インカにおける文明の衝突についてI十字軍の時代、テンプル騎士団という集団がいた。エルサレム巡礼者を守るという自発的に発生した組織で、教会の後押しもあり、次第に十字軍の主力となり、精強な軍隊となった。どう強かったのかと言えば士気の高さだった。総長以下全滅するという戦い方を繰り返している。領主の命令で自身の武器で戦う封建軍と異なり、武器が支給される常備軍だった。利益のために戦う傭兵とも異なっていた。そのような近代軍隊に近い戦闘集団がこの時代に既に現れていた。ヨーロッパ各地に寄進された領地、城を持ち、十字軍を派遣する王に融資するほど巨大な組織力をもっていた。フランスではテンプル騎士団に資産を抑えられる事態になっていた。十字軍が中東から追い出された後、1307年国内にあるその余分な力の大きさを疎ましく思ったフランス王フィリップ四世に嫌疑を着せられて、翌年ローマ教会からの審判により総長以下火炙りにされ、その莫大な財産は没収された。テンプル騎士団はヨーロッパ各地に拠点を持っており、フランスでは壊滅させれたが、スペイン、ポルトガルでは形を変えて残り、両国の帝国主義を推進していくことになる。ブレスコットはヨーロッパ帝国主義を十字軍と呼んだが、まさに十字軍が源流にいた。(佐藤賢一『テンプル騎士団』集英社新書 2018) ただ、テンプル騎士団だけに着目すればヨーロッパ世界に閉じられ、前章までで書いてきた内容で事足りる。この時代にはユーラシア大陸全体が連動し、ヨーロッパというに西の果てにその力が圧縮され、南北アメリカ大陸に吹き出していった経緯がある。その連動と前章までで記述出来なかった帝国主義のもう一つの側面を描いていこうと思う。 十字軍の時代、東から同じような組織力を持つ軍隊が現れた。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は1229年第6回十字軍でサラディンの甥にあたるアイユーブ朝スルタン、アル・カーミルから無血でエルサレムを取り戻した。アル・カーミルを脅かしていたのはチンギス・ハーンに滅ぼされて流入したきたホラズム人達で、それ以前からフリードリヒ2世に来援を求めていたのだ。(阿部謹也『ドイツ中世後期の世界』未来社 1974 P.85) 第5回十字軍では、ホラズムを超えて中東東部のアッバース朝に侵入したチンギス・ハーンの情報が入ってきた。十字軍にとっては東からの十字軍として捉えられ、1221年3月13日の教皇から大司教宛の手紙では東からのキリスト教救世主の王プレスター・ジョンがやってきたと伝えられた。ところがこのプレスター・ジョンであるはずのチンギス・ハーンは1223年キリスト教徒であったロシア、グルジアにも侵入し、大虐殺を行ったという報告を教皇はハンガリー王、グルジア女王から受け取った。(『大モンゴル2』NHK取材班 角川書店1992) プレスター・ジョン伝説は第2回十字軍(1147)の前、十字軍招集を行っている最中1145年から記録に登場する。ペルシャに攻撃をかけて撤退した噂がオットーの年代記に記録される。まだ、チンギス・ハーンは誕生もしていない。当時はセルジューク・トルコがペルシャを領有していた。元々、十字軍は遊牧民セルジューク・トルコがビザンティン帝国を圧迫し、ビザンティン帝国がローマ教会に救援を求めたことによる。西方ではビザンティン帝国を圧迫したセルジューク・トルコはスンニ派イスラム教徒で東ではシーア派イスラム教徒であるアッバース朝を圧迫した。また、中国北部にいた契丹人の遼が女真族の金に敗れてこの時期に流入しており、それが噂の出元と考えられる。 契丹人は仏教徒であり、ペルシャに入ってからはマニ教の影響も受けた。ネストリウス派キリスト教徒でもない。その前に契丹人が女真族を圧迫した際には女真族が高麗、日本を襲撃した刀伊の入寇が起きている。ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』の中で気候が変わらない東西の移動は気候が大きく変わる南北の移動に比べて容易いことを語ったが、南北に長いアメリカ大陸に比べユーラシア大陸の東西は連動していた。 