インカにおける文明の衝突についてE![]() これが本当ならばインカもまたアステカと同様にスペイン人を崇めてしまい、自ら征服されていってしまったこととなる。『インカ皇統記』が書かれたのはインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガがスペインに渡った後で、自らの身を守るために、ところどころにこの予言について書いたとも思われる。また、トパルカの孫ということになると、わざとワイナ・カパックの兄弟と母の家系をずらし、スペイン側についてしまった家系ならではの伝承だったのかもしれない。 『インカ皇統記』ではシエサ・デ・レオンの『ペルー史』第一部第44章(『インカ帝国地誌』増田義郎訳 岩波文庫として邦訳されている。P.271が該当箇所)も引用してそこでもワイナ・カパックの予言について書いてあるとしている。シエサ・デ・レオンはトメバンバでこの地の有力者から聞いたとしている。トメバンバは現在のエクアドル、ブナ―島の東、キートの南西にあり、アタワルパが戴冠した場所でもある。彼らによるとワイナ・カパックは、ピサロの第二回遠征でスペイン人がやって来たことをキートではなく、この地で知ったとしている。そして彼らが再びやって来て王国を治めるようになると予言したとしている。これは結果論からスペイン人に対してお世辞で言ったことかもしれないし、ワイナ・カパックがまさにピサロ達が持ち込んだ病原菌で死に追いやられたことで悟ったことかもしれない。しかし、ここは元々カニャル王国の場所でインカが征服した場所でもあった。シエサ・デ・レオンが訪れた当時(1535-1547年の間)男が少なかったという。それはアタワルパ派とワスカル派の戦いの中で、アタワルパがここの住民を虐殺したせいとされている。アタワルパ派の根拠地でさえこの状態なので当時の反インカ感情を持つ部族はかなりいたと考えられる。ピサロ達はこの感情やそこから語られる伝承も利用出来た。インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガのようにスペイン側に付いた王族もその伝承をインカのものとして利用し、自分の立場を正当化した。 カハマルカにいたピサロ達に話を戻す。トパルカを擁立したと言っても、ピサロはアタワルパを処刑したことにより、少なくともアタワルパ派の将軍は敵に回した。アタワルパの子、後にキリスト教改宗後、ドン・フランシスコ・アタワルパと名乗るまだ幼かい子どもは抵抗に備え確保していた。それでも、アタワルパと同母兄弟ティトゥ・アタウチ、チャルクチマに継ぐ将軍キスキスはピサロ達を狙った。これまでインカ側の抵抗が皆無だったがまずアタワルパ派との戦いが始まることとなる。 1933年9月、500人のコンキスタドールはカハマルカを出発し、クスコを目指した。その背後をティトゥ・アタウチ率いる6千が襲い、スペイン人8名を捕虜にした。(※) ハウハに到着後はエルナンド・ソト60騎に先を偵察させた。山岳地帯においてキスキスの軍数千がソトを襲った。その際、5人が死亡、その他負傷者が出た。アルマグロの部隊が合流すると一旦は撤退したが、その後、ピサロ本体が合流しクスコを目指す道程でキスキスはピサロ達を襲い、馬が数頭死に、歩兵に負傷者が出た。チャルクチマが処刑されたのはこの時期になる。また、トパルカもハルハで死んでしまった。ペドロ・ピサロによるとトパルカはチャルクチマに毒殺されたと書いてある。(『大航海時代叢書 第U期 ペルー王国史』増田善郎訳 岩波書店 P.94) トパルカはワスカル派でアタワルパを恐れていて、チャルクチマはトパルカ擁立に反対していたようだ。もちろん、チャルクチマを処刑するためのでっち上げである可能性も高いが、ワスカル派とアタワルパ派の確執をここでも覗かさせる。 ※ティトゥ・アタウチTitu(Tito) Atauchiは『インカ皇統記』第二部(邦訳無し)の出展となる。ただ、ワイナ・カパックの子についても書いてある第一部には記載が無い。