proud of you:1




「いらっしゃいませ」

 完璧な角度の礼と、高度に訓練された歓迎の笑顔に出迎えられた成歩堂は、待ち合わせだと告げてやんわり案内を断った。
 暗いともいえる控えめな照明は人を探すのには不向きだったが、一度バーの店内を見渡しただけですぐに目的は果たせた。
 成歩堂の位置からは、白に近い鬣のような銀髪と、剛梗さを秘めた背中しか見えなかったが、それで十分だ。あんな稀有なフォルムを有するのは、2人といない。
 テーブル席にいた2人連れの女性がちらちらとゴドーの方を窺っては、興奮した様子でキーも高く話しているが、無理もないだろう。
 バーカウンターの平均より高いスツールに腰掛けていても、余裕で床に足が届くずば抜けた長身。
 鼻筋の上を横切る傷と、薄く色の入った眼鏡の奥にある双眸は朱という一般人と懸け離れた容貌も、接近するのは危険だと分かっていても女心を惹き付ける要素になってしまうようだ。
 しかもゴドーには、40とは信じがたい精悍さと、酸いも甘いも噛み分けた者だけが持てる中庸が、矛盾する事なく同存している。
 外見の奇抜さ、内側から滲み出る独特の雰囲気で、良くも悪くも耳目を集める男が自分の情人かと改めて思うと、成歩堂は複雑な気分に陥る。
 ゴドーに懸想されると困るから、他人に見せるのは嫌だな、とか。でも大声で、大切な人なんですと叫んでみたい、とか。
 涙で昇華する事もできない切なさと、脆く溶けそうに甘ったるい愛しさ。
 それらを気取られぬよう全て薄い微笑みの下に隠し、成歩堂はゴドーに近付いていった。
 足音はたてなかったが、気配にも聡いゴドーは距離が縮まるのにあわせてスツールを回転させ、成歩堂が歩みを止めた時には真正面を向いて成歩堂を出迎えた。

「お待たせしました。ゴドーさん」
「クッ……一秒でも早くアンタに会いたくて、待ちきれなかったのさ。時間にきっちりなコネコちゃん、嫌いじゃないぜ!」

 体重を感じさせない動作で立ち上がり、成歩堂のコートをするりと脱がす。

「……しかも、念入りに毛繕いしてきたみたいじゃねぇか」
「いや、ネコじゃないんで、毛繕いなんてしませんし」

 『毛繕い』ならぬ『装い』に対するゴドーの驚愕は、次の台詞を発する前の、一瞬の空白だけだったけれど。歳月を重ねて大抵の事は鷹揚に受け流すスキルを身につけたゴドーだから、成歩堂の仕掛けた悪戯は成功したといってよい。
 ニット帽とパーカーとサンダルと無精髭。
 この4種の神器は7年前の決着がついた後も標準装備ではあったが、少しずつそれ以外――ジーンズやシャツやジャケットも着るようになってきた。
 けれど今夜、成歩堂がチョイスしたのは。
 Y体をベースに、着丈は短めで細身なナロー・ラインにした Dove Color のスーツ。
 仕立ての生地は非常に柔らかい素材で、脇に入ったダーツの効果も相俟って、成歩堂が動く度に胸からウエストのタイトな線をそこはかとなく露わにする。
 光沢を抑え気味にしたシルクのシャツは、スーツと同系色で数段階淡いPearl Greyをあわせ。
 ネクタイだけが、過去の面影を残したSaxe Blue 。
 生やしてる意味はあまりねぇな、と揶揄される髭も綺麗に剃り。
 ビジネス用でもないスタイリッシュな服装に、センスのよいゴドーがどういう判断を下すのか楽しみだったのだが。

「まぁ、座んな。何にする?」

 上から下まで眺め下ろした視線こそ、寝室で丸裸に剥いた成歩堂を組み敷いた時を想起させるものだったが、それ以外のコメントはないまま、着席を促される。
 厳しくも的確なゴドーのお眼鏡に叶わなかったのか、と多少なりとも誉め言葉を期待していた成歩堂は意気消沈したが。
 スーツを着用した本来の意図は、自分なりのケジメだからと気持ちを切り替えてオーダーを出す。

「……ギムレットを」
「二杯目は、ソルティ・ドッグを頼むぜ」
「かしこまりました」

 バーテンダーが会釈して、ゴドーの空になった――変わりなく、ゴドーの1杯目はウォッカ・マティーニのようだ――カクテルグラスをさりげなく下げていった。
 すると、前触れもなくフイ、とゴドーが顔を寄せた。
 内緒話でもするように、唇を成歩堂の耳ギリギリへ近付ける。
 バーテンダーは注文のカクテルを作るべく、少し離れた場所へ移動したし、カウンターには5席離れた所にしか別の客がいない。
 声の音量さえ抑えればこんな体勢をしなくても他の人には聞こえないのに、と成歩堂は不審がりながらもゴドーの言葉を待つ。

