天皇和風諡号からの見る古代日本


 現代一般的に用いられる古代天皇名は〇〇天皇というように現代でも使われる漢風諡号だ。昭和天皇は崩御後の諡名で生前は今上天皇と呼ばれた。現代では一般的な日本人も仏教により死後、仏になったということで戒名が付けられる。ただ、古代天皇の漢風諡号については崩御後すぐに付けられたわけではなく、奈良時代に一括して付けられたものだ。その前は和風諡号で呼ばれていた。『継体天皇と朝鮮半島の謎』(水谷千秋 文春新書2013)によるとその和風諡号についても安閑天皇から付けられたとの仮説を提示している。それ以前の継体天皇などはヲホドという明らかな名であり、生前の名と推測され、それに対し安閑天皇はヒロクニオシタケカナヒとあきらかに意味を持った美称であるためだ。継体天皇の時代に中国南朝の梁から百済を経て五経博士が来日しており、儒教の習慣が伝わったことも根拠として挙げている。また、安閑天皇はマガリノオホエノミコという皇子名、諱名が伝えられている。諱名とは本名で、中国では現代と異なり、諱名で相手を呼ぶことは公式の場や目上から言われる場合を除き、失礼とされてきた。そのために字名という呼び名があった。劉備の字名、玄徳は有名だ。だたし、諱名は諡号と異なり生前の名だ。

 私の先祖は江戸時代、代々大野文右衛門を名乗り、諱名は別にあった。大野文右衛門定八というように代々の文右衛門が字名で定八が諱名にあたる。文書でも文右衛門の字名が使われる。諡名では釈宗義という戒名がある。現在でも日本では親しくもない相手に姓ではなく名で呼ぶことは憚られる。アメリカでは姓で呼ぶように言っても名で呼ぶ人が多い。例えば私の名ケンイチのように発音しにくい名であってもケニチと呼んでくる。諱名の本家の中国、儒教の影響が強いはずの韓国でも現在は名で呼ぶことが多い。イギリスではパンクであってもジョンと呼ぶと嫌がられ、ミスター・ライドンと呼ぶように言われる。諱名は洋の東西、言語に関わらず、王がいるのかで残るか決まるのかもしれない。(R01.10.03追記)

 というわけで古事記に記載のある限りの古代歴代天皇の和風諡号を並べて考察していみることにした。


漢風諡号 古事記 日本書紀 和風諡号から名の切り出し 備考
1 神武 カムヤマトイハレビコノミコト カムヤマトイハレビコノスメラミコト (イハレ)ビコ ※イハレは地名 磐余(桜井市、梶原市)
日本書紀に諱名:ヒコホホデミ
2 綏靖 カンヌナカワミミノミコト カンヌナカワミミノスメラミコト ヌナカワミミ 日本書紀に皇子名:カムヤイノミコト
3 安寧 シキツヒコタマテミノミコト シキツヒコタマテミノスメラミコト (シキツヒコ)タマテミ
4 懿徳 オホヤマトヒコスキトモノミコト オホヤマトヒコスキトモノスメラミコト (ヒコ)スキトモ
5 孝昭 ミマツヒコカヱシネノミコト ミマツヒコカヱシネノスメラミコト (ミマツヒコ)カヱシネ
6 孝安 オホヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト ヤマトタラシヒコクニオシヒトノスメラミコト (タラシヒコ)クニオシヒト
7 孝霊 オホヤマトネコヒコフトニノミコト オホヤマトネコヒコフトニノスメラミコト (ネコヒコ)フトニ
8 孝元 オホヤマトネコヒコクニクルノミコト オホヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト (ネコヒコ)クニクル
9 開化 ワカヤマトネコヒコオホビビノミコト ワカヤマトネコヒコオホヒヒノスメラミコト (ネコヒコ)オホビビ
10 崇神 ミマキイリコイニヱノミコト ミマキイリコイニヱノスメラミコト (ミマキイリヒコ)イニヱ
11 垂仁 イクメイリビコイサチノミコト イクメイリビコイサチノスメラミコト (イクメイリビコ)イサチ
12 景行 オホタラシヒコオシロワケノスメラミコト オホタラシヒコオシロワケノスメラミコト (オホタラシヒコ)オシロワケ
13 成務 ワカタラシヒコノスメラミコト ワカタラシヒコノスメラミコト ワカタラシヒコ
14 仲哀 タラシナカツヒコノスメラミコト タラシナカツヒコノスメラミコト タラシナカツヒコ
15 応神 ホムワケノミコト ホムノスメラミコト ホムダ 日本書紀に皇子名:ホムタワケノミコ
16 仁徳 オホサザキノミコト オホサザキノスメラミコト オホサザキ
17 履中 イザホワケノミコト イザホワケノスメラミコト イザホワケ
18 反正 ミズハワケノミコト ミズハワケノスメラミコト ミズハワケ
19 允恭 オアサヅマワクゴノスクネノミコ オアサヅマワクゴノスクネノスメラミコト オアサヅマワクゴノスクネ
20 安康 アナホノミコ アナホノスメラミコト アナホ
21 雄略 オホハツセワカタケルノミコト オホハツセワカタケルノスメラミコト (オホハツセ)ワカタケル 古事記に皇子名:オホハツセノミコ
22 清寧 シラカノオホヤマトネコノミコト シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコノスメラミコト (シラカノ)ネコ
23 顕宗 ヲケノイワスワケノミコト ヲケノスメラミコト ヲケ 古事記に皇子名:ヲケノミコノイワスワケノミコト
日本書紀に皇子名:オケノミコ
24 仁賢 ケノミコ オケノスメラミコト オホケ 日本書紀に名:オホシ
日本書紀に字名:シマノイラツコ
25 武烈 オハツセノワカサザキノミコト オハツセノワカサザキノスメラミコト オハツセノワカサザキ
26 継体 ヲホドノミコト ヲホドノスメラミコト ヲホド 日本書紀に名:ヒコフトノミコト
27 安閑 ヒロクニオシタケカナヒノミコト ヒロクニオシタケカナヒノスメラミコト ヒロクニオシタケカナヒ 日本書紀に皇子名:マガリノオホエノミコ
28 宣化 タケヲヒロクニオシタテノミコト タケヲヒロクニオシタテノスメラミコト タケヲヒロクニオシタテ 日本書紀に皇子名:ヒノクマノタカタノミコ
29 欽明 アメクニオシハルキヒロニワノスメラミコト アメクニオシハラキヒロニワノスメラミコト アメクニオシハルキヒロニワ
30 敏達 ヌナクラノフトタマシキノミコト ヌナクラノフトタマシキノスメラミコト ヌナクラノフトタマシキ 日本書紀に諱名:オサダ
31 用明 タチバナノトヨヒノミコト タチバナノトヨヒノスメラミコト タチバナノトヨヒ 日本書紀に皇子名:オホエノミコ
32 崇峻 ハツセベノワカササギノスメラミコト ハツセベノスメラミコト ハツセベ 日本書紀に皇子名:ハツセベノミコ
33 推古 トヨミケカシキヤヒメノミコト トヨミケカシキヤヒメノスメラミコト トヨケカシキヤヒメ 日本書紀に幼名:ヌカタベノヒメミコ