ネットを見ると先住民とスペイン人の混血宣教師ブラス・バレーラの『西洋の歴史』(邦訳無し。ブラス・バレーラについては洋書Sabine Hyland『The Jesuits and the Incas』, Michigan, 2003に書かれているとのこと。私は未読。)に記載があり、自身の聞き取りではなく、そこからの引用との説もある。またスペイン語サイトを見るとアタワルパ派、ワスカル派との戦いでワスカル派について戦い、死亡した同名人物がおり、アタワルパの死後、スペインと戦ったとされるこのティトゥ・アタウチの存在を否定する説もあるようだ。しかし、スペイン側の損害についてはスペイン人にとって不名誉なことであったので記録はわざと減らされている。その他、ワイナ・カパックの子としてティトゥ・アウキTitu Auquiという人物もいるが、『インカ皇統記』によるとまだこの時は幼少で別人物となる。若い内に死亡したとされる。 ピサロ達がクスコに入るに当ってアタワルパ派は抵抗したものの、クスコの反アタワルパ派はアタワルパを処刑したスペインコンキスタドールを歓迎してしまっていた。1933年11月15日ピサロはクスコに入城した。その20日後にインカ・マンコをインカ皇帝に擁立した。 アタワルパの処刑後、アタワルパ派だった旧キート王国(現在のエクアドル)ではそのインカ総督ソペ・ソパワ、将軍ルミニァウイの独立状態にあった。ちょうどその頃新たなコンキスタドール、アルバラードが500の歩兵と250の騎兵、マヤ人の荷担ぎ数千人を率いてやって来る途上にあった。ピサロ等500名がクスコにいる中、サン・ミゲルに残っていた100名を率いるベナルカサールの部隊は次々にやって来るスペイン人で200の歩兵、80の騎兵を編成出来るほどになっていた。アルバラードにキートを取られないために、先にキートを奪っておく必要があると自己決断し、1534年2月にキートを攻めるために出発した。そこには反インカの部族も合流した。インカ総督ソペ・ソパワは5000の兵で迎え、騎兵用に落とし穴を掘ったりもしたが見破られてしまい、キートを手放した挙句、捕まってしまい、財宝の在処を吐かせるための拷問を受けて、吐かなかったため火炙りにされて処刑されてしまった。アルバラードについてはピサロがアルマグロを送り、アルバラードに兵隊を高値で売らせることで合意し、アルバラードを帰らせた。 一方、キスキスはピサロ達が去ったハウハを狙った。ハウハには40騎の騎兵しかいなかったが、先住民3千も味方に加わっていた。キスキスは本人が率いる千人と別働隊7千に分かれて攻撃したが大きな損害を出して撤退した。キスキスはハウハから北西カハマルカ方面に撤退した。そこでティトゥ・アタウチと合流する。ピサロは戴冠したばかりのマンコ・インカの兵4千と共にキスキスを追った。キスキスはキートに向かって撤退した。ちょうどその時やって来ていたアルバラードの軍と遭遇してしまった。また、ピサロがアルバラードに送ったアルマグロの軍もやって来てしまい、挟み撃ちになってしまった。キスキスは岩山の天然の要害で防衛し、撤退の時間を稼いだ。この戦いにおいてアルマグロの軍は大損害を出した。スペイン側にとって不名誉な事態なので記録が無く、その規模は不明だ。その話を聞いてピサロが落胆したというから相当な規模と考えれる。キスキスはそのままキートを目指したが、キートは既にベナルカサールによって陥落していた。キスキスの軍勢は補給も絶たれ、投降を訴える部下にキスキスは殺されてしまう。ティトゥ・アタウチはその前に投降した。 ここまではキスキスも、ソペ・ソパワ、ルミニァウイも、タワンティンスーユの中でも賊軍扱いだった。クスコのインカ皇族もアタワルパを皇位の簒奪者として見ていたし、アタワルパが実効支配するエクアドル周辺地域においても、あくまで武力による恐怖支配で、アタワルパ派に反発を持ち、スペイン側に付く部族が多かった。そのため、ソペ・ソパワ、ルミニァウイはあっけなく破れている。