神出鬼没。
数秒間停止した脳が再起動時に思い浮かべたのは、そんな四字熟語だった。
警察局の廊下を、成歩堂は歩いていた。普通に、前を向いて。
時間を確かめる為に腕へ視線を下ろし、また元に戻るまで僅か2秒。
「っ!?」
真っ直ぐで見通しのよい廊下には誰の姿もなかった筈なのに、上げた目の先にこの局のトップが立っていて、成歩堂は驚きすぎて声も出なかった。
棒を呑んだように立ち尽くす成歩堂に、気配も足音も前触れもなく忽然と現れた警察局長、巌徒海慈はニコニコと笑いかけた。
「やぁ、ナルホドちゃん。泳いでル?」
「・・・こんにちは、巌徒さん。書類の海でなら、泳いでます」
恒例の問いかけに何とか答えたものの、心臓は健康に良くない早さで脈動している。突然の登場に度肝を抜かれただけでなく、緊張と警戒もあって。
何しろ巌徒は、本来なら一介の弁護士である成歩堂とは一生会わずに終わるだろう地位にいたし。巌徒の伝説というか表裏含めての噂話は、どうしたって聞こえてくる。
雲の上の存在に近い―――けれど。
どうしてか、目をつけられたらしいのだ。
アポを取り付けるまで数ヶ月かかった者もいると聞いたのに、やたらと遭遇率が高い。
会ったら会ったで、気安く楽しげに話しかけられる。
しかもつい先月末には、怖いものなしの真宵が送ったメールに便乗し、事務所までやってきた。その時の成歩堂がナースのコスプレをしていた事は記憶から抹殺したいが、巌徒にセクハラされて際疾い所だったのは、決して忘れてはならない。
成歩堂が微かに引き攣り、居心地悪そうにしている事など、勿論巌徒は気付いていた。しかし、その戸惑いすら愉しいのだから、気が付かない振りで更に笑いかける。
「ナルホドちゃん、今日が何の日か知ってるカイ?」
「え、今日ですか? ・・・すみません、分かりません」
11月11日で連想されたのはぞろ目位なので、早々に無知を詫びる。すると巌徒は上機嫌でポン、と革手袋を打ち鳴らした。
「今日はポッキーの日なんだっテ」
「・・・ああ、そういえば」
巌徒の種明かしに、成歩堂もぽんと手を叩きたくなった。ニュースか何かで、11月11日はポッキー&プリッツ記念日だと宣伝していたのを見た事がある。
今月は『いい夫婦の日』なんてのもあったなーと連鎖的に思い出したが、そんなのんびりしている場合ではなかった。
「だから、ポッキーゲームをしようヨ」
「―――は?」
ニコニコニコ・・・としながら言われた言葉に、またしても成歩堂の脳は数秒間機能不全に陥った。
警察局長と。
合コンや罰ゲームや、もしくはラブラブなカップル御用達のあの遊戯を。
やる?
「いやいやいや、遠慮しますっ! ご辞退させて下さい!!」
思考と一緒に止めていた息を思いきり吸い込むなり、成歩堂は早口かつ滑舌よく叫び、踵を返して脱兎のごとく逃げ出した。
―――2歩、だけ。
「ぅぷっ!?」
でかくて堅くて真っ黒な何かに突っ込み、強かに鼻を打ってしまう。ばっと上向けば、没個性なのが特徴の厳めしく無表情なSPが微動だにせず立ちはだかっていた。
分厚い手が成歩堂をいとも易く方向転換させ、元の位置―――巌徒の真ん前に押し出す。
「ナルホドちゃん、ヤろう・・?」
背後に感じる無言の圧力も凄かったが、成歩堂をぎこちなく頷かせたのは、巌徒の笑顔。確かに笑っているのに、どうしてこんなに迫力があるのだろう・・?
村人Aとラスボス程のレベル差を感じ取ってしまえば逆らう事なんてできないが、誰が通りかかるか分からない廊下でポッキーゲームを行う事への羞恥と抵抗までは薄れない。
そわそわと周囲を伺う成歩堂に、ニコニコがパワーアップした巌徒が指を振る。
「大丈夫。人払い済みダカラ」
そしてもう一度指を振ると、周りを取り囲んでいるSP達の向きが変わる。
「さ、始めようカ」
「・・・・・」
事前に手を打っていれば、SP達が後ろを向いていればいいという問題ではない。しかし巌徒にこの理論を理解させるより、SP包囲網を突破する方が簡単。つまり、言っても無駄。
のろのろと顔を上げた成歩堂の視界に、いつの間にか出現したポッキーが写る。あんなに短かったっけ・・?と記憶を疑うのは、一種の逃避だ。
ポス、と意外に優しいタッチでポッキーが成歩堂の唇に挟まれる。どうでもいいが、チョコレートのかかった方だった。
ヒョイ、と身を屈めた巌徒が、反対側の端を咥える。
近い。
ポッキー分の距離しかないのだから当たり前だが、巌徒の顔が滅茶苦茶近い。
流石に目線は合わせていられなくて逸らしたが、サクサクサクという音と共に、立派な髭、高く張った頬骨、色付き眼鏡と視点が上がっていき。
「!」
ポキッ
眼鏡の奥の、複雑な碧を見た刹那、成歩堂は大きく後退った。
「あ・・・」
当然、ポッキーは折れる訳で。
「ナルホドちゃんの負けだネ」
5p程残った菓子を口に挟んだまま、器用に巌徒は喋り、笑った。
ニコニコというより。
ニコリ!、という感じで。
その後成歩堂は『敗者なんダカラ』という理由で、局長室へ連行され。1日中、巌徒の話し相手を仰せつかった。
セクハラがなかったのは、せめてもの救いだが。しばらくの間、神出鬼没な局長が物陰に潜んでいないかと窺う癖が抜けなかったのである。