神武天皇と欠史八代

 神武天皇と綏靖天皇は「カム(カン)」と神の意味が頭についている。古事記、日本書紀の元となった帝紀の編纂時においても神話的な人物だったことが推測される。神武の場合、その後に「ヤマト」と国の名が続きその後のイワレビコもイワレという地名であり、ビコ(古事記:比古、日本書紀:彦)しか残らなくなってしまう。ビコは日子であり、つまり天照大神の子という後世の音読み意味語であり、名が無くなってしまう。日本書紀にはヒコホホデミ(彦火火出見)という諱名が記されているが、古事記には記載が無く、その後の天皇には長く諱が伝わっていない。ホホデミ(火火出見)という名も日向からやって来たという意味語と取れる。今、私が和風諡号から名を切り出しているように日本書紀編纂時も和風諡号から名を切り出して意味語を付けたようにしか見えない。また、神代の記述では、日本書紀に、サノ(狭野)、古事記にワカミケヌ(若御毛沼)、トヨミケヌ(豊御毛沼)という神武の別名が伝えれている。また、神代の記述では、神武の祖父として、神武の諱名と同名のヒコホホデミ(彦火火出見)の名が登場する。日本書紀の別名はホノオリ(日折)。古事記の別名ではホヲリ(火遠理)。兄のホノスセリ(火闌降命)と共に海佐知、山佐知の伝承となる。これらは古事記、日本書紀ともに神代の記述とし、編纂当時も神話としての認識であり、歴史として認識されていたものではない。日本書紀の帝紀の諱名ヒコホホデミは神話の域を出ないだろう。欠史八代と日本書紀に事績の記載の無いことで歴史上実在性が疑われている天皇には、神武は含まれない。

 その欠史八代の2代綏靖天皇から9代開化天皇の和風諡号からは神(カン)や大倭(オホヤマト)、若倭(ワカヤマト)という国名だか地位だかの名を除くと名らしきものが浮かばれる。また、7代孝霊天皇から9代開化天皇には根子日子(ネコヒコ)とついている。ネコヒコという音からすると和風諡号はいかめしい漢風諡号に比べると癒やし系の名だが、『倭の五王』(河内春人 中公新書2018)によるとヤマトネコという和風諡号は古事記編纂時の42代文武天皇のヤマトネコトヨオホジ、43代元明天皇のヤマトネコアマツミヨトヨクニナイリヒメという和風諡号に見られ、そこから取られた捏造としている。ただ、古事記編纂に伴って過去から採用されたという逆の見方も出来ると私には思える。神功皇后の将軍として難波根子武振熊命(ナニワネコタケフルクマノミコト)という名もあるので根子は地名の士という意味があるようだ。難波根子武振熊命は和邇臣(ワニノオミ)の祖とされ、豪族伝承と見られる。和邇氏自体は古い豪族で欠史八代5代孝昭の末裔とされる。和邇氏勢力圏の東大寺古墳からは後漢の元号である中平(184~189)と書かれた鉄剣がみつかっており、『魏志倭人伝』に書かれた倭国大乱時代からの豪族だ。(水谷千秋『古代豪族と大王の謎』宝島社新書2019参照) となるとネコヒコは頭のヤマトも付けて読み、倭根子日子と倭出身の天子という意味になる。

 和風諡号だけを見ると神武の方がよほど実在性に乏しく、欠史八代の方が当時の名を残しているように見える。また、綏靖にも神の名が残るのも綏靖こそ初代なのではないかと思わせる名だ。または、欠史八代は名前だけ伝わっていることを見るとヤマト政権を統合した氏族なのではないかと思わせる。その統合の象徴として神武を置いたのではないか。欠史八代の宮はみな奈良県内だがそれぞれ異なっている。中心氏族は神(カン)と付く綏靖。神武の伝承通り、九州日向(宮崎県)から来た氏族なのだろう。神武の伝承は綏靖の伝承なのではないか。神武天皇陵と宮内庁が指定している神武田ミサンザイ古墳は本当に古墳なのかどうかが定かではない。今は明治政府によって原型を変えられしまっているが、江戸時代には2つの小さい小丘があったに過ぎない。(外池昇『検証 天皇陵』山川出版社2016参照) そのすぐ近くにある四条塚山古墳は江戸時代には神武天皇陵と思われていたが、現在の宮内庁比定によると綏靖天皇陵に比定されている。こちらは明らかに古墳だ。(今尾文昭『天皇陵古墳を歩く』朝日新聞出版2018参照)

