ヴヴヴヴヴ――。
「ぅわっ!」
机の上に置いてあった携帯が激しく振動し、集中を破られた成歩堂は大袈裟に反応してしまった。
マナーモードにしているからといって、突然天板を通して震えが伝わってくるのにはどうしても慣れない。
慌ててボールペンを放り出し、代わりに携帯を開く。
「――――」
表示を見るなり、成歩堂の肩は再度大きく揺らいだ。
11桁の数字の羅列だけなのは、登録していない番号の証。
事務所の固定電話程ではないが、携帯番号もそれなりにオープンにしているから、登録番号以外の着信も取るようにはしている。
だが、成歩堂の指は動かなかった。動こうとはしてくれなかった。
出なければ、という思考に背いて。
いや、出たくないという心に従って。
ヴヴヴヴヴ――。
携帯のバイブレーションは、止まない。おそらく今は、8コール目辺り。
鳴り止むまで、放置したかったが………。
鉛みたいに重い指をノロノロと動かして、ボタンを押す。
ピッ。
「はい、成歩堂です」
なるべく普段通りの応答を心掛けたものの。
多分、電話の向こうの相手は微かな震えとひび割れを聞き取ったのだろう。
クスリ。
最初に届いたのは、笑い声。
『――やぁ、ナルホドちゃん。泳いでる?』
明るく快活な、張りのある音色。
まるでリズムを刻むような、軽やかな話し方。
それなのに、成歩堂の心は重く重く沈んでいった。
通い慣れてしまった場所。
何度も繰り返される工程。
『慣れ』は確実に生じてきているけれど。いつまで経っても、唇を噛み切ってしまいたくなる程の羞恥が薄れないのは、何故なのか。
どうせなら、全ての感覚が麻痺した方が耐えやすくなる。
ふと皮肉な思いに駆られ、すぐさま己の弱気を打ち消す。
それは、逃げだ。
あの日、成歩堂は逃げないで立ち向かうと決めたのだから、泣き言なんて言っていられない。
「巌徒さんに、取り次いで下さい」
扉の前で警備するSPへ、毅然と頭を上げて告げる。
たとえ、彼等が。
この扉の向こうで、成歩堂が何をするのかを知っていても。サングラスで覆われた目が、どんな色で成歩堂を見ているとしても。
あくまでビジネスライクな態度を取る。
そして、開かれた扉の中へ足を踏み入れた。
決して公には成り立たない『契約』を履行する為に。
「さぁ。今日はどんなコトして、遊ぼうか…?」
彼からの着信は、通話が終わる度に消去する。
メールも、一通残らず消去する。
けれど、表面上はなくなったように思えるデータは、実は形を変えて違う場所に残っているように。
彼の愉しげな声も。
笑っていない緑の眼も。
黒い手袋に包まれた両手。頑健な肢体。匂いや感触だって。
それから、純粋な狂気と暴戻に満ちた魂も。
成歩堂の内に刻みつけられ、二度と、消える事はない。