古代エジプト文字は固有名詞や文体の中で表音であると共に、漢字と同様に表意文字でもあった。しかし、漢字が縦書が主流だったのに対し、右から左へ横書きも行われた。それは図形のような2次元的な図形の表象を生み出し、数学、幾何学の発展に寄与した。紀元前17世紀の描かれたリンド数学パピルスという古代数学文書が現存している。横に加減乗算、縦に除算が行われる分数の表記方法は古代エジプトから行われていた。また、そこには文字とともに三角形、四角形のような図形も描かれる。そのような2次元だけでなく、容積までその数学によって求められた。
ここで本書に戻ることにする。中国における「鬼神」について見ていこう。北宋の程頤(1033 - 1107)は鬼神を天地の運動、天地生成の痕跡と捉えた。同じく北宋の張載(1020-1077)の言を踏まえながら、朱子学の祖、朱熹は以下のように述べる。 二気を以って言えば、則ち鬼なる者は陰の霊なり。神なる者は陽の霊なり。一気を以って言えば、則ち至りて伸ぶる者は神為り。反りて帰る者は鬼為り。その実は一物なるのみ。「徳為る」とは猶お性情・功効と言うがごとし。 ここに中国の陰陽二気の自然観がある。アリストテレスの火、空気、土、水の四元素からなる世界観と同様、世界の把握方法の根源となるものだ。ギリシャは神話に見られるように多神教の宗教だった。天空の神ゼウス、婚姻の神ヘラ、知恵の神アテナ、海の神ポセイドン。自然的な事象、事柄の事象、観念の事象それぞれが神となっている。神は感情豊かでもあり、世界を構成する要素でもある。四元素という物理的な観点にしても、多神教の事物に対する感情豊かな捉え方には無縁ではない。この現代物理学に至るまでの観点と同様中国では陰陽ニ気が物理的な観点だった。そして鬼神は陰陽ニ気で構成される一つの物で、孔子の弟子、子思(BC483?-BC402?)が書いたとされる『中庸』に書かれる「鬼神の徳」について、人間のような感情を持ってるからだとしている。 これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。 朱熹の注は以下のようになる。 鬼神は無形なり、声とともに然り。物の終始は陰陽の合・散の為す所に非ざる莫(な)し。是れその物の体と為りて、物の遺す能わざる所なり。その物を体すると言うは猶お『易』にいわゆる、「事に幹する」(『周易』乾、文言伝)のこときなり。 中国における気はアリストテレスの空間を満たす元素、デモクリトスの物体を構成するアトムとも異なっている。生々流転を捉える東洋思想がここに出ている。周からの儒学の礼を前漢にまとめた『礼記』「郊特牲篇」によると人が死ぬと魂の気は天に帰り、形魄は地に帰るとされる。物体を為しているが、物体として見た時には既に残っていない。物というよりも事だという。静的な物ではなく、動的な事となる。 1659年に中国に布教に行った宣教師フィリップ・クプレ(1628-1692)の書いた『中国の哲学者孔子』の「これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。」の訳は以下のようになる。 孔子は上述の霊に、ある種の並外れた、きわめて格別な力が内在することを教える。というのも、あらゆる形体をもつ物質が感覚に入り込むときにも、ただ霊だけがそれから逃れるからである。彼はいう、「まことに、その作用によってしばしば現れる限り、われわれが視覚により、それらをある程度知覚することは確かである。しかしながら本当には見てはいないのである。さらにわれわれが、それからハーモニー同様、調和した不調和を生ずるきわめて多くの作用を観想する限りで、われわれが聴覚によって、それらをある程度知覚することは確かである。しかしながら、われわれはそれらを聞いてはいないのである。要するに、諸事物に深く内部にまで結び合わされ、形態を与えるのだ、と私はいおう。あるいは(他の者はこう説明するのだが)、あたかも事物がそれらを自分から放棄することができないかのように、あるいはそれらの指図なしには存続できないかのように、諸事物の周辺にその働きを行使する」と。 短い原文に対し、非常に説明に困ったような文章となっている。それは鬼神をキリスト教の霊にあてはめて、物の体を空間的な形体にあてはめて説明しているためだ。神と三位一体となる霊であれば、空間的な質量は持ってはいけない。物体は3次元の空間を占める物体でなければいけないからだ。どちらも観念としての実体を持っており、その間を結ぶ言語として調和、作用、働きという動的な関係で結ぶように説明している。中国では気に質量があるかどうかは意識しない。物の体にしても、3次元の空間を占めるというものではなく、感覚として知覚出来る物という表象になる。この翻訳の元となった張居正(1525-1582)の『大学直解』は以下のように記述される。 鬼神は無形・無声なりと雖も、その清爽たる霊気は人に昭著して、心目の間に、形の見るべき、声の聞くべき有りて、得てこれを遺忘すべからざるが若(ごと)きなり。 目で具体的に見えるものではなく、声で具体的に聞こえるわけではない。しかし、当たり前に感じるもの。生きている人間と死体は空間を占める形は同じだとしても、まったく異なる。生きている人間にある気として鬼神はある。この文章はこの後、主体的で感情的な「鬼神の徳」と言われる理由として、「理」が為すとされる。一神教の神は、質量を持たない絶対的な存在で、能動的人格を持つ。霊はそのような超自然的な神に繋がる質量を持たない存在だ。だがそこで「理」という自然科学と同様、絶対的な神から切り離された世界把握の言葉が用いられる。それは鬼神もまたギリシャの多神教のようにに天、婚姻、知恵、愛、海といった事象に対する感情豊かの神であると同時、それら事象が陰陽二気のような理によって為されているという表象なのだ。 算木は易占でも使用される。中国では数学も易占に繋がっている。算木の将棋の升目のような正方形の世界は、図形や空間の図式化ではなく、人間が理解するための表象の入れ物として存在する。完璧な正三角形、直角三角形もこの世界には存在しない。世界に作れたとしても誤差が必ずあり、ギリシャにおいても観念(イデア)として存在したのだ。そのような理として鬼神も扱われているのだ。太陽信仰のあったコペルニクスや錬金術師でもあったニュートンのように、西洋においても科学と信仰は並行していたのだが、西洋においては科学は信仰と分離して証明されなければ、科学にならない。まさしくそれがギリシャから続く自然科学の前提が非空間的な一神教を規定し、一神教の前提が空間的で物質的とされる科学を規定した結果だろう。それに対して中国における理は現代のような科学知識が当時足らなかったものの、鬼神と連綿と繋がり、むしろ、世界把握の理と道徳的な徳を繋げるために鬼神があった位なのだ。 |