インカにおける文明の衝突について@




 『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド 1997)の第三章に描かれる新大陸南米アフリカ、カハマルカでのスペインのインカとの間で起きた文明の衝突。1533年1月16日スペイン人コンキスタドール、フランシスコ・ピサロが率いる168人のならず者が8万人を率いるインカ帝国皇帝アタワルパを捕らえてしまった。インカ側の死者は7000人。スペイン側近世の軍と言っても鉄砲、しかも火縄銃は12丁しか持っていなかった。(後に参照するW.H.ブレスコット『ペルー征服』ではFalconetと呼ばれる軽大砲2門、ボウガン20丁あったと記述される。)60人の騎兵、106人の歩兵という近代というよりは、甲冑、鉄剣、槍といった中世の軍といった出で立ちを見せていた。飛び道具の戦いというよりも白兵戦、肉弾戦といった戦いだった。7000人殺したということは最初の火縄銃で殺した人数を差し引いても鉄剣や槍で一人につき40人殺したことになる。アタワルパは人が担ぐ輿に乗っていた。輿を担ぐのはインカ貴族で、殺しても殺しても次から次へ担ぐ者が現れたという。最後にはひっくり返し、アタワルパは捕らえられた。その様子を描いた絵が日本語版(倉骨彰訳 草思社文庫)の表紙となっている。

 この圧倒的な出来事を中心として、その要因を人類史に求めるのが、『銃・病原菌・鉄』のテーマとなっている。この時、ピサロが勝てた原因として本著では以下の原因を挙げている。

@銃器・鉄製の武器
 インカでは鉄を持っていなかった。インカの武器はワラカと言われる片手の投石機、吹き矢、弓矢、金属では銅製の戦斧、投槍だった。(『銃・病原菌・鉄』の第3章では棍棒となっているが過少評価され過ぎている。第18章では他の武器の記述もあるが。『ペルー征服』でもこれらの武器が語られている。1536年のインカ皇帝マンコ・インカのクスコ包囲では熱した石の投石で火災が起き、その威力が示されている。)
A騎馬
 南北アメリカ大陸に馬はいなかった。荷役としてはリャマやアルパカが使用されたが、人が動物の上に乗るという発想は無かった。ユーラシア大陸に置いても馬に跨る騎兵よりも、馬が車を引く馬車や戦車の方が先だった。ユーラシア大陸では、はみと手綱、鞍、鐙、蹄鉄等、騎乗技術に伴う鉄具が発明され利用された。@の鉄器と併行した技術だった。また、インカでは車輪も無かった。山岳地帯という地形からいって馬車は使いづらくもあったが。インカでは大道路が作られ、それは当時のヨーロッパより整備されたものだったが、『ペルー征服』によると人が歩いて通るように設計され、階段状の足場は騎兵に不向きであったという。馬車だともっとそうだろう。
B軍事技術
 インカでの戦闘は攻城戦がメインでそこで投石機が使われた。東西に伸びたユーラシア大陸では築城技術、攻城戦技術ももちろん進歩したが、広い場所での大戦の兵法も進化し、その技術は東洋から西洋まで伝えられた。ピサロの父ゴンザロ・ピサロはスペインによるイスラム帝国からの領土解放運動レコンキスタの戦闘にも参加したという。ユーラシア大陸の西端のスペインもユーラシア大陸の戦闘技術と肉薄していた。

 ピサロがインカ皇帝をまず捕らえるというやり方は、その10年前にコルテスがメキシコのアステカを征服した手法を模している。アステカ皇帝モクテスマはコルテスを神の再来だとして首都に招き入れてしまった。そして首都を見聞するとともに皇帝を利用し内部分裂させて征服した。同じアメリカ大陸でも南米のインカとアステカはまったく交流が無かった。当時、パナマから南米西岸を南下すると人は少なく、亜熱帯の密林地帯となる。現在のエクアドルに至ってようやく文明が現れる。1526年のピサロの2回目南米探検の際、現在のエクアドル北方のサン・マテオ湾辺りであるはずの無い帆船を発見して驚いたという。バルサという帆付のインカの筏で立派に着飾り、秤を持ったインカの商人が乗っていた。インカ文明には秤はあった。だが、それより北には交流は無かったのだ。これは東西に伸びた大陸よりも、南北に伸びた大陸の方が気候の変化が激しく交流が難しいことを示す。また、東に行くにもアンデス山脈とその先もアマゾン熱帯雨林地帯で人は住みづらい。1541年にフランシスコ・ピサロの弟ゴンサロ・ピサロが現在エクアドルのキートから東に探検を行ったが2年の歳月をかけて失敗している。コロンブスの新大陸発見(1942年)から50年もしないうちにインカを征服したスペイン人でさえこの有様だった。インカは閉じられた陸の孤島の文明だった。

Cユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫
 中国の雲南省が発祥地とされるペストは騎馬民族であるモンゴル帝国を通して14世紀に大流行した。ペストはフン族の侵入によるゲルマン民族大移動の時も流行している。東西の人交流が頻繁に行われるユーラシア大陸ではその人数分の伝染病が短い時間で伝わってくる。伝染病は家畜からやってくるものが多く、東西ユーラシア大陸の各地で飼育された家畜から伝染病はユーラシア大陸を席巻する。南米ではリャマ、アルパカといった南米独自の家畜を持っていたが、ユーラシア大陸での家畜に比べればその種類は少ない。そして、Bで述べたように陸の孤島で外部からの交流はほとんど無かった。そこに1527年ピサロが2回目の探検で現在のエクアドル、インカ帝国が征服したてのキト王国の町トゥンベスに達して、インカ貴族とも接見し、交流した。疫病は瞬く間に全土に拡がり、インカ皇帝ワイナ・カパックを天然痘で死亡させている。それがワスカルとアタワルパの兄弟後継争いに発展し、インカ帝国を内乱に引き込んだ。1532年インカ征服のために再びやってきたピサロ一行は、前回着た時は、寺院があり、着飾ったインカ貴族で潤っていたトゥンベスが荒廃している様を目撃している。住民に聞いてみると沖のブナー島の部族が襲撃してきたためと答えたという。それを生んだのも、疫病の蔓延とインカ帝国の動揺によるものだろう。ただし、『銃・鉄・病原菌』ではピサロがトゥンベスに達した1527年の前年の1526年に既に蔓延していたとしている。ワイナ・カパックの死については1525年という説もある。ピサロの1回目の探検で1525年現在のコロンビアの中部のカウカまで達した。1522年アンダゴヤが現在のコロンビア辺りで探検に失敗し帰還している。そのどちらかで既にそこに部族を通して感染が広まったとも考えられる。『銃・鉄・病原菌』ではコロンブス南北アメリカ大陸発見以降、それ以前の先住民族の95%が伝染病で死滅したされる。伝染病以外にもヨーロッパ人による虐殺も多分にそこに含まれる。コロンブス自身が中米の先住民を虐殺しており、しかも見せしめのために残酷な手段を用いた。コロンブスは南北大陸発見者であるとともに大量虐殺者の肩書きも持つ。
Dヨーロッパの航海技術
 Bで伸びたようにインカでも筏の帆船は使用された。それでも大西洋を横断してきたスペイン人に比べれば航海技術は低かった。アンダゴヤによる1522年の探検からピサロのパナマからの1回目の探検1524-1525年、2回目の探検1526-1527年のわずか5年でインカに到達したのを考えればその差は歴然だ。最初にアメリカ大陸に到達したのはコロンブスではなく、北欧ヴァイキングとされる。彼らはアイスランド、グリーンランドを経てやってきたが、アイスランド、グリーンランドは食糧生産には厳しい環境で交流は途絶えている。また、ユーラシア大陸ではイスラム商人がヨーロッパから中国まで交流を行っている。中国もまた明の時代に鄭和の遠征でアフリカまで達している。ただ、中央集権社会の宮廷での一言でそれっきりになっている。ともあれユーラシア大陸では様々な民族が陸地だけでなく、海を通しても交流が行われた。その情報がお互いに伝わっている。ヨーロッパ大陸は地中海を挟んで交流が行われ、レコンキスタもガダルカナル海峡を挟んで北アフリカのイスラム帝国と戦った。それが無敵艦隊と呼ばれたスペインの航海術を生み出した。
Eヨーロッパ国家の集権的な政治機構
 これはFとも関連してくる。ヨーロッパでは国家の統治の変遷を経て、キリスト教による権威や倫理、法律に基づいた国家システムに発展していった。『銃・病原菌・鉄』ではこのような集権的な国家機構がピサロのような下級貴族に船の建造資金や乗組員を集めることに成功させたとしている。ただし、インカ帝国についても太陽神に基づくインカ皇帝の権威を保障した中央集権国家だった。中央集権国家であることが大航海時代を生み出した訳ではない。鄭和の遠征のように国家規模で行う航海はそれっきりで終わってしまうことがある。国家というよりもその国家の矛盾を受ける国家の下部階層にチャンスを与える仕組がピサロの遠征のように一見無謀に見える試みを実現させた。これについては後述したい。