「・・・・・・・・・」

 ――それから、バーテンダーが注文したカクテルを持ってくるまでの数分間。
 ゴドーは成歩堂の耳朶へ、尾てい骨直下型の低く響く声で囁き続けた。
 話の内容を要約すれば、『カウンターの上に成歩堂を寝かせ、そのソソられるスーツを乱して弄びたい』という事なのだが。
 淫靡で、卑猥で、不道徳で、放送禁止用語と擬音を多用した言葉で、まるで官能小説を朗読するかのごとく事細かにゴドーの『願望』を語るものだから。
 声と。
 吐息と。
 時折、偶然を偽装して皮膚へ触れる、唇による刺激と。 
 赤裸々で悖徳的な単語の羅列とで。
 成歩堂は、実際にゴドーが話す一部始終を我が身に施されているような錯誤に嵌ってしまい。
 呼吸が速くなり。漆黒の双眸は濡れ。シャツやスラックスに覆われた肌は、布が擦れるだけでも鋭角な疼きを覚え始めた。
 スツールに腰掛けていなければ、下肢が砕けて床に座りこんでしまったに違いない。

「お待たせしました」

 バーテンダーがカクテルを運んできたのは、まさに聴覚から侵蝕した甘い毒が、末端神経までを痺れさせた時だった。

「あ、ありがとうございます」

 ゴドーに散々嬲られて為す術もなく横たわっていた筈の、磨き込まれた1枚板へ涼しげなカクテルが置かれ、目覚めながらにしての淫夢は、ぱっと霧散する。
 しかし肉体の反応までが、1秒で収まる訳もない。
 慌ててバーテンダーを振り仰いだ成歩堂の瞳は情欲に蕩けていたし、眦と頬骨の辺りが桃色に咲き、口唇は純白の歯を微かに覗かせて芳しい吐息を漏らしていた。

「――」

 バーテンダーとして、感謝と歓迎の意以外のあらゆるマイナスの感情を排除するように、厳しく己を律する事から学んできたが。
 不埒すぎる色香に魅入られた彼は、暫し完全に職務を放棄してしまった。

「端の客が呼んでるようだが、ほっといちゃマズいんじゃねぇかい――?」
「あ………失礼致しました。どうぞごゆっくり」

 抑揚をつけないゴドーの指摘に――ほぼ恫喝に近い迫力だった――バーテンダーは硬直から解かれ、マニュアルに載っていない早さで成歩堂達の前から去った。

「ひどいですよ、ゴドーさん……」

 バーテンダーの様子から、発情した様を見せてしまったのだと気づいた成歩堂は、八つ当たり気味にゴドーを詰った。こんな公の場所で煽られる自分も節操がないと、羞恥するものの。
 成歩堂がどんなにゴドーの手管に弱いか知っていながら、誘惑するゴドーにも罪はある。

「悪かったな、コネコちゃん。ちと調子に乗りすぎたみたいだぜ」

 未だ小刻みに震える肩を眺め、珍しくゴドーが素直に謝った。

「……アンタのそのスーツ姿を見たら、ここがどこかってコト、頭から消えてなくなっちまったのさ」

 ゴドーの朱眼は、剣呑にも見える鋭い光を湛えていた。それが劣情を抱いた時の眼差しだとよく知っている成歩堂の背筋を、痺れが駈けあがる。

「よく、似合ってるぜ。他にもトチ狂うやつが出る前に、剥ぎ取ってしまいたい位に、な」

 バーテンダーが失態を見せたのは、スーツの所為ではなくゴドーのちょっかいが原因である。
 回りくどい物言いは無論の事、スーツの褒め方も、もう少しシンプルにしてほしいのだが………ゴドー相手では、言っても詮無い事なのだろう。





「遅くなっちまったが、乾杯するか」
「あ、今夜は僕が音頭をとってもいいですかね」

 グラスを持ち上げながら、成歩堂は企みを含んだ嬌笑を向けた。

「主催はアンタだ。異議はねぇぜ」

 そう、7年前まではゴドーと何度も訪れ、事件が起こってからは一度も足を向けなかったこのホテルのバーに誘ったのは成歩堂の方だった。

「何に乾杯するんだい?」
「そうですね………弁護士復帰に、っていうのはどうです?」
「――――」

 さらりと発した言葉。
 驚くか。
 喜んでくれるか。
 黙っていた事を怒られるか。
 のんびりしすぎだと説教されるか。
 どれかだと成歩堂は予想していたのだが。
 ゴドーの反応は、どれとも違った。


                                          


スーツの組み合わせは、真剣に考えてはいけません(笑)