西ヨーロッパではこれとは別に教皇と神聖ローマ皇帝の対立があった。当時のドイツに君臨していたのは民族大移動の時代に東からやってきた遊牧民で神聖ローマ帝国誕生はローマ教会が皇帝位を与えることで遊牧民を懐柔する狙いからだった。その神聖ローマ帝国の中でプレスター・ジョンからの手紙というものが捏造された。するとローマ教会側も捏造をした。このように十字軍の招集やヨーロッパ内部の対立の中でプレスター・ジョン伝説は膨らんでいったことになる。 当初ローマ教会が招集した十字軍はビザンティン帝国が頼んでもいないエルサレム解放という目的をもって派遣された。しかも、第1回十字軍の段階ではまだテンプル騎士団のようなキリスト教騎士団はなく、封建軍のため、士気が低く、私的略奪が絶えない無法者の軍隊だった。それで十字軍とビザンティン帝国が対立するという事態が発生する。力を取り戻したビザンティン帝国は1155年十字軍とは真逆のイタリア遠征を行っている。1202年の第4回十字軍は同じキリスト教徒であるビザンティン帝国に対する十字軍だった。首都コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンティン帝国をニカイアに亡命させる。その中でコンスタンティノープルではイスラム教徒のモスクがベネチア人に略奪され、それに怒った現地東方教会キリスト教徒市民が蜂起する事態になった。(井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社学術文庫1990)もはやなんのための十字軍かわからなくなる。それ以前に当初の理由だったセルジューク・トルコは契丹人の西遼(カラキタイ)から離反したホラズムにより1194年ほぼ壊滅していた。目的と手段の不一致。これは今の時代でもあることだが、特にこの時代は際立っていた。 そのような時代にモンゴル帝国は生まれた。チンギス・ハーンの死後、新しくカアンとなった3男オゴタイは長男ジョチの子バトゥに征西に行かせた。定住民である中国では備蓄した兵糧で遠征時、何十万という兵士が動員される。ヨーロッパでも民族大移動時代フン族は何十万と動員を行った。こちらは定住民の食料を求めての移動で、定住民がいる土地がある限り続く、まさに民族大移動だった。バトゥの遠征は人気の無い原野を遊牧という生産手段ごと移動する。一人につき5頭という馬を連れてだ。そこには後述するが首都カラコルムとの通信手段としての馬も含まれる。このために十万にも満たない数万の規模の遠征だった。それでも都市間が離れたロシアの各都市を各個撃破することで遠征を成功させていった。そして1241年ポーランド、ハンガリーといった国と、駐留する神聖ローマ帝国配下にあるチュートン騎士団とぶつかり、数で勝るそれらを下した。ハンガリーはキリスト教化されていたが、民族大移動の原因となったフン族の末裔を自称していた。かつての遊牧民と新たな遊牧民との戦いでもあった。 wikipediaのフン族のページを見るとフン族の末裔と自称していたのはブルガリアのカーン達だったようだ。自称Magyarに対する他称の英語表記Hungaryが現在のウクライナ、7世紀の黒海北部のOnoguriaから来ているとしている。ただ、自称ではなく、他称がここから来ているということは疑問に思える。フン族の歴史に残したインパクトを考えれば、自他共にハンガリー人がフン族の末裔という歴史認識が存在していたのではないか。ローマ教会の使節達もこの地を大ブルガリアと呼び、現在のバルカン半島のブルガリアを小ブルガリアと呼び、ブルガール人は大ブルガリアから来たという歴史認識を持っていた。実際に7世紀の大ブルガリアの遺跡も見つかっている。現在ではハンガリー人やブルガリア人はフン族の後にやってきた遊牧民と考えられているようだ。民族大移動以前にローマ帝国と漢の間でシルクロードが存在しており、ユーラシア大陸北部の民族移動は頻繁に行われていたことは想像される。