F文字
 インカは、マヤ、アステカとも異なり、文字を持たなかった。その代わりキープという縄の結び目でソロバンのような計算も可能な記述方法を持っていた。言語情報もある程度持つことが出来た。それでも人口や租税には使えても、文章による情報保存に比べれば記録密度、情報量、情報の質共に劣る。また、法治国家の条件となる法の記述も限定される。Bで述べたようにコルテスの征服事例を情報として残すことも内容が限定されてしまうだろう。ところが、ピサロは貴族の家系(古い貴族だがスペインでも下級貴族)であったが私生児であったため、まともな教育を受けておらず、文字が読めなかった。その部分は文字が読める部下が補った。スペインという文明という点では原因として大きいと思われるが、ピサロ個人としてはそれにあやかっていない。ヨーロッパは様々な言語が存在し、文明としては文学から哲学、政治に至るまで文字の表現は質、内容ともに高かった。ただ、当時のヨーロッパの識字率はユーラシア大陸の中で高かった訳ではない


 南米インカのような閉ざされた文明と、スペインのようなユーラシア大陸と交流、衝突を繰り返したヨーロッパの西端の国との文明の衝突。日本に当てはめれば、ユーラシア帝国だったモンゴルと衝突した文永の役や、東から太平洋を渡ってやってきたアメリカのペリー来航が思い浮かぶ。

 前者については、平清盛の日宋交易から100年間主だった交流をしていなく、海外との大戦に至っては白村江の戦から600年間行っておらず、大陸型の弓、震天雷(てつはう)等の飛び道具の集団戦法に苦しめられた。3万のモンゴルに対して10万の日本側が博多を放棄して敗走した。日本側は古来満州遊牧民との交流から生まれた騎射等、関東東北武士の馬を利用した戦法、皮肉にもモンゴルのような遊牧民型の戦法を使用していた。広い場所で大軍の場合、飛び道具による一斉射撃は猛威を振るう。騎馬や歩兵等の白兵戦だと前線の兵しか攻撃出来なくなるのとは異なり、飛び道具は後方の兵に至るまで攻撃に参加出来るため、有利になる。以降戦国時代に至るまで日本では、足軽のような身分の低い歩兵を集めた弓矢鉄砲による集団攻撃が主流になる。南米では逆に広い場所でこそ、投石弓矢等の飛び道具を利用したインカの集団戦法が、重装騎兵を用いた騎兵突撃の戦法に殲滅されている。飛び道具による集団戦法であれ、騎兵による突撃戦法であれ、どちらの戦法がいいかという訳でもなく、一方を経験した戦法であるかないかが問題となるのだろう。また、突撃戦法が出来るためには兵の士気の高さにかかってくる。寄せ集めのすぐ逃げる兵では飛び道具の集団戦法の方が強い。同じ士気の高さを持っていた場合、飛び道具ばかり持っていた兵では犠牲をものともしない兵に接近突撃された時太刀打ちも逃げることも出来ない。現に小銃の発展に関わらず、国民国家となった明治以降の旧日本軍は戦国時代の飛び道具集団戦法に代わって白兵突撃が主流となった。何を目的とした兵なのか、社会の持つ政治構造、経済構造な要素がかかってくる。二桁違いの兵力の差で殲滅されたインカと、倍以上で負けながらも善戦した日本では、ユーラシア大陸と少ないながら交流してきた日本と、まったく交流が無かったインカとの違いがあるのだろう。まさに鉄・病原菌の差となっている。戦国時代において日本は世界の鉄砲の三分の一を所有する銃文明だった。

 後者のペリー来航については250年に渡り日本は鎖国していた。出島での交流はあってもフランス革命の情報を江戸幕府が知るまでに10年かかった。しかし、江戸時代は鎖国しながらも発展した期間でもあった。識字率も高く明治以降の国民国家を形成する素地を持っていた。そして緩やかなつながりを持ちながらもそれぞれの地域の文明を持っていたユーラシア大陸もヨーロッパ帝国主義の時代を経て、現在グローバル企業によるどこに行っても同じ風景となる文明の均質化が行われてしまっている。また、世界規模の超大国が生み出した核の軍事技術、エネルギー技術は世界を元に戻せなくする汚染を生み出し、また危険に晒す。たしかに閉じられた文明というものが2桁差の兵力の勝敗を決めてしまう負の面を持つ。閉じられた世界は独特の腐敗構造を持ち、逃げられない社会であることも否定出来ない。しかし、グローバリズムの文明の行き詰まりに対抗する手段は無いのだろうか。中米アステカ侵略と共にヨーロッパ帝国主義の始まりでもあったスペインによるインカ帝国侵略をもう少し深く追って見て行こうと思う。




H25.08.16

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