ただ、キスキスはクスコ周辺では反感を持たれていたため、スペイン側に大した損害を出せなかったが、キート方面の山岳地帯では新たにやって来たアルバラードとアルマグロの挟み撃ちを喰らったにも関わらず、善戦している。インカ皇帝の処刑という残虐行為にも関わらず、ここまで先住民を利用出来たのには、ワスカル派、アタワルパ派の壮絶な戦いの後というタイミングの良さがあった。 この時のピサロの胸中はどのようなものだっただろう。傀儡のインカ皇帝をたてたが、黄金に取り憑かれて次々にやってくるスペインの浪人達に、インカの黄金を分け与えた。ピサロ本人としては自分の権力の基盤であるスペイン人の欲望も満たしていかなければならなかった。ただ、統治としてはスペイン人達だけでは無理なのでインカの統治もある程度引き継いで行かなければならなかった。ただ、スペインの統治をどこまで入れていくかについては積極的な気持ちになれなかっただろう。ピサロはスペインに戻った時に投獄された。スペインではそのような不安定な地位だった。むしろ、日本では言えば、朝廷から征夷大将軍のお墨付きをもらえ、京都から離れた鎌倉に幕府を開いた源頼朝のように、スペインの総督というお墨付きをもらいつつ、スペインから遠く離れたこの地に自分やコンキスタドールを領主とする半ば独立状態を保ちたかったのではないかとも想像出来る。スペイン本国は総督というお墨付きを与えつつ期待も援助も乏しかった。ここまで数百人でやってこれたのはスペイン本国よりも自分達の力だと思っていただろう。 ピサロはクスコを出て、西部沿岸のリマに拠点を建設した。この方が次々やってくるスペイン人を受け入れやすく、インカ皇帝の権力をピサロの方に順次移して行くことにちょうどいいと考えたからだろう。ちょうどその頃、スペイン本国に送っていたピサロの兄弟エルナンド・ピサロが帰ってきた。Bで述べた通り、ピサロが総督となる領土が600マイルからさらに200マイル拡張され、アルマグロはそのさらに南600マイルの総督となるというアルマグロに不利なスペイン王室の採決だった。二人の統治者だと後々揉めるからという理由だがスペイン王室はその後の政策を見てもわざと彼らコンキスタドールを分裂させようとしてたのではと考えてしまう。もう一人彼らの分裂を望む者がいた。インカ皇帝マンコ・インカだ。 アルバラードの連れてきた兵達はクスコに入ると先住民を人間扱いせず、略奪を行った。また、寺院は厩舎に変えられ、王の宮殿は兵舎に変えられた。太陽神に仕える処女達やインカ皇族の女性達がスペイン人達の性の餌食になった。ピサロからクスコ市の建設を任されたピサロの弟ファン・ピサロはマンコ・インカの姉妹を奪い、スペインの騎士はマンコ・インカの后を犯した。彼らコンキスタドールは、キリスト教の立場からインカの人々の性の習慣をキリスト教の価値観の元、悪習と決めつけ、改宗の必要性を述べるが、それよりもはるかに野蛮な暴力をインカの女性に強いていた。現在でも教会における性虐待は多い。性に規律を求める倫理は倒錯した性を生む。その果てしない欲望は金銀を略奪するだけでは飽きたらず、性暴力の自己正当化に向かう。日本の春画のように最初から猥褻なものとして描いた絵と異なり、西洋の絵画には芸術と称して裸体や残酷なシーンを後ろめたさの欠片もなく描くものが多い。人格の尊重を訴えるのは相手の人格に対してではなく、自分の欲望を相手に有無を言わさず押し付けるためだ。相手の人格を無視し、自分の物差しだけを押し付け、自分の信仰即ち自分の欲望のおもちゃにする。その汚い欲望が認められないとするならば殺戮に訴える。先ず断罪しなければならないのはそのような自分の欲望の自己正当化なのにも関わらず、断罪は自分が理解出来ない、あるいは理解する努力を行っていないものに対して行うというあきれ果てた態度をとり続ける。因果応報、そのような者には必ず報いが来る。自然や神を畏れではなく、自分のオナニーの自己正当化の道具に変えた者には、その実態の差の奈落に突き落とされる時が必ず来る。それを天誅と呼ぶ。ここに来て文明の衝突は外からだけでなく、内からの衝突のマグマを生み出し、衝突は沸点を迎えようとしていた。 H25.09.05 |