インカにおける文明の衝突についてF




 ペドロ・ピサロによるとファン・ピサロとクスコ統治権を巡り揉めていたアルマグロはマンコ・インカに取り入るため、ワイナ・カパックの子5人、名前が分かっているのはバルボア、ソサ、ペレスをマンコ・インカの指示で殺したという。(『大航海時代叢書 第U期 ペルー王国史』増田善郎訳 岩波書店 P.120-121) この話はインディオから聞いた話としている。パウリュはまだ若く、母の地位が低かったため、殺されなかったという。ただ、その名はいかにもスペイン風の名前なので作り話に聞こえる。(パウリュPaulluもここではパブロと表記されているので、わざとスペイン名に当てはめてしまっているのだけかもしれないが。) また、アタワルパも対ワスカル戦の後、兄弟を多数殺しているはずなのに、まだこんなに兄弟が残っていたというのも不思議だ。書いた当時のペドロ・ピサロとしてはマンコ・インカも、アルマグロも敵で汚名を着せなければいけない存在だった。また、このような噂がインディオから出たとするならば、インカ帝国という天が穿たれた当時の権謀術数と動揺を物語るものだ。アルマグロ自身、この時、ピサロの兄弟エルナンド・ピサロが持ち帰ったとするスペイン王室の採決に翻弄されていた。(エルナンド・ピサロ自身はこの時まだパナマにいて採決の証書をクスコまで持ってきていた訳ではないが、その中身については既に伝わっていた。)

 結局、アルマグロは折れ、インカの王子の一人パウリュを連れて、1535年7月3日、570名を率いてチリ遠征に出発する。パウリュはマンコ・インカからアルマグロを殺害する指示を得ていたという噂もあったという。アルマグロのチリ遠征にはスペイン王室の採決だけではなく、マンコ・インカの策謀もあったのかもしれない。正確に測れば、リマもクスコもアルマグロ総督の治める地になる。エルナンド・ピサロも第三回遠征開始前のピサロがスペインから帰ってきた時以来、アルマグロと仲が悪かった。

 アルマグロがチリ遠征に出るとマンコ・インカはクスコからの脱出を計ったがみつかってしまい、連れ戻されてしまった。マンコ・インカは仕えていた女性をスペイン人達に犯された上に、自身もスペイン人達に糞、尿をかけられるという耐え難い屈辱を受けた。ちょうどその時、エルナンド・ピサロがクスコまで帰ってきた。エルナンド・ピサロはスペイン国王カルロス一世から、マンコ・インカを世襲の君主として尊重するように言われていたが、マンコ・インカがこのような扱いを受けているのでスペイン王室への報告する立場が無くなってしまった。エルナンド・ピサロは幽閉されていたマンコ・インカを解放した。マンコ・インカはエルナンド・ピサロにクスコ北西のユカイでワイナ・カパックの式典に参加すると言って、クスコを出た。ファン・ピサロ、エルナンド・ピサロに気づかれて追われたが、ユカイの先さらにアンデス山脈に入ったマチュピチュに近いウルバンバ川まで逃れた。あらかじめマンコ・インカは各地に動員の指示を出しており、ペドロ・ピサロが先住民から聞いたところによるとその数は20万人に達したという。マンコ・インカは以下のように演説をした。

「朕は全土においてキリスト教徒どもを生かしてはおかんと決意した。そしてそのために、まずクスコを包囲したいのだ。諸君の仲、われに奉公せんと考える者は、この企てに命をかけねばならん、これらの杯を飲み干すのだ。」
『インカ帝国−その征服と破滅』(山瀬暢士 2007 メタブレーン)P.167 原典はAnmunous 1539:9-10とあるが、どのような書物なのかわからない。

 『ペルー征服』によるとこの時のマンコ・インカは、輿に乗った善の太陽神の姿を捨て、騎乗、甲冑、長槍という悪の十字軍の姿をしていた。インカの皇帝が当時インカの人々の目から見て近未来的に見える騎乗、甲冑という姿をしている様子は、1938年日本で起きた津山三十人殺しの当時としては近代的な懐中電灯を鉢巻きで2本つけた姿のように異様に写っただろう。