 また、神(カン)と付く綏靖もそうだが、欠史八代でヤマトと付かない諡号を持つ3代安寧天皇、5代孝昭天皇もいる。安寧はシキツヒコ(師木津日子)とヤマトの代わり付く。その三男は同名のシキツヒコで、古事記では伊賀の須知(スチ)の稲置(イナキ)・那婆理(ナバリ)の稲置・三野の稲置の祖、日本書紀では猪使連(いつかいのむらじ)の祖とされる。孝昭はこちらの漢字がミマツヒコ(御真津日子)とヤマトの代わり付く。徳島県に御間都比古神社があり、御間都比古色止命は徳島の開拓神だそうだ。どちらも天皇というよりも豪族の祖先のようだ。6代孝安天皇は大倭帯日子押人(オホヤマトタラシヒコオシヒト)と帯日子だけでなく、大倭が付く。兄に天押帯日子(アメオシタラシヒコ)がいる。日本書紀では天帯日子押人(アメノタラシヒコオシヒト)と大倭、天を除くと同名となる。こちらは和邇氏になる。(日本書紀。古事記では和邇氏の後継、春日氏で記載。) 大倭と付くのはその人物と区別するためと思われるが、和邇氏の伝承と帝紀の伝承を組み合わせる上で発生したと思われ、両者は同一人物と思われる。倭根子日子(ヤマトネコヒコ)と付く孝霊、孝元、開化についてはそれぞれ並列した氏族ではなく、直系の系図を持つように見える。残りの4代懿徳天皇も根子はつかないが、倭日子(ヤマトヒコ)と付く。2代綏靖から直系であろう。

 倭根子日子(ヤマトネコヒコ)とつく3代は、神武天皇の系列が日向出身なのに対し、ヤマト出身つまり奈良に元からいた氏族なのかもしれない。『かくも明快な魏志倭人伝』(木佐敬久 2016)によると魏志倭人伝の邪馬壹国の読みはヤマイであって、ヤマトではない。磐井の乱の磐井こそが邪馬壹国の後継のようだ。『かくも明快な魏志倭人伝』で示さる短里で見た邪馬壹国の位置は磐井の根拠地に一致する。『かくも明快な魏志倭人伝』では旁国二十一国を道里を測れるとした北ではない邪馬壹国の南で、南とはっきり記載されている狗奴国との間としているが、魏志倭人伝には南とは書いていなく、遠絶と書いてあることから、狗奴国より近くにとするその見方は強引だろう。この中の邪馬国がヤマトではないか。シキツ、ミマツ、タラシ、そして神武または綏靖の出身地日向(ヒムカ)の内いくつかはこの中に含まれると思われる。しかし、タラシについては『隋書』「俀国伝」では聖徳太子がアメノタリシヒコ(阿毎字多利思北孤)を名乗っていることからこちらは地名や国名ではなく、オホヤマトを治める日子という意味になる。6代孝安も神武天皇の系列に入れるべきかもしれない。(R01.10.10追記)

 シキツの師木は磯城で三輪山の西を指す。イハレ(磐余)からすぐ東だ。ただし、ツ(津)は港を指すので別の場所かもしれない。しかし、聖徳太子が隋に対して名乗った名はヤマトを治める日子ではなく、天下を治める日子であり、随分と大胆な名乗りをしたものだ。(R01.10.19追記)

 古事記が記載する欠史八代の何人かの寿命は、結構現実的な年齢となっている。綏靖45歳、安寧49歳、懿徳45歳、孝昭93歳、孝安123歳、孝霊106歳、孝元57歳、開化63歳。年齢が異常に長いミマツヒコ(孝昭)、オホヤマトタラシヒコ(孝安)、ヤマトネコヒコの初代(孝霊)はやはり始祖的な存在に見える。シキツヒコが現実的な年齢なのはシキツが磯城で神武直系のためか。孝元天皇の長子、オホビコ(大[田比]古)とその子のタケヌナカワワケ(建沼河別)は崇神天皇の時代に将軍として古事記にも登場する。埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘にワカタケルに仕えたヲワケ(乎獲居)の系図として、オホヒコ(意富比垝)、その子タカリノスクネ(多加利足尼)が登場し、さらに古事記に記載がない5代が記載される。タケヌナカワワケは阿倍氏の祖先とされる。(R01.10.26追記)

 実在性の高いとされる10代崇神天皇、11代垂仁天皇にはイリビコという名が付いている。日本書紀では共に「入彦」という漢字が割り当てられ、古事記では、崇神が「入日子」、垂仁が「伊理毘古」と書き分けられている。「伊理毘古」は地名っぽい名だが、「入日子」は地位なり、業績を称える意味が感じられる。その後に崇神は「イニヱ」、垂仁は「イサチ」と続き、古事記、日本書紀でそれぞれ割り当てられた漢字は異なり、ここは名と考えられる。ミマキ、イクメも名だが地域、国、または称号とも考えられる。倭根子日子(ヤマトネコヒコ)とつく3代、ヤマトタラシ日子を跨いで、ミマツ日子以来のヤマトと付かない天皇となる。「入日子」という名も含めてヤマト以外からやってきた天子という意味にも感じられる。全体を見ると長い名だが生前となる名は一部でそれ以外はこの天皇の経歴を名で示しているように見える。

 実在性が高いと言いながら、この2代も前代の欠史八代、後の神功皇后までの3代と比べて異質で浮いた名になっている。他サイトでも述べられているが、イリには朝鮮系の響きがある。また、イニヱ、イサチのイも姓の李なのではないかとも思わせる。この系統も神武、綏靖の直系ではなく、欠史八代に並ぶ氏族なのかもしれない。古事記にあるイサチの皇子ホムチワケの后が実は出雲大神の蛇という伝承も朝鮮系と日本在来勢力の接触を思わせる。(R01.11.06追記)

ミコ ミコト オオキミ スメラミコト

 古事記は和風諡号の最後に命(ミコト)と付く記載が多い、日本書紀は天皇(スメラミコト)で統一されている。12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇、29代欽明天皇、32代崇峻天皇は古事記でもスメラミコトと表記されている。20代安康天皇、24代仁賢天皇は古事記ではミコ(御子(安康)、王(仁賢))となっており、もはや諡号どころか皇子名で記載されている。

 21代雄略天皇のワカタケルは東国の埼玉県稲荷山古墳と九州の熊本県江田船山古墳出土の鉄剣から名が出ており、生前の名前であることは確かだ。ただ、当たられている漢字は「獲加多支鹵」と、古事記「若建」、日本書紀「幼武」と異なる。江田船山古墳では記載者が張安という渡来人であることが記載されている。つまり、帝紀の天皇名は漢字という文字を通して伝えられていなく、歌で伝えらたことが予想される。また、命(ミコト)ではなく大王(オオキミ)という概念が使われている。

