中世とはどんな時代かEイエズス会の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』によると、16世紀末の九州においてポルトガル人が日本人女性を廉価で買いたたいていて、九州を制圧した豊臣秀吉はそれを知り、ポルトガル船に積まれた日本人を連れ戻せと指示したという。奴隷貿易というとアフリカを思い出すが、日本においてもそれは行われていた。今回は日本の中世における人攫いと人身売買の実態について『飢餓と戦争の戦国を行く』(藤木久志著 朝日選書 2005)と『新盤 雑兵達の戦場−中世の傭兵と奴隷狩り』(藤木久志著 朝日選書 2005)を見ていこう。 ポルトガル人に連れ去られた人々はいったいどこから連れてこられたのか。16世紀末着々と九州を北上していった薩摩の島津氏は豊後の大友氏とぶつかった。豊後の人々は薩摩軍の捕虜として連行されるか、戦争と疾病で死亡するか、飢餓のため消え失せるかしかなかったという。薩摩軍はおびただしい人質、とりわけ女性、少年、少女達を拉致し、異常なばかりの残虐行為をしたという。捕虜にした人々は、肥後の国に連行されて売却され、肥後の住民は彼らを家畜のように島原半島に連れて行って売り渡した。その地方に渡来するポルトガル人・シャム人(タイ人)・カンボジア人らが彼らを奴隷として連行していったという。(ルイス・フロイス『日本史』) 1593年文禄の役の際、朝鮮出兵中の大友義統が秀吉の命令で領地を没収され、山口玄藩頭という新しい領主が来て、悲惨な現地の現状に豊後の国はまるで人のいない空家のようだと驚いたという。豊後の土地の実情が調査され、「検地帳」にまとめられた。その一端では、大分郡のうち片嶋村では81人いるはずの百姓のうち22人がもう既にいなく、村の田畠の荒地率は50%にのぼっていた。高城村中村は39人いるはずの百姓のうち13人がいなく、荒地率は58%だったという。(野口喜久雄「近世初頭の豊後国農村と綿作」『地方史研究』) 日本の中世においても人口の半減とまではいかないが、それに近い状況が地域によって起きたことをこれは示している。このような人攫いは島津氏の仕業に限ったことではない。大友氏も筑前宗像郡の戦場で大勢の民衆の人攫いを行った。(『宗像市史 史料編中世』) 16世紀初め和泉の守護細川氏と紀伊の根来寺が激突し、双方による民衆に対する人攫いや切り棄てが行われた。(宮内庁書陵部編、図書寮叢刊『政基公旅引付』) 甲斐の郡内のある寺で書き継がれたものをまとめた『勝山記』『妙法寺記』という年代記では武田氏による遠征で何度も民衆の生け捕りが行われ、5千人も生け捕られたこともあり、親類がいる者は2〜10貫と引き替えに返されたという。江戸前期に書かれた『甲陽軍艦』によると武田信玄が上杉謙信の春日山城近くまで侵入した際、村々に火を放ち、どさくさにまぎれ女子供を攫ったという。『甲陽軍艦』はこの作戦で掠奪に成功したのは信玄公の威光のおかげだと評価しているのだ。上杉謙信も1566年常陸小田城を攻め落とした際、城下は人を売り買いする市場となり、上杉謙信自身の指図で20文から30文で売られたという。(「別本和光院和漢合運」『中世法制史料集』原本の所在は不明とのこと。) 戦国時代における人攫いは九州だけでなく、全国各地で起こっていた。また、その歴史は古く、平将門の乱まで遡る。937年平良兼が将門の館を襲った際、民家は悉く焼かれ、田畠の作物も人も馬も、みな奪いさられたという。(『将門記』) この時代の戦争は合戦よりも作物の掠奪がメインだった。しかし、それは軍同士の合戦が主流となった戦国時代にも受け継がれていた。毛利元就の戦法を伝えた小早川隆景の戦術書とされる『永禄伝記』では春先では苗代や麦を荒らし、夏なら麦作を刈り、田植えの済んだ田を荒らし、秋は畠作を取り、苅田をし、年貢を奪い、冬は収穫を収めた倉を破り、家を焼き、飢餓の冬に至らしめる「攻城」の苅田戦法を語る。これは味方の掠奪のためだけでなく、敵地を兵粮攻めにする戦法で、ただでさえ天災による飢餓に満ちていた中世の農村をさらに追い打ちするものだった。
九州では攫われた人々は海外に奴隷として売られたが、その他の地域ではどのような運命を辿ったのか。親類がいるものは身代金とともに返された。その仲介を行う商人や海賊がいたという。江戸湾に面した北条方の浦々は房総の里見領からの海賊船が仕掛ける女子供の生捕りの被害に遭っていた。北条、里見両方に半分の年貢を払うどっちつかずの海賊商人がそれらの人質を買い戻していたという。(「北条五代記」巻九の三『改定史籍集覧』) 買い戻しがされなかった人々の行き先は史料が乏しいという。1626年、大阪四天王寺の楽人が、人を介して伊達家にこんな頼み事をしたという。その楽人の子供と姉が大阪夏の陣で伊達家の「取物」にされてしまって今は伊達家中に暮らしていた。このままでは家が絶えてしまうので返して欲しいというのだ。(「伊達家文書」) 確認できるのは武家の下人として使われる例だ。 飢饉での人身売買は古くからあったようだ。1231年寛喜の大飢饉が起きたが、それを受けて鎌倉幕府は1239年に追加法112条を出した。内容は本来人身売買は禁止だが、飢饉の年に限って許可するというもの。ただし、その後、双方の合意で時価で買い戻すのは構わないというものだ。当時既に人身売買の相場があったということを示している。幕府としては人身売買を戒めているが、一家で餓死するよりは子供を売ってでも生き延びた方がいいという配慮がある。 これを中世ヨーロッパ、ロシア、インドのように、農奴のようなピラミッド型の階級と呼ぶには無理がある。売り買いされた人々は奴隷階級を形成した訳ではなかった。むしろ家を持つ者、家を持たない者という切り分けのように見える。家を持つ者であれば、戦国時代で攫われても、身代金で返すことが出来る。家を持たない者であれば攫われたままだ。日本の中世においては主権は個人ではなく家にあり、家を持たない者は人として扱われないのだ。家からの勘当ということが近現代に至るまで効力を持っていたのはこの中世日本の家の特性だ。 江戸時代において確かに士農工商という身分制度は存在したが、あくまでお上から押しつけた身分制度で階級とまで呼べるものではない。士族はどんどん没落し、実体経済で力を持ったのは豪商と、水呑百姓を多く抱え地主というより領主のように振る舞う豪農、革製品の独占権を一族で持つ部落だった。江戸の太平が産み出した社会は、階級社会ではなく、実力社会だったことが、明治維新での近代化への移行を容易にした。しかし、それは個人の実力主義ではなく、何代にも渡って本家一族で相続される家の実力主義だった。 H21.02.10 |