中世とはどんな時代かC


 「中世」という言葉をなんにも定義しないまま、「中世とはどんな時代か」と問いを進めていっているが、中国には西洋のいうところの「中世」の範囲が非常にあいまいだ。日本では江戸幕府の統治で乱世が終わり、後の明治維新につながる技術の発展から、江戸時代を近世と呼んでいる。同時期、中国では清朝前半期の統治は平和と発展を生むが、後半期からは爆発的な人口増加に食料生産が追いつかなくなり、再びに中世のような乱世に戻っていく。古代、中世、近世、近代、現代という区分は時間軸であるとともに西洋における進化論的な区分だ。時間軸という以外にはどの文明でも当てはまる区分ではない。ここでは敢えて人権という軸で「中世」という言葉を使っていきたい。現在の我々が当たり前だと思っているもの。それが当たり前でない時代を「中世」と呼びたい。

 今回の経済危機でも、あるいは、北朝鮮問題、アフガニスタンでの内戦、歴史問題でも、我々はその当たり前のものを軸に話している。しかし、時代区分としての「中世」の時代においてはそれがどこまで当たり前だったのか。そして、我々の歴史においてはそれは当たり前であり続けたのか。トウ小平は改革開放に辿り着くまでにどれだけ犠牲が多かったかと語った。中華人民共和国建国後の人民の受難も今や明らかにされてきた。しかし、その前はどうだったか。その少し前でさえ300万人が餓死するような飢饉が発生している。中華民国時の匪賊の襲撃などはまさに乱世だ。清朝末期の太平天国の乱を見ると乱発生地域が干上がってしまっているのがよくわかる。中国の宋代を近世と呼ぶ時代区分もあるようだが、その数百年後、明末の時代にはそれまでに無いほどの地獄の時代を向かえている。今回の経済危機は100年に一度と言われつつも中国のこの時代に比べれば絶望具合は計りきれないほどの開きがある。

 そのような中国の歴史の中で、なお矛盾は山積みにしろ、短期間でここまで発展した現在の中華人民共和国は歴史上の快挙だろう。そこまでの経緯には我々の現代の視点から見ると理解を超えた理不尽な政策がある。犠牲はほんとうに大きかった。ただ、つい最近まであった絶望の時代からここまで変わってきた。

 中国には客家と呼ばれる人々が華南にいる。もとは華北に住んでいた流民だという。中国の歴史上の地図においては華南はどちらかというと統一王朝があるが、中原とよばれた華北は常に北方、西方の騎馬民族の侵入を受けて小国分立状態になることが多い。華北は華南に比べて平野が多く、三国時代において、領土的には華北の魏、華南の呉、蜀の間で大きな差が無いが、国力では圧倒的に魏が大きかった。戦国時代の戦国の七雄の中で、華南を治めた楚が圧倒的に領土は広いが、国力では華北の六国と拮抗していた。古代において、華南の長江流域には黄河文明より古い長江文明があった。また、同時期に上流の四川省には三星堆文化という独自の文明もあった。長江文明の最古の遺跡がある河姆渡遺跡には春秋時代、「呉越同舟」の諺で有名な越という国があり、春秋時代、長江中流域の楚を脅かす程の強国だった呉を滅ばし、一時は隆盛を誇ったが、最後は楚に滅ぼされている。三星堆文化のあった四川省には蜀という国があり、『華陽国志』によると周の武王による殷の紂王討伐にも参加したという。しかし、戦国時代には秦に滅ぼされている。有史時代の主役はやはり中原と呼ばれた華北だった。戦国時代までは中国は戦争はあるものの各地域にそれぞれの国がある諸侯国家群といった体制だったが、秦の始皇帝が中国を統一して以降、ここを巡って中国は栄光と野望、飢餓と絶望の時代を巡ってきた。殷の時代には華北は象もいたほどのジャングルだったが、今は山ははげ山、平野は荒野のようになっている。晋や宋のようにもとは華北を治める王朝が王朝ごと華南に移る例もあり、肥沃なはずの華北のブラックホールのような戦乱と飢餓は人々を大移動させた。華北の平野は、秦の始皇帝の放った中原の鹿を追う夢を華南、そして異民族にまで与え、同時にその夢が産み出す絶望がこれらの地まで追い立ててきた。

 西安にあるかっての宮殿跡。漢の長安城未央宮。


 ヨーロッパも蒙古系のフン族の侵入によるゲルマン民族の大移動といった民族流動が激しかった時期がある。その後は封建領主社会になって戦争は多かったものの安定してきた。封建領主社会こそ、農奴と領主という中世ヨーロッパの階級社会だった。人間らしく生きられるのは領主だけであり、大学等の文明の場は領主のためのものだった。中国は革命社会だった。圧政を行われた側は黙っていなかった。それがまた生産拠点を破壊し、人口の流動を余儀なきものにした。

 日本は江戸時代の発展の中で清朝のように人口が増加した。それと天災による飢饉もやはり発生した。それでも安定したのは「たわけ者」と言葉に代表されるように長男以外に田を相続させなかったこと、次男以下は相続の予備であり、間引きが行われたことで人口と食料生産のバランスを維持してきた。最近では核家族化による家族の崩壊、地域社会の崩壊の問題が取り上げられ、過去の大家族にノスタルジーを感じる向きがある。ちょうど私の両親の世代から核家族化は始まったが、その前は家父長制度の時代で、ちょうど私の両親もその時代の軋轢も同時に感じていた世代だ。全ては家父長のもとで決められ、長男が優遇される。家からの勘当は人の地位を失うに等しかった。祖父は孫である私にはそんなところを見せなかったが、両親にはいろいろあったようだ。さらに祖父母の時代は結婚は親が決めるもので、いきなり会ったところでいきなり結婚させられるといった時代だ。それが良いものなのか悪いものなのかは人それぞれかもしれないが、その時代のことを忘れてしまうとこれからもまた同じ愚痴をたたくことになる。

 ここまで中国の凄惨な中世の現状を見てきた。今までの中国の歩みに現代の視点から批判、中傷する前に我々の足下も見て行かなくてはならない。中世からの脱却という点では日本の方がたしかに進んでいたかもしれない。ただ、その前の現状を忘れてしまうと、さらに前には進まないし、清朝の後半期のように進んでいたつもりが戻ってしまう可能性もある。


H21.01.27

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