右翼と左翼という言葉自体の由来はフランス革命後の議会席に由来するが、法大黒ヘルの中川文人氏によると、それ以前の知覚の違いだという。自分のいる場所をアイデンティティとするのが右翼、自分のいる場所を自分を束縛するものとしてその外をアイデンティティとするのが左翼だという。インド哲学におけるアートマンとブラフマンのような考え方だ。ここでは本著の書評という形で、フランス革命やマルクスが入る前の東洋における左翼的世界観を追っていきたい。
中国の世界観で最も有名なのは中華思想だ。西周時代から周朝の公式の歴史として書かれた『尚書』禹貢篇において、周王のいる王畿を中心として五百里毎に5つ四角形の区域を設ける五服説。春秋時代には自分達中心を華夏と呼び、四方をそれぞれ、南蛮、東夷、北狄、西戎と呼ぶ。殷の甲骨文においても自分達の敵のことをその敵の根拠地とする都市名と「方」をつけて呼び、味方ならば単に都市名で呼ぶところにも既にその中華思想の萌芽が見られる。生贄にされた羌についても都市名に「方」がついた個別の敵ではなく、北西の民族一般を指し、北狄、西戎に近い用いられ方をする。まさに自分のいるところを中心に世界を見渡す東洋の右翼思想だ。
今の中国の急速な変化による膨張と民族問題をもってこの中華思想は悪名高い価値観として受けとめられている。しかし、どの民族にもこの大小はあれ、この考え方はあり、日本においても坂上田村麻呂が夷を征する征夷大将軍に任じられたのを始めとして、日本にもあった世界観である。
長江中流域南部、湖南省長沙市に前漢前期の有力者の墓である馬王堆漢墓がある。その1号墓に蛇の体を持つ女性が描かれている。それは燭竜であると本著では述べられている。燭竜とは戦国時代の神話的地理志である山海経に出てくる鐘山(著者は崑崙山と同じとしていて、崑崙山を四川省西北部の岷山としている。)の神で人間の顔を持ち蛇の体を持つ赤色の神としている。目を開けば昼になり、目を閉じれば夜になるという日と月を運用する神だ。四川省成都の北にある紀元前20世紀から紀元前9世紀まで続いた三星堆遺跡で出土した目が飛び出た特徴的な仮面が出土したが、これがまさに燭竜だという。山海経はまた、この三星堆遺跡があった地を、天地を結ぶ建木という世界樹があり、天地の中心と呼んでいる。
燭竜が住む崑崙山にはさらに現代に至る道教の神であり、日本にも伝わった西王母の住む場所とされる。山海経では虎の牙をと豹の尻尾を持ち、しばしば吠え、髪はボサボサで勝という円錐系の簪でそれを結っていた。三星堆遺跡にまさにその西王母の姿の像が出土している。漫画『キングダム』に出てくる楊端和がイメージとして近いだろう。馬王堆漢墓に燭竜が描かれたと同時に、西王母信仰は前漢において大きく普及し、数々の絵画に描かれている。秦の始皇帝が戦国時代を統一し、皇帝を名乗り中央集権化され、まさに中華思想が確立されたが、その時代に何故、西戎の氐人に位置するこの地域が信仰の対象となったのか。中国にも中華思想という右翼思想だけでは語れない価値観、世界観があったからである。
中華思想における自分達中央である「華夏」。殷の前代王朝とされる「夏」という国名は殷代の甲骨文字には出てこない。西周において「殷」とともに付けられた国名と考えられる。むしろ、中華思想の「華夏」という言葉が先にあって「夏」という国名が生まれたと考えてもいいだろう。夏の祖、禹という漢字の当時の書き方は二匹の龍が交わる姿で書かれる。禹は洪水を治めた帝として文献資料に出てくる。最古の禹の字が出てきた西周中期の青銅器にも「天は禹に命じて大地を開拓させ、山をめぐり、川をさらえさせた」と記述がある。春秋時代からの文献資料において、禹の出生地は四川省西部の汶山とされている。崑崙山とも近い。もしかすると同じ地を指しているかもしれない。禹の治水事業は黄河だけでなく、長江に対しても行われている。そして長江の河口、会稽の地で没している。大陸側の辺境の地で生まれ、海側の辺境の地で没したわけだ。夏王朝伝説の元ネタとなった二里頭文化の影響力は黄河中流域に絞られ、文献資料に見られる夏の始祖禹の業績は周の周辺統治のための伝説であろう。ただし、禹の字が2匹の龍、つまり、黄河と長江が交わる場所、四川省西部山岳地帯が出生地であることには、当時の西周の世界観が出ているように思われる。西晋時代281年に、戦国時代の魏王墓が盗掘され、『穆天子伝』という書物が発掘された。穆王は5代周王で、往復3万5千里約1年かけて西王母に会いに行った話が描かれている。つまり、華夏、王畿という中華思想の世界観成立時にさえ、中心ピラミッドだけではなく、その外を崇拝する価値観が存在していたことになる。
三皇五帝の五帝の中で、堯、舜、禹は血筋が異なるものの一系列で語られる。禹の名が一番古い資料から現れるため、堯、舜は春秋戦国時代に後から追加されたものと考えられる。黄帝については老荘思想から産まれたため、さらに後に追加された。それらが系列を持つのに対して残る炎帝はその系列の中にいない。炎帝は炎の神であり、太陽神とされる。馬王堆漢墓の3号墳には燭竜と同一とされる祝融が炎帝を担ぐ姿が描かれている。本著によると漢代において祝融と炎帝を同一とする認識と別々とする認識が両方あったとされる。炎帝自身が南方火徳の帝とされる。他の帝のように中心として華夏、中原に君臨した帝ではないのである。
