巌ナル

銀月に




 中秋の名月は、台風の直撃で真っ黒な曇天に隠されてしまった。だからという訳でもないが、翌日の夜空があまりにも澄んで綺麗だったので、成歩堂はふらりと庭へ出た。
 それっぽい事は何も匂わせていなかったのにもかかわらず、庭へ続くテラスには椎木がひっそりと立っており。薄手でも保温性に優れたカーディガンと小ぶりでどっしり重いのバスケットを渡してくれた。
「月が明るいとはいえ、お足元には十分お気をつけ下さいませ」
「いろいろありがとうございます・・」
 言葉には出さなかったものの、顔に書いてあったのか。それとも、常々疑っているように、椎木は人の心が読めるのか。どちらも怖くて真相を確かめられないまま、巌徒邸住人のハイスペックさ自体には慣れつつあったので今回もスルースキルを発動させ、お礼だけを口にして歩き出した。




 広い庭には、灯り取りというよりスポットライト的な照明が配置されているけれど、今夜は月の光だけで十分だった。強い風によって埃も一掃されたのか空気は澄み渡り、あます所なく『銀』が降り注いでいる。
「綺麗だなぁ・・」
 大きくて、丸くて、輝いていて。一日過ぎていても、名月と呼ぶに相応しい姿だった。月見なんて、改まってした事はなく。遅くなった仕事の帰り道、『今日は満月なのか』と思う程度。
 夜空の美麗さに誘われるとは―――情緒を解するようになったとは思えないから、心にゆとりが生じたのだろう。
「うわ、どこまでも見抜かれている(汗)」
 足取りも軽やかに、寝転がれる芝生へ向かっていた成歩堂が止まったのは、小さな祠の前。おそらく重さからしてバスケットの中には食べ物が入っているから、お稲荷さんへお供えしようと考えたのである。
 そして、蓋を開けてみれば。明らかにお供え用の団子と御神酒が用意されていて。またしても、自分の行動が単純で読みやすいのか椎木がエスパーなのかグルグルと悩む羽目になった。
「・・・考えてもしょうがないか」
 立ち尽くす事、数分。口癖になりつつある言葉を唱え、成歩堂は気持ちを切り替える。丁寧に掃除された祠へお供物を捧げ、お団子はきつねの好物なのだろうかなんて考察しながら再度、目的地を目指した。
 そこは、ゆるやかな丘陵一面に柔らかな芝が植えられていて。昼間は勿論、気候の穏やかな夜は寝転がって空を眺めるのに最適な場所だった。
 都心に近くても、何故かここからは星が数多く見える。天体観測が趣味の巌徒は屋上やそここに高性能の観測機器を持っているが、地面へ寝そべって眺めるのも悪くないといって時折、成歩堂を誘った。
 故に、一人で来たのは実は初めて。基本インドアな成歩堂にしては、珍しい事。
 性格も、趣味も、生き方も、他にも様々かなりの隔たりがある『赤の他人』と暮らし始め。当然かもしれないけれど、成歩堂も様々な面で影響を受けた。カルチャーショックは数え切れない程。
 以前と変わった所も、成歩堂が自覚している以外にきっとあるだろう。
 しかし。
 成歩堂自身、その変化を好意的に受け止めている。
「日本酒と団子って、こんなに合うんだな」
 沢山の新しい発見は、全てがプラスのものとは限らなくても、成歩堂の心に降り積もる。静かに、そして月の光のようにキラキラと。
「ナルホドちゃん、ご相伴に預かっていいかナ?」
「―――あ、巌徒さん。お疲れさまです。椎木さんがたっぷり用意してくれましたよ」
 芝生を踏む音すら聞こえなかったものの、何となく空気が流れたような気がして成歩堂は突然の出現にもそれ程驚かずに済んだ。高級なスーツだというのにあっさり隣へ腰を下ろす巌徒へ、お酒と月見団子を差し出す。
「早く終わったんですね」
 巌徒の帰宅は、明日の昼過ぎと聞いていた。
「お月サンが、早く帰れって言ってたからサ」
 ケロリと告げ、巌徒は礼を伝えるように杯を月へ掲げた。それから成歩堂の頬へキスし―――愛を伝えた。