Rainfall:1




 何故、とか。
 どうして、とか。
 裏切られたという衝撃は、なかった。
 けれど、心臓から流れ出る血液と共に全身に広がっていく寂寥が。
 圧倒的な過重で、成歩堂の心を打ちのめす。




 御剣が眉間の皺を一層深くして。
 数度の逡巡を経て、薄く整った口唇を仰々しく開く前から。
 不思議と成歩堂には、告げられる言葉が分かっていた。
 ずっと御剣を追い続けていたからかもしれないし。
 トータルの年数は少なくとも、密度の高い時を過ごした所為だろうか。
 単純に、第六感が働いたとも考えられるが。
 理由はどうでもいいけれど、とにかく予想できていたが故に。
「海外研修が、決まった」
 喜ばしい事なのに、まるで懲戒免職を食らったかのごとく沈んだ口調だった御剣とは対照的に。
「ふぅん。おめでとう」
 成歩堂は至極あっさり祝辞を述べた。
 皮肉も嫌味も含みもなく、ただ純粋に。
「な、成歩堂…?」
 未だもって完璧主義を貫いている御剣は、この一言を告げる前に、様々な角度でシミュレーションしてきたのだろう。しかし今の、あまりに平然かつ平素に過ぎる成歩堂の反応だけは、予測していなかったに違いない。
 戸惑いを前面に押し出して、ただ成歩堂の名を伺うように呼ぶ。
「期間はどれくらいなんだ?」
「3年、を予定している」
「ふぅん。頑張ってこいよ」
 先程に引き続き、日常会話でもしているかのような態度でやり取りした後で、『ふぅん』を繰り返してしまった事に気付く。
 内心の臍噛みは表情には出ていなかった筈だが、いつも以上にアンテナを張り巡らせている御剣は、その小さなミスを見逃してくれなかった。
 成歩堂の動揺を見つけ出した事で、御剣のシミュレーションと対応策はようやく始動したのか、ソファの上で居住まいを正し、真剣な眼差しを成歩堂へ向ける。
「その…成歩堂……アレ、だ…」
 しかし、実際口にしたのは何とも躊躇いがちの、要領を得ない言葉。
「ウム…非常にアレなのは、分かっているのだが……」
 いつもなら『アレって何だよ。いい加減、その代名詞使うのやめれば?』位の指摘をするか。
 本当に御剣の言いたい事が見当もつかないという振りを装って、どこまでモジモジが続くか、御剣の動向をのんびり眺めているのだが。
 今日の成歩堂はどちらもせずに、早々と助け船を出した。
「はっきり言えば? 罅がスゴイ事になってるぞ」
「ム……罅ではない」
 焦って、困惑して、進退窮まったのか皺を増やした御剣がおかしくて、成歩堂はからかうように促した。
 ニヤニヤ笑いも付けてやれば、決して否定的ではない成歩堂の笑みに安堵したのか、傍目から見て分かる位に御剣の肩から力が抜ける。
 『笑われてホッとするなよ。お前はマゾか』なんて痛烈な突っ込みも今日は押し止め、御剣の言葉を待つ。
「必ず、帰ってくるから。なるべく早く。だから……待っていてくれるだろうか? 身勝手なのは承知の上で、敢えて言わせてもらう」
 たとえ辿々しくとも、考えに考え抜いて出した真意を嘘偽りなく告げる御剣の真摯さは、好ましかった。
 100点満点なら、120点に値すると思った。
 だから。
 ニッコリ、皐月の蒼天にも匹敵する爽やかさで微笑み。
 大きく頷いて、万が一にも誤解のないよう明瞭にはっきりと、成歩堂は宣った。
「ふざけんな。待ってられるか」
 ピキ、と面白い位見事に、白皙の美貌が凍り付いた。
 ショックで。
 身勝手だ、と自分で言いながら心のどこかで期待していたのも確か。
 そんな感情の移り変わりが丸分かりで、成歩堂の演技は長く続かない。
 鉄面皮だの無表情と言われる御剣だが、成歩堂にとっては案外、読み取りやすくて。
 そんな所も、好きだった。
「って言ったら、行ったまんま戻って来ないのか?」
「ム………」
 真面目で融通のきかない御剣だから、本心がどうあれ成歩堂が強く出たら、性懲りもなく失踪するかもしれない。その可能性を探る為のブラフだったのだが、御剣の視線が泳いだ所を鑑みると、やはり強ち的外れでもないらしい。
 すとん、と成歩堂は全てのガードを解いた。
「待っている。幾らでも。そう約束すれば、お前が戻ってくるのなら」
 ヒタリと御剣の視線を捕らえた成歩堂は、再び笑ってみせた。
 先刻とは打って変わって静かな、完全に閉まっていないカーテンの隙間から差し込む、蒼白い月光を想起させる雰囲気で。


                                          


シリアスです…そして、別れ話ではありません(汗)