中身なんて、必要ない。
求められるのは、変幻自在な器だけ。器に合わせて、性格も思考も行動も信念も全て書き換わる。
それが、通称『亡霊』で。
それ以上でもそれ以下でもない、モノだった。
器が崩壊した後。遺るのは、希望ならぬ虚無だと予測していたのに。
つい先頃まで『番』と呼ばれていた彼は、意外なものを見付けた。
興味、だ。
亡霊になるべく訓練を受け、自我を完璧に消し去ってからは、演技を離れた感情など一切湧かなかった。任務遂行の意志だけは例外として。ところが、彼の仮面を剥ぎ取った青い弁護士の映像がフラッシュバックのように脳裏へ浮かぶ度。知りたいという好奇心が暗闇を薄める。
今、何をしているのか。
どんな表情をしているのか。
『番』―――いや、亡霊の事を思い出したりするのか。
取り留めのない疑問が、止め処なく生じる。政府関係者からの質問は右から左へ流れるが、成歩堂に関する質問は日に日に空っぽの心を埋めていった。人とはかなり異なる回路を有していても優秀である事は疑いようのない頭脳は、やがて一つの結論に行き着く。
これは、執着だ。
亡霊は、人工知能のように考える事はともかく想う事はできない筈の自分が、成歩堂に並々ならぬ関心を抱いていると判断を下す。用済みになったスパイの末路は、重々承知していて。己もその轍を辿ると極自然に受け止めていたけれど。違う結末も起こりうるのだと、今更ながら気付いた。
ありがたい事に依頼が舞い込み、調査から帰ってきた成歩堂は足早に歩いていた。角を曲がればエレベーターホールで、心持ち速度を上げたら―――。
「うわっ!」
「おっと」
同じように角を回ってきた人と、思い切りぶつかってしまう。
結構な勢いで衝突したのに、弾かれたのはトレーニングという単語とは無縁の成歩堂で。後ろに蹌踉めいてバランスを崩した所を、相手の腕に支えられた。
「す、すみません。前方不注意でした」
揺るぎもしないし、腕一本で軽々成歩堂を抱える強靱さを羨ましく思いながら謝罪する。
成歩堂が飛び込んだようなものだから、相手にとっては災難だっただろう。しかしその人は怒りもせず、朗らかに笑った。
「大丈夫ですよ、お互い様です。それより、怪我はありませんか? ―――成歩堂弁護士」
「え?」
面識はない筈なのにいきなり名を言い当てられ、驚く成歩堂。未だ腕の中にいる事も、意識の外へ行ってしまった。
「実は、真上に事務所を構える***と言います。後程、ご挨拶に伺おうと思っていたんですが、こうしてお会いできたので」
少し悪戯っぽく種明かしをする男に、ああ、と成歩堂は大きく頷いた。
「そういえば、リフォーム工事の知らせが来てましたね。ご丁寧にありがとうございます」
恒例の名刺交換をしようとして、やっと可笑しな体勢のままだったと気付き、頬を仄かに染め慌てて離れる。 受け取った名刺にはマーケティング・リサーチ業と印刷されていて、このご時世ではニーズが高いんだろうなと、またしても羨ましくなる。
「ご近所の誼で便宜を図りますから、必要になった場合は気軽に声を掛けて下さい。では、また」
軽妙なセールストークを残し、男はきびきびした足取りで去っていった。
感じが良く、プロフェッショナルな香りが漂う男に成歩堂は甚く感心し。けれど、ふと小首を傾げる。
彼の笑顔を、どこかで見たような気がして。
噂ばかりが流れ、本当は存在しないのではないかとまで囁かれていた『亡霊』。
厳重な警戒の元、拘束されていた彼がある日忽然と姿を消した事は、極一部の者にしか知らされず。
その隠蔽が、新たな事件を生み出してしまう。