『泳いでル?』が口癖の巌徒は。天体観測の次に、スイミングが趣味だった。
巌徒が洋館の購入を決めた理由の1つは、地下に25mプールがあったかららしい。巌徒邸に初めて案内された時、成歩堂は始終口を開きっぱなしにしていたが、この設備に至っては顎が落ちるかと思う程に度肝を抜かれたものだ。
洋館の生き字引・椎木によると、地盤調査の段階で大規模な地下水脈が発見され、地盤強化と地下水の処理と施工主のお茶目心で急遽プールが設計されたのだとか。飲料可能な地下水は、緊急用にプールへ貯蔵するのは勿論、館中にラインを引いて生活用水として使用し。プールの『蓋』のごとく建てられた温室や、広大な庭にも利用されている。
『水道代を支払ってないから、お役所に嫌な顔されるんだけどネ』と巌徒は笑っていたが、この時ばかりは水道局の気持ちが理解できる気がした。
ちなみにエコなのか吝嗇家なのかは微妙な所だけれど、地下水の温度が1年を通してあまり変化しない事を有効活用して夏は邸内を冷やし、冬は暖める機能も備えている。故に、電力会社からも渋い顔をされるそうだ。
話を戻して。
水泳は気分転換の意味合いが強かった為か、成歩堂と暮らすようになってから、巌徒の利用回数は減った。とはいえ、暑い時期は成歩堂を伴って水遊びに興じている。
プカリ、と浮き。手足を動かさず、漂うのみ。
強化ガラスでできた天井―――温室の床は、当たり前だが植物が植えられている部分は光を通さない。天井にあたる範囲は通路を広めに設計してあるから暗いとは感じなくても、温室の天井とダブルで遮られた陽光は、輝きをだいぶ和らげられている。
しかし上を向いている分には、ちょうど良い光量で。『天使の梯子』程強くないから、『天使の脚立的』な日差しが空気と熱と屈折でゆらゆら揺蕩うのを眺めていれば、時間はそれこそ光陰のごとく過ぎていった。
「・・・あれ?」
「ン?」
時々飛沫が立つ位で、水以外に静寂も満ちていた空間がふと乱れ、成歩堂と巌徒は揃ってそちらを見遣った。
バササ―――
「ツバメ、ですか」
「そうみたいだネ」
素早く行ったり来たりするものだから判別しにくかったけれど、飛んでいるのは馴染み深い渡り鳥のようだ。
「換気の時に紛れ込んだのかナ」
反射的に窓を窺ったもののそれはきっちり閉まっていて、予期せぬ訪問者の侵入経路を訝しむ成歩堂。
それへ、巌徒がプールから上がりながら窓は非常口も兼ねている為に全開すればかなり間口が広く、温室の窓も開いていると地下まで入ってくる事があると説明した。
インターコムで椎木に事情を話せば、メインパネルで操作したのか全ての窓が開いていく。非常口だけに壁の梯子を登れば手動で開けられるものの、椎木が巌徒の手を煩わせる訳はないし、巌徒にしたって緊急時の認識はない。
出口が出来てからも、しばらくの間ツバメは見当違いの光源へ突進してはぶつかる寸前で回避しており。棒か何かで追い立てた方がいいかも、と成歩堂がハラハラし始めた頃。
「ア」
「やった!」
ターンしたツバメがスピードを上げ、吸い込まれるようにして窓へ飛んでいった。まだ第1段階をクリアしただけだから…と待つ事数分、スピーカーフォンにしておいたインターコムから、温室の外へ出たと椎木が報告してきた。
ほっとした表情でゆっくり閉まっていく窓を眺める成歩堂を、小さな波紋だけで近付いた巌徒は緩く抱き締めた。
「ナルホドちゃん、よかったネ」
「ありがとうございます、巌徒さん」
もし、巌徒だけだったならば。
何のリアクションもなく、巌徒はただ立ち去るだけ。ツバメが次に窓が開いた時、幸運にも空へ戻れようと。不運にも脱出できず力尽きようと『運命』に委ねる。介入する程の興味は持っていないから。
今回動いたのは、偏に成歩堂の為。健全で善良な感覚を有する成歩堂は、助けられる小さな命を放っておくなんて事はしない筈。その意を汲み取ったのだ。
そして。
成歩堂もまた、巌徒の性格を把握していた。ツバメを救ったのは、自分の為だと。巌徒の無情さは忘れられる訳もないが、巌徒の愛情もまた深く刻みつけられている。
だから慮ってくれた事に礼を言い、廻された腕をそっと握った。
「トリちゃんが羨ましくても、真似しちゃダメだヨ」
「・・・羨ましく、ないです」
逃がさない為に、有りと有らゆる手段を講じる巌徒と。
たとえ扉に鍵がかかっていなくても、逃げる気のない成歩堂。
2人は、年齢に反比例して体力のない成歩堂が音を上げるまで、穏やかに、幸せに戯れていた。