 『釋日本紀』に引用される古事記よりも古い聖徳太子時代の『上宮記』には26代継体天皇のことをオホトノオオキミ(乎富等大公王)と読んでおり、オオキミという概念も古くからあった。しかし、古事記、日本書紀では使用されていない。『上宮記』でも天皇(スメラミコト)という概念も使われており、31代用明天皇など書かれた時代に近い天皇に用いられる。15代応神天皇は凡牟都和希王(ホムツワケノオオキミ)と呼ばれており、オオキミと日本語では同じだが、漢字では大公王と王で異なっている。

 応神天皇の日本書紀の和風諡号はワムタノスメラミコトでワケは付いていない。以降の天皇和風諡号に多く使われるワケは称号と思われる。他サイトによるとワケは王の中国語読みwangが訛ったものと推測されている。天皇でなければ11代垂仁天皇の皇子ホムチワケにワケは初めて使用される。天皇ならばその弟12代景行天皇オシロワケからだ。中国の王の概念が入ってきた時期はこの時期と考えられる。古事記に事績が大きく載っていて初めてワケを名乗った皇子ホムチワケは即位したことになっていないが、私は即位した天皇と考えている。逆に後述するが、12代景行から3代は欽明期までの創作または別氏族の系図を足したものと考えている。(古事記の記述によるとオシロワケの身長は2m(1丈2寸)あったとされ、大柄だ。血沼池など池を複数作り、剣を千振作って石上神宮に奉納したとしている。この人物もどこか狂気を思わせる人物だ。(垂仁天皇の長兄イニシキイリヒコの誤り。R03/01/23)直系かどうかは疑わしいが、実在した人物とは思われる。むしろホムチワケを倒した別氏族と思われる。)
 埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘では、ワカタケルノオオキミの配下ヲワケにもワケは使用されている。鉄剣銘ではその5代前テヨカリワケからワケは使用されている。つまり、これらワケを統率する存在としてこの時代にオオキミという概念が作られたようだ。古事記ではその父タカリノスクネをタケヌナカワワケと読んでいる。崇神天皇の時代に将軍として活躍した人物だが、これは欽明期までにワケに格上げになったものと思われる。(R01.11.06追記)

 『隋書』「俀国伝」には聖徳太子がアオキミ(阿輩雞彌)と自称している。王という漢字はミコ(皇子)とも読めるので古事記では使い分けただけなのかもしれない。古事記の段階でオオキミはミコトに書き換えられたのだろう。現在の神道ではミコトは諡号というよりも一般人の死者にも戒名に近い形で使われる。生前はオオキミで死後はミコトと統一したようだ。15代応神天皇、21代雄略天皇はオオキミとはっきり伝わっており、日本書紀でも変えることは出来なかったのだろう。漢字表記が安定し、「大公王」の漢字でオオキミと読んだ継体については日本書紀では天皇(スメラミコト)としたのだろう。

 古事記でもスメラミコトと記載されている天皇は必ずしも、事績が大きい訳でもない。崇峻は在位が短く、崇峻天皇など蘇我馬子に暗殺されている。清寧は皇子時代の名も伝わっている。和風諡号と比べるとまるで別名で、いかにも後世に付けられた諡号という感じだ。21代雄略天皇の子であるが、本当に在位したのかも疑問に思われる。当時はオオキミにもなれずに後から天皇(スメラミコト)を付けて格上げしたように見える。古事記でミコとなっている天皇も同様だろう。

欽明天皇の歴史観

 古事記においてもの29代欽明天皇については天皇(スメラミコト)と呼ばれるに相応しい業績がある。この時代に天皇(スメラミコト)という尊称が付けられ始めたと思われる。古事記では30代敏達天皇、31代用明天皇はミコトのままなので欽明もまた別格なのだろう。

 同じく古事記においても天皇(スメラミコト)の12代景行天皇、13代成務天皇、14代仲哀天皇については、欽明時代の評価から天皇(スメラミコト)に格上げになったのだろう。12代景行の時代にはヤマトタケルによる熊襲討伐の伝承があり、それを父継体による磐井の乱討伐に見立て、自身の功績までの評価にこの3代を天皇(スメラミコト)に格上げしたのではないか。『継体天皇と朝鮮半島の謎』(水谷千秋 文春新書2013)によると磐井の乱は磐井の方から起こした乱ではなく、力を持ちすぎた磐井に対する継体天皇の一方的な鎮圧であったという。そんな父を正当化するために、ヤマトタケル伝承が作られ、景行、成務、仲哀は追加された可能性がある。

 古事記ではヤマトタケルは三重県の能褒野で死亡し、そこに陵墓が作られたとされる。その能褒野王塚古墳は4世紀末の古墳でヤマトタケルの時期と一致する。しかし、白鳥になって飛んでいき、河内の志幾に留まり、そこに陵墓が作られたという。それが古市の白鳥陵でこちらは5世紀後半築造だ。つまり、5世紀後半に改葬が行われ、再評価が行われたことになる。ヤマトタケルもワカタケル(雄略)と同様に残忍さが伺える記述がされている。5世紀後半はまさに478年倭王武が中国南朝宋に使節を派遣した時期だ。ワカタケルよりもヤマトタケルの方が倭王武の訳そのものになる。雄略はヤマトタケルの継承者を自認してたのかもしれない。また、古事記の伝えるヤマトタケルの伝承はワカタケルの事績からの再解釈が伺える。モデルとなった人物はいたのだろうが雄略~継体の間で事績が膨らませれているのだ。ヤマトではなく、伊勢の国の人物では継承しなかったタケルを雄略がヤマトと付けて、欽明期に系図の中に入れるために景行、成務、仲哀3代を系図に入れたと考えられる。11代垂仁天皇は伊勢大神に娘のヤマトヒメを行かせており、この時期にヤマトと伊勢の勢力との接触があり、伊勢の勢力にいたのがタケルであろう。(R01.11.07追記)

