恋の嵐:2
「挨拶も抜きなんて、これだから検事は虫が好かねぇんだ」
狼が獰猛に睥睨し、これ見よがしに成歩堂を揺すり上げて抱え直す。
ビキッ、と御剣の眉間の皺が深くなった。秀麗な貌が怒気を漲らせている様は、かなりの迫力で。
「社交辞令など、貴公には必要なかろう。暖めたい旧交も存在しない筈だ」
居丈高にすら見える口調と表情で言い切り、冴え冴えとした視線を狼の腕の中にいる成歩堂へと巡らす。すっぽりと抱かれた成歩堂を視界に映すなり、御剣の柳眉がますます吊り上げられた。
「成歩堂。君もいい年をして、稚気な格好を晒すのではない!」
「は、はいっ!」
ガッシリした肩の背後に成歩堂の大嫌いな稲光が見えたのか、成歩堂はビリジアンになって慌てて飛び降りた。
「服装が乱れてるぞ? 君も弁護士の端くれなら、身嗜みにも気をつけなければな」
次々と小言を繰り出しながら、咎める口調とは裏腹に御剣の手は甲斐甲斐しく成歩堂のネクタイを直し、シャツの皺を伸ばし、トゲトゲを撫でつける。
「以後、注意します・・・。ありがと、御剣」
決まり悪げに首を竦める成歩堂も、大人しく御剣にされるがまま委ねていて。それは二人の親密さを狼に告げた。
しかも御剣は成歩堂の腰に手を廻して引き寄せ、成歩堂の頭越しに挑発的な目付きを投げ付けてきた為に、ギリ、と狼の奥歯が軋む。
「お偉い検事さんは、会議中なんだろ? 龍一は俺に任せて、仕事へ戻ったらどうだ?」
御剣が今の時間、会議に出席している事も。成歩堂が御剣に会いに来たのではなく、書類を提出しに来た事も、調査済み。
だからこそ、御剣の目と鼻の先で成歩堂を略奪しようと画策したのに、計画が狂った。
「大切な用件があったものでな。会議なぞ、後回しだ」
「ふぅん」
実は狩魔冥から、狼が事件とは関係なく入国し検事局へ向かっているとの情報をもらって、御剣もまた成歩堂が今日来局する事を知っていたので、嫌な予感に促されるまま会議室を飛び出してきたのである。
『大切な用件』が何であるかを承知している御剣と狼は、剣呑な視線をクロスさせ。一人だけ分かっていない成歩堂は、
「ごめん、引き留めちゃって。早く行った方がいいんじゃないか?」
と、天然っぷりを炸裂している。
「構わん。もう用事は済んだ」
『用事』を手中に収めた御剣は悪びれず成歩堂のボケをスルーし、安心させるように成歩堂専用の美麗な微笑みを披露した。
「会議も予定より早く終わりそうだ。・・執務室にフレイバーのシフォンケーキがあるから、それでも食して待っていたまえ」
「フレイバー! あれ、好きなんだよなぁ」
成歩堂の好物だから、わざわざ取り寄せておいた事などおくびにも出さない御剣は、狼から成歩堂を隔離するべく誘導を始めた。
「おっと! 龍一、俺との約束が先だろう? いや、お偉い検事さんが会議をしてる間に、その菓子を食って、それから移動すりゃあいいか」
仔羊を捕獲寸前だった狼が、横槍を認める訳がない。成歩堂の腕を取り、御剣が連れていこうとするのを阻止する。
「許可できる訳がなかろう!」
すかさず、御剣は反対側の腕を握り直して拮抗を造り出した。お互いに成歩堂への負担は最小限に留めているが、相手には渡さないという気概を滲ませて睨み合う。
まさしく前門の虎(ならぬ若獅子)、後門の狼である。
そして間に挟まれた仔羊は、
「御剣の分まで食べたりしないからさぁ、そんなに心配するなよ」
相変わらず暢気でウッカリな発言をかましてくれる。
『食べられて困るのは、成歩堂の方だ!』
『検事さんの分まで、俺が平らげてやるぜ』
御剣と狼の切り返しは胸の中に収められたが、もし実際に言ったとしても成歩堂には通じなかっただろう。
そんな、他人の事には一所懸命な癖に己の事にはトンと疎い性格も、狼と御剣にはツボなのだが。
ツボに嵌っているのは、何も二人だけではなかった。
「オイオイ、ウチの大切な所長さんを、俺の許可なしに連れ出すんじゃねぇよ」
「!?」
「あぁ?」
「あ、ゴドーさん!」
珈琲の香りを先触れに現れたゴドーもまた、のっけから御剣と狼に先制の一杯を奢ってのけた。
御剣は、苦虫を噛み潰した表情になり。
成歩堂は純粋に歓迎の意を表し。
狼といえば、警戒と好奇心の入り混じった眼差しでゴドーを観察している。
情報では知っていたが、ゴドーとは初対面だった。何しろ前回狼が日本を訪れた頃は、ゴドーは留置されていたり裁判中だったりと娑婆にはいなかったのだから。
「いつから日本は、パラリーガルが雇い主の行動を制限するようになったんだ?」
初対面の挨拶なぞ素っ飛ばして鋭い一瞥と、『引っ込んでろ』に翻訳可能な質問で第一印象を構築する。
怪しげで数奇な経歴と風貌を有した第三の男・ゴドーは、凶悪犯をも震え上がらせる狼の凄みに、ニヤリと口の端を持ち上げただけだった。初顔合わせの筈の狼が、ゴドーと成歩堂の関係を掌握している事に対して、微塵の動揺も見せない。
それどころかゆっくり歩を進め、狼と御剣には愛撫にしか見えない手付きで、成歩堂の蟀谷から顎先まで撫で下ろす。
「コネコの面倒は、飼い主がみる。それは、全世界共通のルールだぜ!」
「いやいやいや、僕はコネコじゃないって、何度言ったら分かるんですか!?」
周章したのは、成歩堂の方。
狼の前でも恥ずかしい事この上ないコネコ呼ばわりをされて真っ赤になり、上目遣いで、精一杯威厳を保っているつもりなのか睨め上げる。
『!?』
その様を至近距離で拝んだ三人の胸中に、瞬間走り抜けたのは大同小異な煩悩であり。
『渡さない』という想い。