中世とはどんな時代かB毛沢東はダライ・ラマにこう語った。「私はあなたのことをよく理解している。しかしもちろんのことだけど、宗教は毒だ。宗教は二つの欠点を持っている。まずそれは民族を次第に衰えさせる。第二に、それは国家の進歩を妨げる。チベットとモンゴルは宗教によって毒されてきたのだ。」(ダライ・ラマ『チベットわが祖国』木村肥佐生訳 中公文庫 1989(原著は1983))これはマルクスやレーニンが唯物論のイデオロギーとして宗教を安酒やアヘンと呼んだのとは次元が違う。中国の歴史を見なければ真意はわからない。今回は中国の宗教反乱を中心に見ていきます。また、『中国史における革命と宗教』からの引用になります。 時代は南北朝時代、北魏が華北を統一し、華北と華南にそれぞれの王朝が立った時代。この時代の北魏に大乗の乱(515,516年)という中国初期の仏教一揆が起こる。北魏は洛陽の龍門石窟に代表されるように仏教を鎮護国家の宗教としていた。大官貴族も競って伽藍堂塔を造営し、民を圧迫した。そんな中、民の側からの仏教反乱が起こった。反乱の首謀者法慶の参謀李帰伯は十住菩薩・平魔軍士・定漢王という号を与えられ、一人殺すものは一住菩薩、十人殺すものは十住菩薩となし、また狂薬をつくって人にのませ父子兄弟の区別もできないようにし、唯殺害のみを行わせ、到る所で寺院を破壊し僧尼を殺し、経像を焼き、「神仏が出生して旧魔を除去するのだ」と称した。(『魏書』) というようにオウム真理教以上に仏教の教義を曲解、拡大解釈したスローガンを行った反乱だったが、圧制者に対する憎しみが、仏教の持つ俗世からの解脱というシャーマニズム的な超越性の中で、既得権益への破壊衝動へと繋がったようだ。 隋末には数ある反乱の中で613年弥勒下生信仰を標榜する沙門向海明を中心とした宗教一揆が起きた。向海明は自らを弥勒仏転生と自称した。この弥勒下生信仰が以降の中国の仏教反乱のイデオロギーになってくる。弥勒信仰は将来人間の寿命がのびて8万6千歳になる時(57億6千万年後)、勝伽転輪聖王が出現するとされたが、バラモンの子であった弥勒は輪年転生後、この将来の転輪王になると発願したことを由来とし、その弥勒菩薩の浄土に往生せんとするのが弥勒上生信仰で、弥勒菩薩が下生するというのが弥勒下生信仰だ。この弥勒下生は限りない未来にも関わらず、当時の仏教の末法思想や、弥勒下生時期の数字の操作により、自らを下生した弥勒だと称する仏教反乱が続発した。また、弥勒下生信仰は呪術や仙術等のシャーマニズム的なものと融合し、個人の現世利益的な信仰になっていった。北宋の時代になると弥勒信仰を標榜した王則の乱(1047)が起きた。「釈迦仏は衰謝し弥勒仏が持制しようとする」と称した。(『続資治通鑑長編』) 1131年、華北に満州族(女真族)の金王朝が出来て、宋が華南に追いやられた南宋の時代、以降の中国の動乱を起こし続ける仏教結社、白蓮教が創立される。当初は弥勒下生信仰とは関わりがなく、酒や肉を絶った生活を送る念仏集団だった。かといって世俗の生活を否定するのでもなく、むしろそれを重要視する現実主義的な教団だった。だが次第に弥勒下生信仰や呪術信仰が浸透していった。白蓮教は元末に乱を起こし、蒙古人を北を追いやり、白蓮教組織の一派であった紅巾の乱の首謀者朱元璋が明朝を建てた。その明朝でも反乱を起こし、明が滅びると、清朝の後半期に反乱を起こした。また、「扶清滅洋」を唱え、拝外主義の反乱を起こした義和団も白蓮教と関係がある。 反乱が起きた現状としては元代は日本、安南(ベトナム)、ジャワ等の遠征による負担、自然災害による大飢饉に救済が追いつかなかったことなどがあげられる。明も飢饉による流民の増加で安定しなかった。その上、北へ追いやった蒙古人も絶えず反攻してきた。また、青海地方にて蒙古とチベットが接触し、蒙古人にラマ教が普及した。蒙古と明の間には白蓮教の解放区まで出来た。清代については前半は安定し、農地の開墾が進み、技術が進歩し、爆発的に人口が増加した。ただし、後半は農地拡大が限界に達し、爆発的に増加した人口に食料供給が追いつかなくなった。 反乱の経緯はどの時代もだいたい以下の通りだ。最初は弥勒下生をスローガンに非現実的なユートピアを説き、呪術信仰により人々を狂心状態にさせる役割を宗教派が行った。反乱を起こすにあたり匪賊のような武力派を吸収した。その中で単なる匪賊の襲撃以上の徹底した破壊と略奪を行った。その過程の中で宗教派から武力派に権力が逆転していく。明を建てた朱元璋は宗教派というよりも、武力派だった。そこには人肉食さえ行われた苛烈な飢餓の現実があったが、そんな現実を幻想にひっくり返す宗教の熱狂は現実をさらに過酷にする破壊へと向わせた。