 執筆時になぜ気づかなかったのわからないが、12代景行はオホタラシヒコ、13代成務はワカタラシヒコ。つまり、6代孝安オホヤマトタラシヒコから系譜である。13代成務については名前の部分が無い。ただ単に存在感が薄く名が伝わらなかった代なのかもしれない。14代の仲哀タラシナカツヒコは山口県下関に宮を置いている。また、仲哀もまたヒコに続く名が無い。タラシヒコの勢力は中国地方西部の勢力と思われる。伊勢のタケルは少々強引に系図に入れたのだろう。ヤマトの神功皇后が新羅に行く過程でこの地を平定したと考えれば記紀の記述は理解できるものになる。(R01.12.03追記)


 東海から東国にかけて3世紀後半から4世紀にかけて前方後方墳が分布している。それがワカタケルの時代の5世紀後半から6世紀にかけては前方後円墳に変わっている。沼津の前方後方墳、高尾山古墳は弥生終末期の土器が出土しており、築造時期は3世紀前半と推定される。箸墓が4世紀初頭の築造でそれよりも古く、九州の卑弥呼の時代になり、東国にはヤマト以前の独自の国が存在していたことになる。4世紀後半の伊勢のタケルはそれらに影響力を持っていたと思われる。ワカタケルはその影響力を自分のものにするためにヤマトタケルの伝承を作る必要があったのだ。(R01.11.09追記)

 3世紀後半から4世紀にかけて東国で作られた前方後方墳や方墳は前方後円墳と比べると高さが低く、埼玉県柏崎の4世紀前半の前方後方墳など段差しかなく、上に住宅が建ってしまっている。それは古墳上で儀式が行われたためで前方部もその儀式の正面の意味を持つ。中国の宮殿の前が参列者が集結する場となっているのと同じだ。前方後円墳の起源は西日本の円墳に突出部の付いた双方中円墳と言われているが、私は東国の前方後方墳と西日本の円墳の両方を取り入れたことがヤマトをヤマトたらしめていて、それが前方後円墳の起源と見ている。(R01.11.24追記)


 この3代は15代応神天皇に比べて和風諡号の名前と思われる部分が長く、当時の名前とは感じられない。成務の古事記での記載は短く、また拠点は継体天皇と同じく近江だ。仲哀の古事記での記載は主に后の神功皇后(オキナガタラシヒメ)の話となる。仲哀の宮は山口県下関で他の天皇とは異質だ。ヤマトタケルの子で成務は叔父にあたり、成務に跡継ぎがいないため即位した。ここは継体ほどの遠縁ではないものの継体の即位を連想させる。神功皇后は9代開化天皇から5代後で、ここは応神から5代後の遠縁で継承した継体の身の上と酷似している。

 古事記によると応神は神功皇后の新羅遠征の際に生まれており、その後、神功皇后は仲哀の別の后からの皇子2人と戦い、殺している。その際の将軍が前述の難波根子武振熊命だ。古事記は神託で応神は仲哀の子としているが、事実上応神が仲哀の子ではないことをわざわざ記している。日本書紀ではさらに仲哀が崩御した後に熊襲征伐を行い、その後新羅遠征中に応神の出産を記載しており、この母系継承を強調している。10代崇神の系統は(景行、成務、仲哀3代の記紀の記述を信用した場合、あるいは、それらが系図に追加された後の歴史認識において、)仲哀で絶えたことになり、奈良時代に付けられた漢風諡号で祟りの神と付けられたのはこれに由来するのだろう。実際に仁徳天皇の父系の血筋は雄略天皇が行った皇子粛清とその後に男子が生まれなかったことより絶えている。古事記、日本書紀で業績を並べ、奈良時代に仁徳天皇という漢風諡号を付けたのはこれも祟りを鎮める意味があるのかもしれない。神功皇后から応神は母系継承となるが、神功皇后の系統の拠り所とする9代開化天皇は欠史八代であり、倭根子日子(ヤマトネコヒコ)と付く3代の系統と考えると欠史八代氏族間の闘争とも言える。それ以前にも崇神が8代孝元天皇の皇子、タケハニヤスと戦い、殺していることを古事記、日本書紀共に伝えている。

 神功皇后の名は明治から戦前まで戦意高揚のため用いられたが、古事記、日本書紀の記載する事績から見ると日本史上で北条政子に並べられるほどの悪女だ。日本史上の悪女に日野富子も挙げられるが、応仁の乱における将軍継承争いは義視の方に責任があり、金稼ぎについては幕府財政を支え、それほどの悪女とは言い難い。足利幕府は飢饉での支援も行っている。仲哀天皇の皇子は殺したが、新羅王は生かしている。神功皇后の新羅遠征は母が新羅王の末裔であることも関連していると思われる。(日本書紀記載。古事記には記載なし。)遠征時の新羅は男の王だが、新羅は女王が多い。(R01.10.08追記)

 日本書紀では継体天皇即位の前に、仁徳系断絶後の候補として仲哀天皇の5世孫のヤマトヒコノオオキミ(倭彦王)が登場する。古事記には記載が無い。古事記は24代仁賢天皇以降、記載はみな短くなる。24代仁賢、25代武烈は創作の可能性があるからと言えるが、26代継体以降が短いのは、主に欽明天皇期の歴史観を記載した古事記ではこの時代について歌を交えるなどして主観的に論ずるには政治的に難しかったのだと考えられる。政治関係の無くなったその前であればいくらでも語ることが許された時代の空気を感じる。継体の系統を脅かしかねない崇神男系の存在は古事記では書けないだろう。ただし、ヤマトヒコノオオキミについては結論から言えば名前と思われる箇所すらなく実在した人物とは思われない。しかもそれは諡号ではなく当時の実名だ。雄略から継体にかけて軍事部門を担った当時最有力豪族大伴氏が、力を失った奈良時代に一族の自己弁護の伝承を伝え、それが日本書紀に載ったに過ぎないと思われる。(R01.10.14追記)

