学ナル

大人のお年玉




 荒船水族館は大晦日まで開館している代わりに、新年の営業は5日から。
 といっても生き物を扱っている関係上、完全閉鎖は有り得ない。職員は交互に休みを取りつつ、必要最低限の人員は必ず配置されていた。
「ふん・・異常はないな」
 機器をじっくり眺め、学は小さく頷いた。草臥れた白衣にボサボサの頭。どことなく不機嫌そうな表情。元旦だろうが平常運転の学だが、シフト上は1日から3日まで休みだったりする。
 家にいても、焼酎を片手に寝正月になるのは分かりきっていて。それなら生物実験室の片隅にある学専用の準備室で寝泊まりしつつ、長期休暇が動物達にどのような影響を与えるのかデータを取る方が余程有意義だと考えた。 
 寝る場所にも食事にも拘らない学故、こっそり持ち込んだ焼酎を夕方以降に飲めれば十分休み気分も味わえ。しかも好奇心旺盛な来館者などの煩わしい邪魔が殆ど入らないとあっては、頗る快適な環境と言ってもよい。
 チェックが一段落し、結果にも満足した学はこれも持ち込んだコーヒーメーカーで濃い目のブラックを淹れた。焼酎以外なので、味は二の次。カフェインが摂取できればそれでよかった。湯気のたつ褐色の液体を1口含んで、嘆息代わりに頭をポリポリ掻く。
 いつもと変わらない、年明け。いや、様々な問題が解決したから、久々に晴れ晴れしい新年を迎えられた。それにもかかわらず。学のテンションは低空飛行気味。いまいち、気分が乗らない。マイナス要因はない筈なのに―――と思考を巡らせた所で、ふと脳裏を過ぎるものがあった。
「・・・そういう事か」
 思わず、髪の毛へ差し込まれていた手が止まる。
 柔らかめの声。
 もっと柔らかい、笑み。
 困った時に、へにゃりと垂れる特徴的な眉。
 あどけない容貌の所為か、年の割には青臭い印象が強いのに。時折、息を呑んでしまうような覇気を放つ青年。
 現在、荒船水族館が営業でき。それ所か段々と集客率が上昇してきたのも、元を正せばあの青いスーツを着た弁護士が発端。初めて会った時は正直、やっぱり一流の弁護士はあんな珍妙な依頼を受けねえよな、と内心頷いたものだ。
 学の感慨は、良い意味で裏切られ。それからというもの―――尖った髪型をした青年の事を、ふとした拍子に思い浮かべてしまう。
 実は、かなりの頻度で。
 その感情の名前をおそらくは知っているけれど、今の所、口に出すのは控えている。言霊の力で、退っ引きならない状態になる事を避ける為。もう学は、情熱だけで突っ走れる程若くないのだ。厄介事は、避けられるなら避けた方がいい。
 グビリ
 珈琲と一緒に想いを飲み込んでみたものの。しばらく経つと、大きめの黒瞳や屈託のない笑顔を脳裏へ甦らせている。
 これは、宜しくない兆候。典型的な学者気質の学は、興味のあるものとないものに対する差が激しく。一度執着すると、とことん嵌るタイプで。『今』は様々な理由を並べて有耶無耶にしていても、その内、彼がどちらのカテゴリに入るのかは薄々予想できた。
「まいったね・・」
 つい、ぼやいた時―――
「良くない結果が出たんですか?」
「!?」
 聞きたいと思っていて、聞ける筈がないと諦めていた声が届いた。ばっと振り返れば、学の勢いに驚いたのかちょっと瞠目している成歩堂がいた。
「あけましておめでとうございます、学さん」
「あ、ああ。にいちゃんか。スーツ着てないから、誰かと思ったぜ」
「え? そんなに変わります?」
 動揺を押し隠しいつもの態度を取る学に、成歩堂は少しも不審を抱かなかったようだ。己のダッフルコートと水色のマフラーという出で立ちを見下ろし、小首を傾げている。
「あんた、童顔だしな。大学生でも通用するんじゃないか」
「ぐっ」
「んで、にいちゃん。新年早々、どうしたんだ?」
 どうやら度々指摘されているらしく、言葉に詰まる成歩堂。そのクルクル変化する表情をこっそり楽しみつつ、学は来訪の訳を尋ねた。
「え、ええ。みぬきと心音ちゃんが、翔子さんを誘って初詣に行くというので水族館まで連れてきたんですよ。その後は女子会を開くそうで、僕はお役御免なんです。でも折角ここまで来たんですから、年始のご挨拶をと思いまして」
「顔に似合わず律儀だな」
「いやいや、顔は関係ないですって」
 ツッコミを入れつつ成歩堂が差し出したのは、御年賀だろう焼酎。学の表情は、自然と綻んでいった。右手で受け取り、左手を成歩堂の肩へ回す。
「見掛けによらず成人してんだから、呑んでけよ」
「そのネタはもういいです・・」
 成歩堂は揶揄に苦笑したが、誘いを断る素振りは見せない。現金なもので、先程までの懊悩は片隅へ追い遣られ、これからの時への期待が湧き上がってくる。
 何年振りかの。そして、心躍るお年玉だった。