匈奴がそのままフン族になったという説はモンゴル帝国のインパクトからの印象に過ぎないと思われる。匈奴自体がトルコ系なので、東洋系のモンゴル人とも異なる民族なのだろう。居住地の気象から考えて、コーカソイドの肌の白さはユーラシア大陸西側の民族の特徴というよりも北方系民族の特徴に見える。ヨーロッパ自体が緯度が高い。緯度に関わらずヨーロッパが温暖なのは大西洋の潮の流れによる。ただ、日当たりは緯度が高いので弱い。ヨーロッパ先住民とも言うべき現在のラテン系ヨーロッパ人も民族大移動でやって来たアングロサクソン系に比べるとやや肌の色が濃い。ハンガリーがバトゥに敗北した後、小ブルガリアと呼ばれる現在のブルガリアもモンゴルに蹂躙された。(R01/07/27追記) この新たな脅威に当たり、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はローマ教会側に和解を申し出た。もはやモンゴルはプレスター・ジョンではないことが周知された。モンゴルは西洋でタルタル人と呼ばれたが、タルタロス(地獄)からやってきたと考えられからだ。しかし、ローマ教会側はフリードリヒ2世の申し出を拒否し、1245年4月16日独自にモンゴル側に交渉と諜報目的で使節カルピニのジョン修道士を送った。ここからは『中央アジア・蒙古旅行記』(護雅夫訳 講談社学術文庫 2016)を見ていこう。1246年4月5日によやくカスピ海北部ヴォルガ川流域にいたバトゥに面会した。バトゥは首都カラコルムに行くように言い、4月8日にそこを発った。そこからわずか3ヶ月半後の7月22日にモンゴルのカラコルムまで到達している。リヨンからカスピ海北部まで1年かかったのに、それよりも長い距離を3分の1以下の期間で走破したことになる。日に5〜7回馬を乗り換えたとあり、モンゴルの首都からヨーロッパのバトゥへのユーラシア通信はわずか3、4ヶ月で行われていたことになる。後にルイ9世が送ったルブルクのウィリアム修道士によると馬の1日の行程毎に馬を待機させる駅舎があったという。近世に江戸幕府がフランス革命を知ったのがその5年後だったのと比べると中世というこの時代においてモンゴルがいかに早い通信網を持っていたことがわかる。 その間、食物は野草の黍を煮た物で定住民のジョン修道士にとって辛い空腹だったという。裕福であれば馬乳を飲めたがそれでも足らないものだ。ただし、それがバトゥの軍に長距離遠征を可能としたものだった。戦い方はまず先鋒隊に偵察にいかせる。当時のヨーロッパでは偵察の部隊であろうと個別の略奪を行うのでそこで気づかれてしまうが、モンゴルは個別の略奪は行わず気づかれないという。ただし、組織的な略奪と殺戮は行う。城に籠もられた場合は周辺を略奪しつくす。キリスト教世界もイスラム教世界もなかなか目的と手段が一致しないものだが、この点、モンゴル軍は一致していたと言える。彼らはモンゴルの身内の中では獲物は公平に分け与え、盗みも喧嘩も無く善良だったという。ブレスコットの言う「郷土に束縛する卑賤な職業に辛棒強く穏やかに従事した」と東洋人を見下したまさにそのやり方でモンゴルは遠征を成功させた。 オゴタイの死亡後、バトゥはモンゴル帝国最大の実力者だったが、自分では判断出来ないと即位を行おうとするオゴタイの子、グユクの元にローマからの使節を送っている。グユクもバトゥの下で遠征に加わったが、オゴタイの死の前に揉め事を起こしている。グユクの2年に満たない在位での死には、後にフランス王ルイの使節として4代カン、モンケとカラコルムで面会したルブルクのウィリアム修道士がバトゥが関わったという噂があったことを報告している。グユクの死後、バトゥは自分がカンとなることはせず、チンギス・ハーンの末子、トルイの子、モンケをカンにし、オゴタイ家の別の孫をカンにしようとしたグユクの后を死刑にした。モンゴルは末子相続が伝統だった。バトゥの血筋はその死後絶えてしまうが、モンゴル帝国分裂後、ジョチ一族による金帳汗国(キプチャク・カン国、ジョチ・ウルス)は分裂縮小しつつロシア革命まで続くことになる。 モンケは中東に弟のフレグを遠征に出した。