
一年中代わり映えのない格好をしている成歩堂を気遣えば。
「王泥喜くんにくっついていれば、大丈夫じゃない?」
自転車の荷台へ跨った成歩堂が、ペタリと上半身を擦り寄せてくる。
「は、はい!オレ、大丈夫ですっ」
背中にしがみつく以上の乱れた関係であるにもかかわらず、ボワッという擬音が聞こえそうな位に真っ赤になった王泥喜が叫び。
「……TPOを考えようね」
何十回目か分からぬ小言を頂戴してしまった。
ほぼ毎日、成歩堂とは会っているが。
月曜から金曜までは『成歩堂なんでも事務所所長の父親』と『成歩堂なんでも事務所に所属する新人弁護士』の間柄。
両想いになって日が浅く、実年齢も精神的にも青春真っ盛りの王泥喜が、成歩堂の垂れ流しのフェロモンにやられてしょっちゅう暴走するとはいえ。
だらしがなくとも、要所要所で線引きする成歩堂は。王泥喜の突発的な我が儘は許容しても、恋人モードを認めるのは、仕事が休みの時だけ。しかもみぬきの父親という牙城は、難攻不落だから。
何回もの交渉と泣き落としと青年の主張の末、金曜の夜、ボルハチを引けてから、土曜の朝、学校が休みのみぬきが普段より遅く起きる8時までの約7時間を、王泥喜は恋人タイムとして獲得した。
たった数時間だけれど、王泥喜には本当に貴重で。
金曜の仕事が終わって一旦自宅に戻り、仮眠を取って軽い食事の用意をしてから、ボルハチまで自転車で成歩堂を迎えに行く。もう終電はないし、タクシーを使える余裕はないし、車なんて持っていないし。
法律家として二人乗りをするのは気が咎める王泥喜は、少ない収入を必死にやり繰りして、後もう少しでバイクが買える所まで資金を貯めている。
「ちょっと寄り道していいですか?」
先程注意されたので、風に飛ばされない程度の音量で話しかける。
ん〜だの、むーだのの返事というより呟きが、顔をくっつけている為に背中から内臓を伝わって聞こえてきた。くすぐったいのと幸せなのとで、ペダルを漕ぐ足にますます力が入る。
「ここです、成歩堂さん。よかった〜、まだ散ってませんよ!」
王泥喜が連れてきたのは、土手添いの桜並木道。数日前満開になったと近所のおばちゃんから聞いていた、花見の穴場。
暖かくて風の強い日が続いていたから半分諦めていたが、ギリギリセーフだったらしい。
「綺麗だけど、今夜で散っちゃうねぇ…」
よいしょ、と気の抜ける掛け声で荷台から降りた成歩堂は、やっぱりぼんやり巨木を見上げている。でも目線や緩く弧を描いた口元に楽しそうな色を見つけ、王泥喜も嬉しくなった。
地元の人しか知らないスポットで、しかも真夜中という事もあって、夜桜見物に来ていたのは王泥喜と成歩堂のみ。
暗闇の漆黒が、桃色の花弁を幻想的に引き立て、まるでピンクの雨が降っているようだった。
ざぁっと一際大きな葉擦れがして、今度は雨でなく、ピンクに染まった風が吹き荒んだ。目を開けているのに視界は桜一色で、すぐ側に立っている成歩堂の姿さえ霞む。
「成歩堂さん…?」
馬鹿馬鹿しいかもしれないが。
その瞬間、王泥喜を襲ったのは喪失の恐怖。
この桜のベールが消えた時、成歩堂も一緒に掻き消えてしまうのではないかという。
「うわぁ、すごい風。花びらまみれになっちゃったよ」
生じた焦燥に促されるまま一歩を踏み出せば、あちこちにピンクの点をくっつけた成歩堂に触れる。
顔についた花弁を払っているその手を掴んで引き寄せ、前のめりになった成歩堂の首に腕を廻してぎゅうぎゅうに抱き締めた。
「お、王泥喜くん? 苦しいんだけど…」
身長差故にちょうど胸の辺りが一番圧迫される格好になり、戸惑った成歩堂が呼び掛ける。応じて力は緩めたものの、王泥喜は脚から頭までも隙間なく寄り添わせた。
「……成歩堂さん。お願いですから、どこにも、行かないで下さい」
まるで子供が母親から離れるのを嫌がるような必死さに、唐突な発言ながら見過ごせない切迫さを聞き取ったのだろう。成歩堂は王泥喜の背を、2・3度柔らかく撫でた。
そして、成歩堂を拘束したまま強張っている王泥喜へ、柔らかい声で話し掛けた。
「王泥喜くんは、散華に引き摺られちゃったのかい?」
「?」
「『散華の嘆き』って聞いた事ない?」
「いいえ」
『桜の木の下には死体が埋まっている』ならともかく、その噂は知らないと告げると、成歩堂は異聞を教えてくれた。
ただでさえ桜は、他の木より華の咲いている期間が短いのに。風や雨で華が無残に散らされると、早すぎる別れを惜しんで、桜の木が嘆くのだという。
はらはらと散る花弁は、まさしく桜の落涙で。
「花が散るのを見て哀しいと思うのは、桜の嘆きにシンクロするからなんだって」
離れ、奪われ、別れなければならない哀しみがそこかしこに渦巻いて、人に影響を及ぼすのだと。
今更、桜ネタ。何となく、今回のオドナルはピンクなイメージだったので。
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