オウム真理教も自己陶酔の終末思想と予言により自己矛盾を拡大し、過激化していった。現実を無視したユートピア幻想は破壊しか生まず、最後には自分自身も滅ぼしてしまう。白蓮教という宗教結社も平時は農民を主体として自給自足の現実的な組織だが、弥勒下生信仰のようなあり得ない予言信仰が入り込むとその歯車は狂い、破滅へと向わせる。 宗教による反乱と破壊という点についてはヨーロッパの例も上げておこう。『千年王国的民衆運動の研究』(鈴木中正著 東京大学出版社 1982)から引用する。1538年に西北ドイツのミュンスターでヤン=マティスJan Mattysとその弟子ヤン=ボッケソンJan Bockelsonによりプロテスタント左派の再洗礼派という教団による反乱が起きた。千年王国信仰に基づく終末思想を説き、終末が近い将来にあるとした。当時、ヨーロッパにおいてもペストの流行により人口が半減するという現象が起きている。そんな中、マティスは千年王国建設を宣言し、ミュンスター市を集団ヒステリー状態にした。市参事会の選挙で勝利し、カトリック教徒やルター派を市外に追放すると、領主の司教の軍に包囲された。城内は市民の財産は共有物として没収され、反対者は射殺された。マティスが死ぬとボッケソンは通貨の供出、個人住宅の開放、共同食堂の使用の強制、虚言、中傷、貪欲、口論などにも死刑を適用した。ボッケソンは「新エルサレム王国」の建国を宣言し、神の命令によりダビデ王の子孫ということで王位についた。包囲の中で飢餓が進む中、復活祭までには救いが来ると言ってそれが外れ、キリストが石をパンに変えるといった予言をしたが奇蹟は起こらなかった。最初は厳しい一夫一婦制をもって出発し、違反者を極刑にしたが、突如多妻制に切替えられ、反対者を極刑にした。ボッケソン自身女性15人のハーレム状態だった。性も共有されて乱交状態になったのだ。そして1年半に及ぶ包囲の末、ミュンスターは陥落し、再洗礼派は皆殺しにされた。 非現実的なユートピア幻想、終末思想は破壊の原因でもあるが、さらにその背景にある社会不安と絶望のバロメーターでもある。天災が飢餓を産み、戦争が生産者を搾取し、匪賊や流民といった非生産者を産み出していく。そして残った食料を奪い合うためにたがいに殺し合う。そんな中、予言、終末思想にも寄らず、宗教が現実的実践を成し遂げる例も挙げておこう。 四川省楽山に世界最大の大仏がある。これは唐代に掘られた石窟大仏だ。これもまた、弥勒大仏で弥勒信仰を基にしている。当時その前を流れる河川の水害に地域は悩まされてきた。それを見た僧海通が河川の水害を治めるために大仏を90年かけて完成させた。しかし、この事業により、掘り出された石により河川の川底が浅くなり、川の急流が抑えられ、水害が激減した。この事業は非生産者を流民や匪賊にさせることを止め、雇用により労働者にさせる一石二鳥の事業だった。
北魏の時代に行われた石窟建設のような事業は人民から生まれた事業ではなく、皇帝や大官貴族の欲望により成された事業であり、農民のような生産者を駆り出して、むしろ人民を圧迫した。しかし、人民から生まれた事業は行き場の無くなった人々に雇用を与え、さらに将来のインフラを与える。まさに今の時代に問われている課題になっている。 仏教について言えば、インドの初期の仏教において、偶像崇拝を禁じている。現存するブッダの像はみな髪を生やしているが、それは後世で作られたものだからで、本当のブッダは剃髪していたという。輪廻転生も仏教の思想というよりもバラモン教の世界観で、悪いことをすれば低いカーストや畜生になるとカーストの階級社会を正当化するシステムだった。仏教はそのシステムからの解脱を説いている。小乗仏教から大乗仏教に変わるに当り、仏塔崇拝から仏教も変わっていく。しかし、仏教最高の思想家といえる龍樹も『中観』で説いているのは認識論であり、仏教とは考えるもの、無常の現実を捉えていく手段だと私は思っている。 オリンピックも終わったので言わせてもらうが、私はチベットはチベットの民意を考えても独立するのが筋だと思っている。しかし、ダライ・ラマは多民族を抱える中国の事情にも考慮して、中華人民共和国憲法の枠内でのチベットの自治権を求めている。中国は西側の政治モデルを模倣しないのもいいが、自分自身が作った憲法も守れないようならば東アジアのリーダーの資格は無い。私にとっては漢人もチベット人もアジア同胞だ。ダライ・ラマはチベットを白蓮教の反乱にすることをよく抑え、現実的にチベットを背負っている。大陸の西側では民族間の憎しみによる虐殺が起きているが、東アジアでは民族協和が成し遂げられることを示したい。 H21.01.24 |