古代天皇の年代と邪馬台国

 『六国史』(遠藤慶太 中公新書2016)によると日本書紀において年代を記載する際、雄略以降は中国南北朝の南朝で用いられた元嘉暦を使用し、20代安康天皇までは唐で用いられた麟徳暦に倣った儀鳳歴という後の時代の暦を使用しており、神武~安康までは年代が伝わっておらず、日本書紀という天皇の在位を記述する目的から、暦に合わせて事績を当てはめていったのだという。そのため、非現実的な天皇在位期間が記載され、神武~安康までの年代については当てにならないことを指摘している。しかし、日本書紀で非現実的な在位となるのは87年の在位を持つ16代仁徳天皇以前で、17代履中6年、18代反正6年、19代允恭42年、20代安康3年と現実的な在位年数が記載されており、これらは年代ではなく在位年数が漠然と伝わっていたと考えられる。信用できるはずの雄略天皇の没年は古事記で489年、日本書紀で479年と食い違っており、履中~安康の在位年数についても10年以上の誤差は見ておく必要がある。

 現在、仁徳天皇陵とされる大仙古墳と履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳は年代が逆で大仙古墳の方が新しいとされる。これだけ大きい古墳を作ったはずの履中天皇の伝わる在位は短い。古事記の記載もいきなり弟の反逆の話で短い。その後の反正、允恭も弟の継承で、それにも関わらず允恭の在位は42年と長い。允恭の陵墓は大仙古墳に近いが、古事記では毛受(百舌鳥)と記載されている仁徳、履中と異なり、河内の恵賀の長枝とはっきり別の場所を記載している。允恭42年の在位か系図かどちらかが誤っていると思われる。

 上石津ミサンザイ古墳は、応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳よりも古いとされる。そうであるならば履中天皇陵の治定が誤っているだけで、大仙古墳は仁徳天皇陵なのかもしれない。(今尾文昭『天皇陵古墳を歩く』朝日新聞出版2018参照)誉田御廟山古墳は記紀の記録でも、その後誉田八幡宮が作られたことからも応神天皇陵と思われる。年代的には神功皇后陵か?(R01.10.08追記)

 仁徳の和風諡号、大雀はミソサザイという鳥に由来しているという。(遠山美都男『名前でよむ天皇の歴史』朝日新書2015) 上石津ミサンザイ古墳でも使用されるミサンザイ、あるいはニサンザイという古墳の名は陵(ミササギ)に由来するというが、上石津ミサンザイ古墳のミサンザイはミソサザイから来ている可能性がある。そうであれば上石津ミサンザイ古墳が仁徳陵になる。ただ、仁徳についてはこれだけ大きな事績を残しているのにも関わらず、和風諡号からは架空感が否めない。その父、応神のホムダに比べても顕著だ。同じく聖帝と伝えられる殷の武丁が残虐な覇王だったように、これだけの陵墓を作り上げた仁徳も覇王だったと想像出来る。税を免除する王がこれだけの陵墓を作れるはずもない。またその死後皇統が安定していないのもカリスマ的経営者を失った穴を示している。ただ、仁徳と伝えれる事績もこれと帝位を譲り合った事績しかなく、後は好色で嫉妬深いという仁徳とは程遠い事績までが伝えられている。古代天皇の中で一番矛盾に満ち、謎の多い存在だ。(R01.12.15追記)

 古事記の年代を信用すると雄略の在位は、その後3代、22代清寧、23代顕宗、24代仁賢の日本書紀に記載される在位期間と被っており、これらの天皇が本当に即位したのか、候補のうちに死没し、後世に名誉回復されたのかは謎だ。古事記にはこの3代の在位年代は記されていない。『倭の五王』(河内春人 中公新書2018)によると雄略天皇とされてきた倭王武の即位は478年としている。その根拠は477、478年と中国南朝宋に2回続けて倭の使節が派遣されており、この間に皇位継承があったと考えられるためだ。日本書紀では雄略の在位は455~479で倭王武が雄略であろうと無かろうと年代は相当食い違っている。古事記には雄略の前代安康の崩御の年代は記載されておらず、古事記上での雄略即位の年代はわからない。古事記の年代が正しいとし、倭王武が雄略とするならば、478~489となる。倭王武を26代継体とするならば477年に使節を送ったのはで25代武烈で日本書紀記載武烈崩御506年、継体即位507年は30年年代が早まることになる。

 『六国史』(遠藤慶太 中公新書2016)によると浦島太郎の昔話は日本書紀に雄略22年7月の出来事として記載され、『丹後国風土記』にて具体的な国司の名をもって記したものとして保証している。浦島太郎には宋への使節を連想させるものがあり、雄略天皇が使節を送った根拠とも言える。『古代日中関係史』(河上麻由子 中公新書2019)によると稲荷山古墳鉄剣銘に「治天下」とあるが、これは中国からの体制保証をする必要のない皇帝の宣言ではなく、単に自分の治めている土地を指すと指摘し、雄略天皇が使節を送らなかった根拠にはならないとしている。文字ではなく口伝伝承の年代というものがいかに誤差が生むものかと感じさせる。
 22代清寧は前述の通り、後世の和風諡号を思わせる名、24代仁賢は古事記でミコとなっており、即位実績が疑われる天皇だ。仁賢と25代武烈天皇は古事記での記述は非常に短い。武烈の和風諡号オハツセノワカサザキには当時の名に見える所が見当たらない。23代顕宗以外は雄略天皇の存命中にに死亡しているのではないか。自らの子清寧が先に死亡したことにより、これらの皇子も殺されたのではないか。 オホケ(仁賢)、ヲケ(顕宗)の兄弟は清寧天皇が見つけたことになっている。武烈については完全に実在しないないと考えられ、陵墓も古墳ではなく、陵墓の形状も山形という古墳の形すらしていない。日本書紀に記述される武烈の悪行は雄略天皇によるものなのではないか。浦島太郎の伝説を見ても、宋に派遣された使者が帰ってきた頃には行く前と様変わりしたヤマトの現状を嘆いたものなのではないか。清寧の和風諡号、白髪大倭根子命の白髪の大倭出身という名も玉手箱を開けた浦島太郎を連想させる。(欠史八代の孝霊、孝元、開化と異なり、日子が付いていない。古事記編纂時の42代文武、43代元明と同じだ。古事記編纂時に付けれた諡号と思われる。)23代顕宗については父を雄略に殺された天皇が雄略の陵墓を破壊しようとする様子が古事記、日本書紀両方に記載される。もしかしたら兄の仁賢も殺さていたのかもしれない。ところが兄の仁賢が民に示しがつかないことを理由に諌め、止めることになる。毛沢東の死後も毛沢東の権威に依らざるえなかった文革で迫害された中国の指導者達を思わせる。武烈に罪を着せているのは文革四人組を思わせる。(R01.10.08追記)
 武烈天皇陵以外で山形の古墳は3代安寧、4代懿徳、5代孝昭、7代孝霊という欠史八代、及び薄葬が進んだ42代文武天皇以降になる。特に孝霊天皇陵は江戸時代に行われた文久の修復で山稜の形無しとし、古墳ではない可能性は江戸時代から指摘されている。孝昭天皇陵は祠があっただけだった。(R01.10.19追記)

