| 本書は文永の役、弘安の役の通説を覆したとされる。しかし、どの通説を覆したかというのは結構細かい話になる。それを具体的に見ていきたいと思う。 まず文永の役から見たい。著者による進軍経路を地図にまとめた。黄色が元軍(東路軍)の進軍経路。赤が日本側の布陣になる。 |
通説では日本側が一方的に負け、博多が炎上。そして、10/20(太陰暦。現在の太陽暦では11/19。)の夜には元側は船に撤退し、翌日朝には撤退済みだったとされる。文永の役も季節外れの台風で撤退とされていた時期もあったが、2001年の大河ドラマでもそこはさすがに見直されてきた。私も信じていた通説ではフビライは日本と通商を求めていたのであり、元側の力を見せつけるのが目的でその目的を達成したので撤退したものとと考えてきた。人数的にも蒙漢軍25000、高麗軍8000という3万余りで10万単位で行われる大陸の遠征に比べれば少なく、フビライ自身征服出来るとは思ってなかったのでないかと考えてきた。『元史』日本伝に記載された文永の役日本側動員人数は10万人である。
著者の説によると博多炎上と言っても燃えたのは筥崎宮という神社で、日本側の沿岸防衛の拠点である警固山(後の福岡城)は落ちず、夜は船に戻ったのではなく、隣の麁原山(祖原山)に篭ったとされる。これは『蒙古襲来絵詞』に記載され、『高麗史』「金方慶伝」でも副将の劉復亨が流矢に中ったことが記載されている。また、10/24には直接太宰府を攻撃したが敗北し、撤退したとされる。鎌倉幕府の行政文書『関東評定伝』に記載されているが、一夜で帰ったとされる通説のため見逃されてきたのだという。これを見ると文永の役では日本側が元側を撃退したという随分従来とは異なるイメージになる。
警固山は赤坂山とも言われ、『蒙古襲来絵詞』に菊池武房100騎が赤坂竹林で元軍を破って凱旋する様子が描かれることから、一度警固山は元軍の手に落ちたとの解釈もあるようだ。本著では守りきったという解釈だ。(Wikipedia たかぎ七彦『アンゴルモア 元寇合戦記 博多編』2巻 角川コミックス2020)(R02/06/20追記) 弘安の役の著者による進軍経路は以下になる。黄色が元の東路軍(文永の役と同じ蒙古漢高麗の軍)、緑が元の江南軍(南宋投降兵)の進軍経路となる。 |
こちらは東路軍の進軍経路が通説と大きく異る。著者の説では東路軍は博多湾入り口の出島である志賀島を占拠したのだという。これは『高麗史節要』に「日本世界村大明浦に至る」という記述の世界村(siga-cen(浙江省寧波)、sega(韓国))を通説では対馬佐賀としていたが、世界村大明浦は志賀大明神を指すとしている。通説は近年に提唱されたが、それまでは志賀島説の方がメジャーだったらしい。
また、通説では東路軍は江南軍と鷹島で合流してそこで台風に会い、撤退したとされる。それは弘安の役に東路軍として参加した漢人張成の墓碑銘に張成がその経路を辿っていることが根拠となる。しかし、著者は張成は東路軍の司令官ではなく、一将軍で、弘安の役の目的である太宰府占領に最も近い志賀島を放棄することはありえず、張成ら一部が鷹島で江南軍と合流したとしている。竹崎季長の『蒙古襲来絵巻』を追っていても、それが鷹島ではなく、志賀島との間の能古島を巡る攻防と見た方が順当であるとしてる。
また、『壬生官務家日記抄』6/15の条には長門に元軍が来た記載がある。京の文書なので到達まで8日と考えると6/7頃に来襲したことになる。弘安の役については日本側が石塁を築き、海戦も行ったことから日本側の善戦が印象としてあるが、著者の説では元側、特に東路軍が善戦し、日本側が手を焼いたという印象になる。しかし、鷹島で江南軍が台風に合って撤退し、それに続いて志賀島の東路軍も撤退したという点で、その後ある程度の戦闘があったものの大枠は通説と変わらないものだ。
文永の役の元側動員人数についても以下のように著者の説は大きくことなる。
※私は高校の歴史の授業で聞いたが、江戸時代の講釈が初出とのこと。ただし、上赤坂城に糞谷という地名は残っている。R01.05.30追記どれも実際の現場ではなく、伝聞による神社や貴族による武士に対するこの時代の妬みの感情で書かれたものだ。元寇のイメージはここで脚色されてきたようだ。これが本著におけるテーマである第2次大戦戦前戦中の「神風」神話への批判となっている。もっとも大きい通説批判はここにあるのだろう。 日本側の動員人数については『元史』では十万人。日本側の記録ではあまり残っていなく、『蒙古襲来絵巻』で各部隊500騎、100騎等、1騎につき付き人2人ついたとしても非常に少ない人数の記載しかない。このへんは戦国時代とは異なり、鎌倉御家人気質があるようだ。つまり自分の家が連れてきた人数にしか興味がなく、それぞれが家の恩賞を目指して集まる。竹崎季長自身たった5騎で許可を取ったとしても勝手に遊軍として動いてしまっている。本当に動員人数がここまで少なかったのならば、九州周辺の御家人以外は蒙古襲来も他人事のように見ていたのかもしれない。たとえ名乗りを上げて戦うことは無かったとしても、集団戦法に比べて非効率的な戦い方だったようだ。神社や貴族も実態の把握が出来ていなかったが、御家人も御家人でどこかずれているように思える。似たようなことは江戸末期にもあり、西洋の軍事演習を観戦した日本側の感想は、全員が決まりきった動作を一律で行う西洋式の戦闘を個々の武が発揮出来ないと侮って見ていたそうだ。軍事面において個々の武よりも集団戦法や籠城における効率性を重視するように変わったという点で元寇は大きな影響を与えたと考えられる。これが御家人以外でも、農民やそこからも追い出された非人すらも集団であれば御家人と対等に戦える時代を作り出した。 しかし、もう一つの面としては、その後、鎌倉幕府が崩壊し、建武の新政後、京都に本拠を置く幕府が誕生したことにより、再び神仏や怨霊が政治決定に大きな影響を与えたことだ。室町幕府の脆弱性や関東側の古河公方の台頭等そこが大きかったと見られる。現にここまで元寇の実態が歪められて把握されてきた。実態は御家人、または、寺社の僧兵だけでなく、誰もが武力行使を行え、それに依拠する政治を唱えられる時代になった。そのギャップを政治が制御出来なかったのだ。 |