フレグは西洋から聞いたプレスター・ジョンを意識していたようで、フレグの母やモンケの后はネストリウス派キリスト教徒だった。モンゴルに幻滅した当時のローマ教会はプレスター・ジョンはケレイトのオン・カーンだとした。そのオン・カーンの姪がフレグの母だった。フレグはアッバース朝を滅ぼし、エジプトでアイユーブ朝を滅ぼしたマムルーク朝のバイバルスとぶつかった。バイバルスはバトゥが侵略したキプチャク草原出身で、そこからアイユーブ朝の元奴隷兵士になった。イスラム社会では近年に至るまでこの奴隷制度と手を切れない矛盾があった。イスラムの英雄サラディンが率いたのも奴隷兵だった。ただ、奴隷もそれなりに重宝されるので、奴隷にすらなれないあぶれた人々よりはましだったかもしれない。ヨーロッパも当時は農奴社会だった。イスラム社会では商業の発達がヨーロッパより進み、両者の違いは売り買いがされるかどうかだった。そのバイバルスは自身も遊牧民出身であり、モンゴルの戦い方を知っていた。モンゴルは初の敗北をきした。その後、十字軍もバイバルスよって全て追い出されることになる。プレスター・ジョンという嘘は思わぬところで芽が出たが、花開くことは無かった。ともあれ結果としてヨーロッパはローマ教会と神聖ローマ皇帝と分裂したままでモンゴルの脅威にはさらされず、かつヨーロッパとは異質の組織について知ることが出来た。 引用が長くなったが、この時代に封建農奴体制とは別に組織を最優先にするという集団がいた。それはテンプル騎士団とモンゴルだった。そしてこれらの遭遇が帝国主義を推進する組織体制を作り上げていったのだ。ピサロ達は前章でも触れた通り、傭兵集団の性質も持っていた。現在は会社を主に意味するcompanyだが、同時に軍隊における中隊を意味する。これは傭兵集団を語源としている。国に属さず小さい集団が個々の判断で有機的に動く。これが前章で見てきた後の資本主義型帝国主義だ。これとは別に国なり、民族なり、宗教なり、理念なりで組織に絶対性を置く帝国主義もここで発生している。ナチズムやソ連型の帝国主義、ファシズムの根はここにある。ここにはブレスコット流のキリスト教の光という帝国主義と民族、宗教、理念を絶対化するという面では被りつつも、絶対性に忍従するという異なる側面がある。 チュートン騎士団はテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団に並ぶ騎士修道会だ。チュートン騎士団は聖ヨハネ騎士団と同様、エルサレムの病院から始まっている。それが神聖ローマ帝国に包摂される形で騎士団となっていった。フリードリヒ2世がアイユーブ朝スルタンと平和交渉によってエルサレムを手に入れた際、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団はそれに反対する立場にだったが、チュートン騎士団はフリードリヒ2世の側に立った。チュートン騎士団の総長は領主の家人、半ば奴隷の役人といった身分だった。つまり、チュートン騎士団に参加することは自由を得る身分を得ることでもあった。チュートン騎士団は中東の十字軍だけでなく、当時非キリスト教徒だったプロイセンに対する東欧十字軍も行っていた。中東に対しては融和的なフリードリヒ2世も、東欧十字軍は苛烈に進めていき、プロイセン人を農奴化した。ローマ教会は反対に東欧に対しては融和的だった。(阿部謹也『ドイツ中世後期の世界』未来社 1974) そのような矢先にバトゥと衝突した。その後、中東十字軍が頓挫し、テンプル騎士団の存在意義がヨーロッパで邪魔になったのに対し、チュートン騎士団は東欧十字軍という存在意義があった。ドイツ騎士団領(ドイツはチュートンが語源となる。)と呼ばれる騎士団の領土はプロイセンを超え、同じく非キリスト教徒だったリトアニア、ロシアまで及んだ。東欧の地は西欧と比べ人口が希薄な地で東方移民が行われた。東方移民は農奴社会で自由を得るチャンスだったが、民族大移動で遊牧民が定住民を農奴化したのと同様、現地人が農奴化された。