 履中から雄略の日本書紀記載の在位年数を平均すると16年程となり、そこから仁徳以前を当てはめると全天皇が実在したとして神武の即位は2世紀中頃になる。仁徳以前の平均在位年数を10年とすると3世紀中頃で神武は卑弥呼の時代の在位となる。16年で考えると箸墓に葬られたトトヒモモソヒメは7代孝霊天皇の娘であることから3世紀末あたりで、卑弥呼の後を継いだとされる臺與の時代に近い、10年換算だと4世紀前半で臺與よりも後の人になる。倭王武を継体天皇として年代30年遡るとトトヒモモソヒメは3世紀中頃やや後半で臺與の時代に一致する。欠史八代を同時代の氏族と考えると4世紀初~中頃になる。どちらにしてもトトヒモモソヒメは卑弥呼ではないようだ。
 古事記ではトトヒモモソヒメはトモモソビメで、7代孝霊天皇の娘と書いてある以外記載がない。婚姻相手が蛇だったという話は11代垂仁天皇の皇子ホムチワケの話として登場する。トヒモモソヒメは日本書紀の脚色で存在が大きくなったとも思われる。箸がホトに刺さって死んだという伝承も神功皇后による崇神系の男系断絶に対する戒めの記載に見える。これは日本書紀による歴史認識で古事記に記載が無いことから欽明天皇期の歴史認識ではない。箸墓のハシをこの時代に箸の出土が無いことから、仁徳天皇期に埴輪を発明した土師氏に関連付ける説もある。確かに箸墓は埴輪が出土する最初の古墳でもある。また、古代出雲大社のように天につなぐ橋という説もある。(今尾文昭『天皇陵古墳を歩く』朝日新聞出版2018参照) 橋と考えるとトトヒモモソヒメの伝承はバベルの塔の神話にも似ている。古代出雲大社の天に伸びる橋もあまり長く保っていない。ともかく、古事記、日本書紀共に卑弥呼どころか壱与に繋がる伝承すら残っていないことになる。
 邪馬壹国の継承者が磐井だとすると、磐井を征伐した継体の系統は卑弥呼及びその跡継ぎの壱与の存在を認められなかったのかもしれない。日本書紀は卑弥呼を神功皇后だとし、年代を100年以上をずらしたが、日本書紀の編者もさすがに無理があることは気づいていて、後世の解釈に委託するつもりトトヒモモソヒメの存在感を誇張したのかもしれない。古事記では崇神天皇の対応としている箇所をみなトトヒモモソヒメの対応に書き換えられている。臺與(トヨ)は唐代の『梁書』諸夷伝の記載で、魏志倭人伝は壱与(イヨ)になる。後世の『梁書』諸夷伝の方を読んでトが一致するトトヒモモソヒメを誇張したのかもしれない。ともかく邪馬壹国は大物主の神に認められず、断絶したことを伝える伝承なのかもしれない。倭の五王が書かれた『宋書』倭国伝も日本書紀の編者達は読んでいるはずだが、こちらはもはや特定を諦めてしまっている。
 卑弥呼の陵墓には奴隷100人余りが殉葬されたことが記載される。さらに魏に対しては奴隷(生口)を2回献上している。あとを継いだ壱与も献上し、107年に漢に使節を送った倭国王帥升も献上している。悪質な奴隷社会だ。古事記では崇神天皇の皇子ヤマトヒコ(倭日子)が初めて殉葬を行ったことが記載されている。日本書紀では垂仁天皇が殉葬を止めさせるために代わりに埴輪を初めて作ったことが記載される。箸墓と土師氏の関係はここからも読み取れる。ただ、4世紀前半から中期と見られる垂仁天皇の在位と4世紀初頭と見られる箸墓の築造時期では若干箸墓の方が早い。邪馬壹国の後継と見られる磐井は埴輪の代わりに石人を用いている。倭の五王には生口の献上の記載が無く、倭日子という名も名が無いに等しいので、ヤマトと磐井の戦いには奴隷解放戦争の意味合いも感じれる。『釈日本紀』に引用される『筑後国風土記』によるとこの際、ヤマトの軍勢は怒りで磐井の陵墓の石人、石馬を破壊したという。倭日子という名は名が無いに等しく、実在の人物ではなく、奴隷の殉葬という対立点を提示しているように見える。その後の律令制度でも奴婢の制度は残っていたが、持統天皇の代で売買が禁止された。日本書紀はその根拠として垂仁天皇の殉葬を止める記事を載せたと考えられる。制度としては禁止したのものの、その後、飢饉における子の売買や、戦国大名の乱取りに至るまで奴婢を無くすことは出来なかった。現代では歴史におけるマルクス主義の階級闘争史観が批判され、それ自身ドイツの特殊な歴史事情の産物でもあるが、古代日本には妙に符合している。
 しかし、朝鮮半島への影響力は磐井の力があってのものだった。この後、欽明期に任那は滅亡することになる。倭の五王のように朝鮮半島の権益の保証を中国に対して上表することは無くなり、聖徳太子の遣隋使まで中国への使節は送られなくなる。倭の五王が使節を送ったのは南朝宋であり、南北朝の分裂期に加え、倭王武の上表直後、宋が滅び、その後の南斉も15年で滅びた。そして、継体~欽明期と同時代の南朝梁の時代は武帝による仏教統治で南朝最後の繁栄を謳歌していた。そんな時代に五経博士が来日した。欽明期には仏教も伝来する。軍事から内政徳治への転換の時代だった。(R01.10.20追記)

