満月の夜、何かが起こる。
真しやかに囁かれてきた噂。狼男伝説しかり、事故発生率しかり、狂気説しかり。
比較的、外部要因に影響を受けやすい成歩堂だけれど。確かに満月がいつもより大きくて、赤く染まっていて、どこか不気味な雰囲気を醸し出していると思う事もある。でも大抵の場合、胸騒ぎは外れる。
「何か影響はあるんですか?」
「ンー、ないとは言えないね」
但し、今夜の満月は地球に最も近付いたスーパームーンとかで。加えて、もし超能力をもっていると告白されても信じてしまうかもしれない巌徒が並々ならぬ関心を寄せていれば。
正直、動揺してしまう。
「まァ、科学的な根拠があるのは潮位の干満差位だけだよ」
頬を引き攣らせた成歩堂をちらりと見遣ると、巌徒は小さく笑った。
「影響があるのは、人の心理かナ」
「心理、ですか」
「ソウ。暗示にかかりやすいタイプが、雰囲気に呑み込まれるんだ」
からかいたいのか、怖がらせたいのか、安心させたいのか。その全てなのか。巌徒の話術がそれと気付かれない間に、成歩堂の意識を引き込んでいく。
ふと仰いだ宵闇に月が一際妖しく浮かんでいて、何となく落ち着かなくなり。そんな時に凶事の話を聞くと、不安が的中したと結び付けてしまう。根拠のない思い込みによる連鎖が、満月=負という公式を生み出すのだ。
その公式に嵌る者は、大抵『感受性が鋭い』と自他共に認める気質で。満月の迷信を疑いなく信じ、信念によって迷信が増殖していく事には何故か気付かない。
「狂気が呼び起こされるっていうのも、結局は自己暗示だよネ」
「うーん、思い込みって怖いですね」
満月の説明を聞いていた成歩堂は、ふるりと身体を震わせ。隣に寝転ぶ巌徒により一層引き寄せられ、暖かさに安堵の溜息を漏らした。
ここは、巌徒邸の天体観測室。天井が一面硝子張りになっており、夜空を眺めるだけでなく大きな望遠鏡で本格的に星々を観察する事もできる。また横たわりながらの操作が可能で、床へ敷かれたマットはそのまま一晩を過ごしても不自由がない位の優れもの。
空調も完備なのだが、精神的な寒気までカバーするものではなく、巌徒はその分をぴったり寄り添う事で補ってくれた。
「ほんの少し誘導すれば、それこそ転がるように堕ちる人が多すぎル」
「巌徒さん・・」
ガッシリした胸板に頬を寄せている体勢なので、巌徒がどんな表情で話しているのかは見えないけれど。ひやりとした空気が肌を撫でていったから、おそらく碧瞳の奥に、宇宙をも呑み込んでしまいそうな虚無を湛えているのだろう。
「無理にきっかけを作らなくていいですから」
「ハハハ」
巌徒の台詞は、嘗て狂気を加速させた事があるとの告白だったけれど。成歩堂は問い質しもせず、咎めもせず、ただやんわり行き過ぎだけを憂えた。
―――巌徒が、過去に行った非道も。
巌徒の身の内に巣くう、黒い血も。
全容を掴んでいる訳ではないが、存在は明白に感じ取っている。そして、成歩堂と共に過ごすようになりあからさまな悪事からは撤退した今でも、尚グレーゾーンには影を落とし絶大な影響力を有している事も。
暗部を払拭してほしいという気持ちは、勿論あるけれど。それは、巌徒を構成する要素でもあるのだ。おそらく、この先も切り離す事なんてできない。きっと、してはならない。成歩堂ができるのは精々、『緩和』だけ。
皆、承知の上で―――巌徒の傍らへ立った。
万が一巌徒が糾弾される事があったとすれば、共犯の謗りを受ける事だって覚悟している。罪を免れる為に巌徒の手を離したりは、しない。
「ウン。そんなお遊びより、こうしてナルホドちゃんと夜空を見上げる方がよっぽど有意義で楽しいしネ」
冗談のような軽いツッコミでも巌徒には全て思考を読まれたらしく、繋いでいた手を口元まで持っていかれ、手の甲へキスされる。
「それに、今夜の月に一番相応しい言葉は・・・」
いきなりの親密なスキンシップに、巌徒と暮らし始めてだいぶ経つのにまだまだ慣れない成歩堂は頬を赤らめたが。巌徒は、その程度で済ます男ではなかった。
「『月が綺麗ですね』だよネ」
「えーと・・・」
有名すぎる、且つ極めて気障な台詞に、成歩堂の顔はますます赤くなり。大きくて綺麗に輝く月を、誤魔化すように見詰めた。
巌徒と同じ言葉を成歩堂が返したかどうかは、巌徒と成歩堂と月だけの秘密。