倭国王帥升、卑弥呼が貢物として献上した生口。卑弥呼の死に伴い殉葬され、天武天皇の大祓に伴い各国の国造が献上し、持統天皇が売買を禁止した奴婢。これらは現在で言うところの奴隷だ。ヨーロッパで言う所の家人、農奴が奴隷ならば、まさにこれこそ奴隷だ。ただ、その当時の実態についてはわからないところが多い。江戸時代の士農工商の身分制度のさらに下に置かれた穢多、非人。現在の部落問題も絡み、現在なお政治的で不透明なところがある。現在差別など存在しないが、一昔前の世代には差別はたしかに存在した。畿内の特に古墳のあるところに部落が多い。 日本の文献を読むと河原者という人々がよく現れ、どのような存在なのか私は知らなかった。本著では河原者、清目、犬神人という非人階層の文献を追う。身分制度としての非人が確立する江戸時代より前、平安後期から南北朝時代まで文献を追う。そこから見えてくるものは非人という階層が差別の対象であると共に、現世から離れ、人の手が及ばない黄泉の世界としての非人という意味も見えてくる。 河原者は主に土木労働書だ。中国では清朝を不安定にしたのが農家の家を継げず、子孫を残せない出稼ぎ土木労働書だ。彼らが植民した場所で乱開発をして環境が破壊され、太平天国の乱などの反乱の火種となり、清朝が倒れる原因となった。現在の日本、大阪のあいりん地区も元から住んでいた人よりも外から流れてきた人々が多いという。最近は外国人も増えてきた。昔からヤクザが元締めになって、土木作業に連れて行った。原発事故後もここから労働書が派遣された。 清目は検非違使の配下にあり、主に刑場に携わった。特権階級でもあり、人から忌み嫌われる存在でもあった。成人しても月代(さかやき)を剃らず、烏帽子をかぶらず、身なりは童のままで、「〜〜丸」のよう名を名乗る。孤児出身が多い。俗世からは浮いた存在だ。丁髷が無くなった現在ではこのイメージが侍のイメージになっている。 犬神人は僧形で覆面をしている。現代だと僧兵のイメージだが、当時この身なりは被差別者だ。この覆面は当時癩病患者が顔を隠すためにしていた。一遍聖絵には彼ら犬神人が現れ、一遍聖人が入滅した歳は入水してその後を追っている。一遍の時宗はこのような被差別者にも慕われていたことがわかる。 また、江戸時代穢多として部落階級とされた、牛飼い、馬貸、革製品にかかわる職人。現在から見れば立派のアートとしての職人で、専売を許された特権階級なのにも関わらず、4つ足の獣に関わり、その死体に係わることで穢れと見られた。 彼らは被差別対象でありながら、南北朝時代まで天皇の側にいる聖性も持ち、職人だった。さらに荘園まで持つ領主もいて、武家政権の前の、律令制度の中の特権階級だった。アニミズムの神道の世界観の中で、彼らの存在はピラミッド型階級の底辺にいたとも言えないのだ。古代における生口、奴婢もおそらくそのような性質を持っていたと想像される。 本著ではまた、中世における女性の存在にも焦点を当てる。現在の日本は世界的に見ると男女平等が遅れていると言われている。ただ、日本の歴史においてはそうでもない。古代には女帝がいたし、神功皇后は単なる皇后ではなく、女帝という存在だろう。ルイス・フロイスは、女性が性に奔放で、夫に告げずに一人で旅に出たり、妻が夫と離婚出来ることに驚いている。また、女性の識字率は高く、女性の庄屋や金貸しもいた。旅をしながら塩や魚を売る行商人もいた。平安時代から女性が日記を書いたりするのは日本だけで、世界的に女性の権利という点では最先進国だったと言えるだろう。ただ、性という点では社会システムとしてこれほど公然と売り物にされた国もない。女性の貞操について厳しくなったのは西洋近代が入った明治以降で、また、家父長制度が進んだ江戸時代から自由恋愛はなく、家が決める結婚になった。早くは鎌倉新仏教の時代から女性を穢れとして見る思考が生まれ、鎌倉新仏教は女性救済活動を行った。ただ、尼寺が売春を行っていた事実もある。 古事記の神話が性に奔放なように、日本古来の世界観では性に奔放だ。神道では神の相手をさせる女性の存在がある。また、天武天皇の時代に国造が奴婢を送ったように、地方豪族が天皇に女性を送る采女という制度があった。無理矢理送られたというよりも、容姿がすぐれないとなれなく、制度化された特権官僚だった。世界的に存在した宦官が日本に存在しない理由もこのような女性官人が男に対する受け身ではなく、教養を持ち官僚として後宮を仕切っていたためだろう。世間では被差別的な立場にあった遊女も、後白河の子を生んだ江口遊女、後鳥羽天皇の寵姫、白拍子亀菊のように、後宮を仕切る存在になることもあった。