 日本書紀に天武十年(681年)七月には、全国的に行われた大祓という神事に、国造がそれぞれ一人ずつ奴婢を供物として供出したと記載がある。持統天皇の先代の時点で人身供犠を伴う神権政治からは抜け出せていなかったことになる。持統天皇の奴婢売買禁止の詔は持統五年(691年)。日本書紀に記載。(R03.12.30追記)
 古事記に比べて日本書紀はその成立に政治的な歴史観が強く、そのため信用出来ないとよく言われるが、実際読んでみるとあるそのような押し付ける歴史観があるというよりも、「一書にいう」という説がいくつも提示されていて当時伝わってきたソースに対して非常に受け身だ。むしろ歴史観で諸説の取捨選択をしていないのだ。そのため互いに矛盾する説をそのまま残し無理矢理繋いでしまって一貫性が壊れてしまっているのだ。むしろ、古事記の一貫性は欽明天皇の歴史観がもたらしている。今の歴史家が西暦を元に年代を特定しているのと同様に天皇の年代記という形で年代を当てはめているがそれがとんでもないことになってしまっている。両論併記で結論先送りの日本の伝統はこの頃からのようだ。しかし、後世の歴史家にとっては排除される逸話もそのまま残っているので、当時の解釈の誤りを紐解いていけば歴史資料としての価値はむしろ高い。編者達も後世に解釈を託しているのであり、書いてあることをそのまま事実とする戦前の歴史観を知ったら日本書紀の編者達もびっくりなのではないか。そのような歴史観は古代日本にはなく、むしろ近代国民国家のファシズムが生み出しているのである。(R01.10.14追記)

 卑弥呼と壱与を神代の天照大神になぞらえる解釈もある。卑弥呼の死んだ時期、247年3月24日と248年9月5日に日食が発生しており、これを天の石屋(いはや)に例えて、壱与の登場を以って天照大神が天の石屋から出てきたとする考え方だ。スサノオの蛮行で怒った天照が天の石屋に籠もるのだが、その前に、天照が神儀で使用する衣を織らせていた侍女がスサノオが投げ入れた皮を馬の死体を投げ入れて驚いた侍女が機織りの棒にホトを刺して死んでしまう場面がある。この伝承が箸墓伝承の元と思われる。ただし、天照の弟であるはずのスサノオは『後漢書』東夷伝に出てくる107年に後漢に朝貢した倭国王帥升であり、卑弥呼の時代より100年以上遡った、記紀では神代の人物ながら歴史上の人物である。そこから倭国大乱を経て、卑弥呼が登場するまで100年以上かかっている。曹操の活躍した漢末の混乱期に、公孫度、公孫康、公孫淵の3代が遼東に独立勢力を築いたため、情報が中国まで入ってこなくなったのだ。漢が朝鮮半島北部に楽浪郡を置いたが公孫康はさらに南に帯方郡を置いた。司馬懿が公孫淵を滅ぼしたことにより、卑弥呼が歴史に登場することとなった。そのため、この間に日本に起きたことは知られていない。『魏志倭人伝』によると卑弥呼の前に男の王が7、80年で治めて卑弥呼が即位するまでが倭国大乱であったとするので邪馬壹国は150年頃誕生し、スサノオの時代に届かない。この間の伝承が神代の神話に残っているだろうか。神代の神話自体、年代を崩しながら多くが『後漢書』や『三国志』から生まれたようにも見える。天の石屋伝説そのものが磐井(古事記では石井)が卑弥呼、壱与の後継であることを示しているように見える。卑弥呼についてはこのような解釈が、ある時期は天照に、ある時代にトトヒモモソヒメに、ある時代は神功皇后にと、それぞれの伝承の成立事情により何段階にも渡って解釈し直された痕跡が見られるのである。(R01.10.17追記)

 日子という和風諡号から太陽神の信仰はあり、磐井の伝承として天の石屋の原型があったと思われるが、神代の神話の成立は帝紀より遅く、五経博士が来日した後、継体~欽明期の成立ではないか。イザナギノミコトの右目から天照が生まれ、左目から月読命(ツキヨミノミコト)が生まれたとあるのは山海経に出てくる燭竜だ。四川省三星堆遺跡では目が飛び出た燭竜の仮面が見つかっている。つまり、天照は三皇五帝の炎帝、崑崙山の西王母、祝融と繋がる存在で道教と密接に繋がっているのである。当時は信仰というよりも世界観、理科的なものとしてつたわったのだろうが。もちろん、古事記の帝紀に出てくる三輪山の大物主命(崇神)、出雲大神(垂仁)、伊勢大神(垂仁)、葛城山の一言主大神(雄略)はそれ以前からあったものだろう。神代の大国主神は古事記垂仁天皇の帝紀では葦原シコヲノ大神の名で呼ばれており、神代成立以前の名が伺える。(R01.10.19追記)

 ヲホド(継体)のオオキミの陵墓と見られている今城塚古墳には喜びに溢れた当時の空気を感じさせる埴輪が出土している。これは磐井からの解放を喜ぶ人々のようにも見える。やはり、天の石屋伝承は卑弥呼の死に伴う日食を指すのではなく、磐井からの奴隷解放を指しているのではないか。その後1500年の今まで続く皇統はヲホドの業績に追うところが多いと思われる。オホサザキによる仁徳と呼ばれる業績はヲホドの業績からの再解釈にも見える。ワカタケルの狂気の時代と比較し、その絶えた父系の祖、オホサザキの業績については当時でさえほとんど伝わらず、巨大な陵墓からの想像だったのではないだろうか。その後の皇位については聖徳太子の子山背大兄皇子が殺されたり、壬申の乱があったり、長屋王の変、早良親王の配流などもあったがワカタケルの時代ほどの狂気の時代は再発することは無かった。(R01.11.12追記)
 宮内庁が継体天皇陵としている太田茶臼山古墳は殉葬を想起させる陪塚が存在するが、今城塚古墳には陪塚は無い。太田茶臼山古墳は5世紀中頃で時代も継体天皇が崩御した6世紀前半とは時期も異なる。(R01.11.25追記)


R01.09.29

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