このようにエキゾチズムに近い形で、東洋には中心優位思想だけではなく、崑崙山のような辺境に優位を置く思考があったのである。知覚という面においてこれを東洋における左翼思想と呼ぶ事ができるだろう。四川省当時の巴蜀と呼ばれ地は戦国時代に秦に征服された。しかし、三星堆文化はその前紀元前9世紀頃、同地の人々によって滅ぼされている。三星堆遺跡の青銅器は穴の中に詰められていたが、収められた当時から破壊されており、おそらく、三星堆文化を滅ぼした人々によって穴に埋められた可能性がある。その後、この巴蜀の地には中原の動乱を逃れた人々が移住し、明末には反乱者張献忠によってこの地の300万人の人々がほとんど虐殺されてしまった。しかし、その南の雲南省北部には納西族のような母系社会の少数民族が住んでいる。家長は男だが、系図は母系で辿る。もしかすると元はこの大虐殺を逃れた三星堆文化を形作った人々の末裔かもしれない。
最終的に武力に屈してしまったが、西王母に対する信仰は道教の中で生き続けて、日本にも伝わって来ている。古えから今まで続いてきた東洋の世界観なのである。現在の中国の民族問題、海洋覇権問題の中で中華思想ばかり語られている。それは昨今であればこの20年の急速な変化の問題であり、それ以前であれば、辛亥革命後、清朝の領土の引き継ぎと帝国主義の中で起きた問題である。急速な変化が落ち着いた今こそ東洋左翼思想の確立が必要となっている。それを見る上でマルクスやフランス革命以前の中世ヨーロッパにおける左翼思想を今後の足がかりとして見ることで締めくくりたい。
西ローマ帝国が滅んでから7世紀余り経った12、13世紀。ヨーロッパの中原はイタリアにあり、ローマの教皇と、ドイツの神聖ローマ帝国皇帝がローマ帝国の遺産である中原イタリアを巡って権力闘争を繰り返していた。皇帝側は武力を持っていたが、その配下の諸侯の力が強く、皇帝の地位を脅かした。皇帝のお墨付きを渡すのはローマ教皇なので、皇帝になると教皇は各諸侯をけしかけて皇帝の力を抑えるといった具合だった。フリードリヒ2世は皇帝ハインリッヒ6世の息子だったが、皇帝の家督争いの中で教皇側の人質のような存在になり、ローマで幼少期を過ごした。皇帝がオットー4世になると、その相続を巡り、ドイツ国内が内戦状態になり、その結束の活路を見出すべく、シチリアに侵入した。怒ったローマ教皇はオットー6世を廃位させて、フリードリヒ2世を皇帝に推戴し、1212年ドイツへ送り込んだ。その見返りとしてシチリアの宗主権をローマ教皇に持たせるよう更新させ、オートーを倒してドイツ皇帝となった暁には十字軍に行く約束をさせた。シチリアの宗主権は元々フリードリヒ2世が母から相続していた。そこでフリードリヒ2世の影響力を削ぐために、フリードリヒ2世の産まれたばかりの長男にシチリアの王位を相続させた。十字軍については宗教イデオロギーにはキリスト教によるイスラム教という異教徒への戦争だが、ヨーロッパ内部の力関係においては、教皇が各王の力を削がせるために十字軍に行かせるという面があった。豊臣秀吉の文禄・慶長の役についても、各大名を朝鮮半島に行かせることにより、その力を削ぎ、自分の死後の体制を安定させるという目的があった。それと同じである。
1215年フリードリヒ2世はオットー4世を倒し、ドイツ国王になる。ところが、自分の息子をシチリアからドイツに行かせて、ドイツ王にしてしまい、逆に自分がシチリアに行き、シチリア、ドイツ両方の権勢を手に入れた。それはローマ教皇の怒りを買い、早く十字軍に行くように急かした。フリードリヒ2世はその要求をのらりくらりとかわしてシチリアの再建を進めていた。1228年教皇が変わると有無を言わさぬ要求に変わり、フリードリヒ2世はしぶしぶと十字軍に行くが途中で病気にかかったと二十日間で帰って来てしまった。教皇は問答無用にフリードリヒ2世を破門にした。病気が癒えた1229年また渋々とフリードリヒ2世は十字軍に行った。当時、エルサレムを治めていたスルタン、アル・カミールはフリードリヒ2世がアラビア語を完全に理解し、イスラム文化に深い敬意を持っていることに驚いた。戦闘どころか、哲学に関する書簡を両者で取り交わし、親交を深めた。アル・カミールにとってエルサレムは弟アル・ムアッザムが治める領地でスルタンとしては常に謀反の危機に脅かされてきた。謀反を起こしかねない弟に納めさせるよりも、公平で話がわかるフリードリヒ2世に治めてもらう方がいいと考えて一戦も交えることなく、エルサレムをフリードリヒ2世に渡してしまった。そしてエルサレム王の戴冠式に、キリスト教の司祭が福音書を持ってモスクに入ろうとするのを見て、フリードリヒ2世はアラーの神に対するなんたる不敬かと激怒した。
現在、日中間の懸案事項となっている東シナ海の問題について、日中国交正常後間もない鄧小平の棚上げ論、50年経って解決しないならば、100年待てばいいという言葉に当時の日本の黒幕達も感動してしまった。今、棚上げ論など無いと言うのはただの負け惜しみでなんの解決にもならずに事態を悪化させていく。右傾化していく日本の中で、鄧小平やフリードリヒ2世のように自分達の負け惜しみや自己満足ではなく、相手を感動させる言葉を言える人間がいるかは疑問である。それが分かっているは今上天皇だけだ。
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