巌徒の手は体温が低く、一年中ひんやりとしている。
直斗辺りが知ったら、『局長の場合は、心の温度そのままですね』とにこやかに揶揄してくるだろう。
しかし実際の所、素手の感触を知る者は成歩堂だけ。
「・・ん・・・」
黒革で覆われていない手を汗ばんだ成歩堂の額へあてると、瞼が震えて黒瞳がゆっくり現れた。
「巌徒さん・・」
いつも巌徒の名を嬉しそうに口ずさむ声は罅割れ、覇気がない。
「薬が効くまでの辛抱だカラね、ナルホドちゃん」
タオルで首筋の汗を拭い、巌徒は柔らかく話し掛けた。後一眠りしたら症状は快復すると、成歩堂の風邪が判明するや否や呼び寄せた医師は確約した。
「・・迷惑かけて、すみません」
散々咳をして痛む筈の喉に鞭打って、巌徒に謝る成歩堂。巌徒の指がかさついた唇に当てられ、喋らないよう諭した。
「ナルホドちゃんが早く治ってくれたら、それでイイんだ」
ニコニコと笑う巌徒に、偽りはない。
特効薬のない風邪だが、即効性のある栄養剤と、現存する中で最も治癒率の高い抗生物質を処方させた。成歩堂が苦しむのなんて、見たくなかったのだ。
原因が、依頼人の為に調査で豪雨の中を駆けずり回っていた事にあったから。
「巌徒さんの手、冷たくて気持ちいいです」
言葉の奥に潜む氷に気付いているのかいないのか。成歩堂は、無防備に巌徒を求めた。
「ソウ? じゃあ、ずっと当ててるヨ」
巌徒は再び額に触り、もう一方を項―――頸動脈に這わした。
トク、トク、トクと平常時よりやや早い脈拍が感じられる。
やがて成歩堂は瞳を閉じて深い眠りに誘われ、それを確認した巌徒の口元には、笑みというには凄味のありすぎる色が浮かんだ。
1秒でも早く、忌々しいウィルスを死滅させなければ。
喜ぶのも、哀しむのも―――息をするのも。
成歩堂の心と身体、全ての発露は巌徒であるべきだ。
巌徒だけが、成歩堂の全てを所有する。
ク、と0コンマ1o、巌徒の指に力が籠もる。
もし誰かを庇って斃れたとしたら。
こういう時の為に保持している力を駆使して駆け付け。
心臓が最後の鼓動を打ち鳴らす前に、巌徒の手で終焉を迎えさせる。
成歩堂の1呼吸ですら、巌徒のもの。
他の誰にも、渡しはしない。