 タワンティンスーユという世界において、フランシスコ・ピサロ達コンキスタドールはここに来て初めて賊軍となった。1536年2月初旬マンコ・インカの大軍は、ファン・ピサロやエルナンド・ピサロのいるクスコを包囲した。クスコには70の騎兵、130の歩兵、二千の先住民兵しかいなかった。インカ側は熱した石を投石機で投げ、クスコは大火災にみまわれた。また、各地で捕らえたスペイン人の首が投げ込まれた。蜂起の中各地で総勢300人以上のスペイン人が殺された。スペイン側の騎馬はリャマを捕らえる時に使用される投げ縄で足を絡めとって倒された。クスコにいたスペイン人の中にはマンコ・インカ側に投降するスペイン人もいた。スペイン側は包囲から脱出するために、インカ側が守る砦の一つを攻めた。しかし、そこでピサロの弟ファン・ピサロは投石を頭に浴びて誅せられた。エルナンド・ピサロはそれにめげずついにこの砦を落とした。インカ側も砦を取り戻そうとしたついに出来なかった。

 インカ側は20万人といっても農民ばかり集めた寄せ集めではあった。植え付けのために数は次第に減っていった。スペイン側は包囲を破った砦から出撃し、周辺から食料調達した。また、各地から増援がやってきた。インカ側は、フランシスコ・ピサロのいるリマからの救援を3度撃退している。そして、リマも同時に全面攻撃することとなった。キソ・ユパンキという将軍に4万を率いさせた。インカ側はクスコを包囲していても、ユーラシア大陸の軍に比べて、大軍をうまく活用する戦術を持っていなかったようだ。大軍も持て余していたという感じだろう。また、兵糧攻めという考え方も無かったようだ。キソ・ユパンキはリマに直行せず、ハウハを落とした。ただそうしている間にリマのピサロは軍備を整えていた。そして輿に乗って現れたキソ・ユパンキを騎兵で突撃し、キソ・ユパンキは戦死してしまった。エルナンド・ピサロは数が減ったインカ側を見て、ユカイのさらに北西にあるタンボのマンコ・インカの立て籠もる砦を攻撃したがついに落とすことが出来なかった。

 ちょうどその頃、チリに遠征に言ったアルマグロが何の成果も得られずに帰ってきたところだった。マンコ・インカはそのアルマグロとの連携を模索し始めた。クスコのエルナンド・ピサロもそれを察知し、白人と黒人の混血の使者をマンコ・インカに対して送った。ちょうそその時、アルマグロの使者がマンコ・インカと会見していた。マンコ・インカはこの白人と黒人の混血の使者の手を切り落とすように言い、アルマグロの使者は実行した。ところが、アルマグロの軍がマンコ・インカの軍に近づく中で、アルマグロの騎馬隊が数名のインカ兵を踏み殺すという事件が発生した。これから両者は揉めた。クスコから4人のスペイン人が偵察に来て、それをアルマグロが捕らえたが、マンコ・インカの使者はその4人を殺すように言ったが、白人と黒人の混血は殺せても、スペイン人は殺せないと答えた。これにより、マンコ・インカはカハマルカの時のようにアルマグロが捕らえる気でいると認識し、ユカイでアルマグロを待ち構え川を渡る前に攻撃した。しかし、アルマグロが川を渡り終わると騎兵突撃を警戒し、タンボの砦まで撤退してしまった。ただし、マンコ・インカが持ちかけたピサロとアルマグロの離間の計は功を成し始めた。

 アルマグロはその後、クスコを攻撃した。アルマグロはマンコ・インカとの戦いで疲弊したエルナンド・ピサロ、ゴンサロ・ピサロを捕らえて、1537年4月18日クスコに入城した。ピサロは援軍を送ったがそれも撃退した。また、200人の兵をマンコ・インカのいるタンボに攻めさせた。これにより、マンコ・インカはよりアンデス奥地で、その後3代のインカの首都ビルカバンバに移ることになる。この地は20世紀になってやっと発見されたマチュピチュよりもずっと奥地で、近年になりようやく発掘調査が行われた地だ。これ以降、インカ側はまさに山岳ゲリラの様相を呈し始める。

