「・・・ん・・?」
安らかな眠りの中にいた成歩堂は、揺れという外的要因で覚醒を促された。
地震かなとの疑惑は、すぐに消える。
「起きた?ナルホドちゃん」
心地よい声が近くで響いたのもあるが。成歩堂の身体に添った温もりと馴染みの香が、成歩堂を起こした正体を告げていたから。
「・・お帰りなさい、巌徒さん。お疲れさまです・・」
ぼんやりとした思考でも、引き摺る曖昧な気怠さによって就寝後数時間が経過している事―――現在時刻は、日付変更線をだいぶ越えているだろう―――を理解する。
けれど成歩堂は不満など言わず、ただ歓迎と慰労の言葉を発した。
巌徒なら熟睡中に叩き起こされたって、驚きはしても怒らない。どうやら男としては少々いただけない、いわゆるお姫様抱っこで移動中だとしても、戸惑い恥ずかしがっても拒絶はしない。
「ン、ただいま。寝ててイイよ。でも・・ちょっと付き合ってくれるカナ?」
巌徒も成歩堂の反応は織り込み済みなのか、特段謝罪はしない。睡魔を呼び寄せるかのごとく、少しトーンを低くするだけで、以前平静そのものの足取りと態度で進む。
向かった先は、去年のクリスマスに成歩堂が夜空をプレゼントした、今は本来の目的で使用される事のないダンスホール。
空虚にさえ感じる広い広いスペースを申し訳程度に埋めているのは、滑らかで柔らかい革をふんだんに使ったソファと。
高さ3.4m、幅4.1mの自動演奏楽器、『リモネール』という名称のアンティーク・オルゴールだった。
パイプオルガンに始まって、木・金管楽器、弦楽器、打楽器まで内蔵したそれは、機械仕掛けのオーケストラであり、本格的な交響曲を奏でる事ができる。
初めてそれを見た時、クルクルとバレリーナが回るオルゴールしか知らなかった成歩堂は、ぱっかりと口を開く位、驚いたものだ。
仕事部屋にすらパイプオルガンを設える巌徒だから、と言ってしまえばそれまでだが。後日偶然、このオルゴールが到底個人レベルで所有できるものではない価値がつけられていると知って二度、驚愕した。
一旦ソファに成歩堂だけ座らせた巌徒は、慣れた仕草でリモネールを操作すると戻ってきて成歩堂を抱き込んだ体勢で己も座った。
キュキュキュ
シュッシュッシュッ
カタカタカタ
特製の歯車が噛み合う音。
鞴へ空気が送り込まれる音。
オルゴールを飾る何十体もの操り人形が動き出す音が、数秒続き。
「―――っ!」
部屋を、空間を、鼓膜を振動させる圧倒的な旋律の奔流に、成歩堂はビクリと身体を揺らした。
巌徒が差し伸べた腕をずらして耳を覆ってくれたが、体幹を揺らがす共振が消える事はない。
ダンスホールが防音措置済みでなければ、洋館が広大な敷地を有していなければ、即座に騒音で苦情がきそうな音量。
しかし、成歩堂はいつしか再度睡魔に全身を絡み取られていた。
一応耳は被われているし。巌徒のオルゴール鑑賞に付き合わされるのは、慣れているし。添わされる温もりは安堵しか生み出さないし。
逆に、この状況で起きている方が難しい。
―――こうして巌徒がオルゴールを動かすのは、『何か』があった時だと知っていても。成歩堂は何も聴かないまま、寄り添って体温を分かち合う。
巌徒の胸の内で吹き荒れる嵐など。
蠢く黒い血など、成歩堂が真に理解できる日は、きっと来ない。
けれど、卑下している訳ではないが、どうせ『普通』の関係ではないのだ。
追い詰める側と追い詰められる側。
年の差。
同性。
かけ離れた生き様。
何の確約もない未来。
馴れ初めも含めて尋常ではないのなら、型とは外れた距離の取り方と縮め方でもいいのではないか。
巌徒の全てを知らなくとも。知った巌徒の全てが受け入れられなくとも。
こうしてガランとしたホールで轟き渡る調べを聴く時に、成歩堂を巻き込んだり。
肌を重ねる時ですら外そうとしなかった黒手袋を、時々脱いで素のまま成歩堂に触れたり。
そんな些細な事でも、巌徒の中の成歩堂の位置は十二分に伝わってくる。他人からすれば小さな事でも、成歩堂には無事無罪判決を勝ち取った時と同じ位、嬉しい。
しっかりと廻された腕を掴んですとんと落ちた眠りから、心地よく目覚めれば。
「お早う、ナルホドちゃん。イイ朝だね」
巌徒は極上の、満ち足りた笑顔で成歩堂を見詰めてくれるから。
「お早うございます、巌徒さん。いい朝ですね」
成歩堂もただ喜びのまま挨拶と笑みを返して、降ってくる軽やかなキスを受け止める。