彼女達は性を聖なるものにした存在であると共に識字率も高く、教養も高かった。 現在、AV女優などなりたくてもなれない職業だと言われている。そんなところは日本の性産業の独特なところなのかもしれない。その前は闇社会が背景にある業界だったので金のために出演したり、悪どい手口が使われた。それも飽和して供給過剰になるようになった。90年代の始まった頃はモザイクで前張り隠した疑似性行為が当たり前なのにいつの間にか本番行為が当たり前になった。もともとは供給過剰の映像業界が食っていくために始めた業界だったが、闇社会の利権になって過激になった。ロマンポルノの時代はポルノ映画のタイトルで中身は普通の映画だったりした。疑似性行為ならAVやポルノでなくても普通の女優が普通の映画でもやる。90年代の若い女性の声は男女機会均等が今より進んでいない時代だったのにも関わらず、女性に生まれてきて良かったという声を聞いたものだった。今でもそうかもしれないが、女友達がいなく、男の友達は多いという女性もいた。女性の側が性をリード出来ると女性の側から積極的に参加する傾向もあった。団塊世代の女性は専業主婦が多く、性産業に対する拒否感は高かったが、核家族の専業主婦は孤独なので歪みやすく、その歪みがその子団塊ジュニア世代に当たりやすくなることもその傾向を加速させた。90年代の暗い空気はモラルがどこまでも崩壊する傾向があった。そういう女性も若いうちはいいが、中年になると家族の幸せが自身の幸せになる。ネットとデジタル化でいつまでも映像が残る時代になって、家族にとっては残る汚点となってしまう映像メディアになってしまった。今になってどこまでも過激になったこの業界はやっと収束する方向に進み、規制が進んできた。芸術としてヌードは人気女優まで撮るある意味格式あるものだったが、それに対しても批判がされるようになった。当時一世を風靡した写真家も今大物の映画監督も批判されるようになった。性を聖なるものにする文化も自然のように生生流転で消えていくならばいいがデジタル化で残り、ネットで世界に拡散するものになってしまうと被差別性が生まれてくる。そしてその背景には常に社会矛盾と闇社会がいる。 江戸時代の家父長制度は個人よりも家を優先することで女性の特に色情の自由を制限したとも言えるが、現代の職場でも男女間でそのへんがもつれると職場破壊とも言える惨状を呈するので、避けようとするものだ。消費する側と異なり、性を扱う産業はそのへんがもっと難しく、人間関係の緊張は高いだろう。男女機会均等となると女性も性を強調するわけにもいかなくなる。90年代の若い女性も大多数は性産業に拒否感を持っていて、性をリードしようとする女性はごく一部で目立っていたに過ぎない。水商売の女性もそういった産業に堕ちることを軽蔑していた。目立たせていたのは当時の団塊世代中年の需要だ。バブルなんてろくでもない時代だった。性を強調すれば自由になるのか、性を抑制すれば機会均等になるのか、またはどちらが男権主義なのかは性別に関わらず、個人個人とその年代の真逆の価値観による。 著者は現代の一人旅をする女性にも注目している。女性が一人旅をするのは日本ぐらいなのだ。私の年代にもそういう女性は多かった。そういう女性も中年になると家族を求めるようになっている。家庭よりも仕事を選ぶ女性も同じような状況だろう。ある意味、女性の権利という点では古来からの日本は進んでいた。その惰性が今男女機会均等では世界から遅れをとる理由でもあるだろう。中国には溺女という女性を間引きする習慣があった。儒教の影響で女性が生きにくい社会だった。それが女性を娶れない男性を増やし、清朝を不安定にした。日本の古来からの文化は女性の権利が進んでいたので宦官制度もなく、その点は恵まれていたが、性という点では未だに課題がある。それが現在、男女機会均等を世界的に見ても遅らせている。日本の差別問題は階級闘争史観への批判から再評価されてきたが、それでも今に続く問題はあったと言えるだろう。 闇社会はなぜ出来るのかと言えば、世の中には本人自身や環境によっていろいろな人がいて、時代の社会規範からはみ出た人が寄り添って表に出せない裏の闇社会が出来る。本人にとってはやり切れない疎外感を感じていて、周囲にとってはめんどくさい人だ。社会からはみ出たという点は共通していても、問題の質が異なる人々が集まると想像もつかない環境が作られる。世間では通用する刑罰も通用しない、まさに極道の世界が出来る。まさに古来からのの穢れと共にいて、その中でモラルが出来ればまだましなのだが、それで収まらなければ人の規範が通用しない非人の世界が出来る。 |