ビルカバンバの場所

 ゴンサロ・ピサロはアルマグロの部下に取り行ってクスコから脱出に成功した。アルマグロはフランシスコ・ピサロとの和議に応じ、測量をやり直し両者の領土の境目を今後はっきりさせ、エルナンド・ピサロを6週間以内にスペインに帰国させることを条件に解放することとした。しかし、フランシスコ・ピサロはエルナンド・ピサロの解放が狙いだった。その後すぐにエルナンド・ピサロにアルマグロを攻めさせた。アルマグロは破れ、1538年6月8日、エルナンド・ピサロにより誅せられた。

 ビルカバンバでゲリラ戦を行うマンコ・インカとフランシスコ・ピサロとの戦いは泥沼化していった。マンコ・インカはスペイン人の死体を神の像に供え、スペイン人に協力する部族も容赦なく襲った。スペイン側もマンコ・インカに協力した地域に対しては略奪し、女達はスペイン人の妾にするため、鎖で繋いで連れ去った。反抗する者を容赦なく殺された。ピサロはアルマグロが連れていたパウリュをスペイン側のインカ皇帝として擁立していた。これでタワンティンスーユの中でも賊軍とならずに済んだ。パウリュはアルマグロがクスコに入る頃、マンコ・インカは戻ってくるように誘ったが、パウリュはスペイン人には敵わないとそれを断っていた。とはいえ、この頃になるとスペイン人の無敵伝説も崩壊し、スペイン人の死者も多くなってくる。ゴンサロ・ピサロを総大将とするビルカバンバへの追討軍にはスペイン側についた部族と共に、パウリュ率いるインカの兵も加わっていた。この追討軍により、マンコ・インカは自分の息子ティトゥ・クシと后が捕まってしまうという事態に陥った。ティトゥ・クシは生かされたが、后は殺され、川に流された。またインカの重臣達は投降すれば命を保障するという甘言で投降してしまった後火炙りにされた。マンコ・インカは逃したがこれをもって反抗する力が無くなった考え、フランシスコ・ピサロは帰還した。ティトゥ・クシはスペイン人に預けられたがそこで可愛がられ、それを知ったマンコ・インカはそのスペイン人に使者を送り、感謝の意を示し、ティトゥ・クシは再びビルカバンバに戻ってくることになる。

 しかし、マンコ・インカが蒔いた二虎競食の計はまだ生きていた。リマにいたアルマグロの息子とその残党は1541年6月26日ピサロ自宅を襲った。コンキスタドールの悪の中心フランシスコ・ピサロはここで誅せられた。エルナンド・ピサロはスペイン本土にいた。そこでアルマグロ処刑の張本人で、マンコ・インカを反乱に追い込んだ罪で1540年収監された。ゴンサロ・ピサロも後にスペイン副王に誅せられることになる。

 カハマルカでアタワルパを捕らえたスペイン人168人のうちスペインに帰った者は66名、ペルーに残った63名、その他南米に行った者は3名、不明36名となる。ペルーに残った者の中で31名が殺されているという。(『大航海時代叢書 第U期 ペルー王国史』増田善郎訳 岩波書店 P.617) カハマルカで銃・病原気・鉄で武装したピサロもマンコ・インカの策謀等の因果には敵わなかった。ピサロの兄弟達も誅せられたり、収監されたりという末路だった。ペルーに残った兵士の半分も誅せられている。カハマルカでアタワルパを捕え、処刑した計略はピサロのクスコ入城を早めたことは確かだが、その後の動乱はその文明の衝突の性急さにより返って激しくしたのではないだろうか。そしてその動乱はコンキスタドールの悪の中心フランシスコ・ピサロが誅せられてもまだ終わらない。コンキスタドールとインカの戦い、これを利用してスペイン本土が介入してくることになる。

 なんとピサロの亡骸もミイラ化され、ごく最近までリマのアルマス広場のカテドラルでガラスケースに保管さて展示されていたという。しかし、このミイラは偽物で地下に本物のピサロの頭の骨がみつかったとのこと。ネット検索情報です。自身をインカ皇帝として見ていたのか、周りががインカ皇帝として祭ったのか。あるいはインカに現在に至るまで見せしめにされているのか。『銃・病原菌・鉄』の文明も死の前には為す術がない。H27.10.19


H25.09.09

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