インカを蹂躙した十字軍は既に中世の東欧で原型が生まれていた。 フリードリヒ2世がイスラムに造詣が深い理由は、ドイツ人でありながら、主にシチリア島で過ごしていたことが大きいかもしれない。9世紀にシチリア島はアラブの支配され、北方ノルマン人によって駆逐された後もシチリアにアラブ人が残ったらしい。(R01/07/27追記) それでも都市ごと虐殺するモンゴルに比べればまだましだったかもしれない。イスラムのホラズムを始め、ロシア諸都市がその災厄に遭った。後の中国では明末に四川の大虐殺を行った張献忠もモンゴルのやり方に倣っていた。張献忠は陝西省北部の内モンゴルと接する草原地帯から挙兵した。四川に入る前に荊州の都市の虐殺を行っている。四川で都市だけでなく、四川全域の虐殺を行えてしまった理由は、この馬賊の経路が三国志の劉備の経路に似ていて劉備を思わせて信用してしまったのだろう。ところが張献忠は劉備のように既に清に投降した漢中を落とすことも出来なかった。(浅見雅一『教会資料を通してみた張献忠の四川支配』)当時の中国は『水滸伝』、『三国志』のような読み物があり、中には曹操と名乗る匪賊もいた。(高橋俊男『中国の大盗賊・完全版』講談社現代新書 2004) 中国の物語の期待と幻滅と自暴自棄がモンゴル以上の暴君を生み出したのだろう。この場合はモンゴルに倣いつつも、張献忠の過剰な自意識がモンゴルのように手段と目的を一致させなかった。モンゴルはもっと合理的だった。 従来、神聖ローマ帝国には各諸侯から構成され、ローマ教会は皇帝と封建諸侯を離間させることで皇帝勢力を抑えてきた。しかし、フリードリヒ2世の死後は大空位時代と呼ばれ、封建諸侯同士の争いはもはやローマ教会の手に負えない事態となっていた。15、6世紀、争い合う封建諸侯と教会の搾取に耐えかねた領内で宗教改革が起きることになる。以前は皇帝と対峙するために教会を受け入れてきた封建諸侯も領内で税金を取る教会を疎ましく思っていた。そこで封建諸侯は宗教改革の主流派だったルター派を受け入れ、ローマ教会を追い出すようになった。しかし、ルター派以外の分派プロテスタントは抵抗をし、農民戦争を起こし、動乱は続いた。現在のアメリカ合衆国の白人で一番多いのがドイツ出身で、敗北し、苦渋を舐めた分派プロテスタントだ。彼らは19世紀にアメリカに渡り、白人貧困層を形成する。ブレスコットの言うように夢に溢れた開拓者だけではなく、苦渋の選択をして移民をした人々も多かった。一方、神聖ローマ帝国の影響下にありつつも、形の上ではローマ教会の下にいたチュートン騎士団もプロテスタントを受け入れる中で消えていく。 18世紀にフランス革命が起き、そこから19世紀にかけてナポレオンの国民国家にドイツは脅かされることになる。国民総動員の戦争が行えるフランス軍は19世紀に世界最強の陸軍と言われた。その脅威の中、クラウゼヴィッツのような職業軍人は目的に手段を総動員出来る絶対戦争を考えるようになっていた。ナポレオンの死後、封建諸侯の中で最も辺境でドイツ騎士団領を地盤とするプロイセンは普仏戦争でフランスに勝利する。職業軍人は貧しい身分から出世するのに適した職業だった。明治維新後の日本陸軍もプロイセン陸軍を手本としており、日本陸軍もまたこの性質を持っていた。このような目的と手段を完全一致させた絶対戦争の行末は前章で見たとおりだ。絶対戦争は核の使用すら容認してしまう。そして核の保有はチェルノブイリ原発事故を見ても自滅の原因でもある。 第二次大戦後のドイツは国が東西に分裂され、同じ敗戦国の日本以上の辛苦の中、復興していった。そして、冷戦終結、東西統一後を経て、今はEUそしてヨーロッパの盟主ともいうべき地位を築いている。歴史的にずっと対立してきたフランスとも親交を築いている。絶対戦争という覇道の理念とは真逆の王道の理念でそれを実現していった。原発を無くし、絶対戦争が作り出した核にもっとも反対している国だ。今のドイツの地位が帝国主義の誤りを証明しているのではないか。改元が行われた日本もこの歴史を踏まえ、明るい時代を迎えることを望む。 R01.06.15 |