それは、とても暗い夜のことでした。厚い雲に覆われていたため、地上からでは月も星々も見ることができません。
暗くて見分けづらいものの、その空には黒い影が漂っていました。
長いフードを被って、大きな鎌を抱えたシルエット――それは、みんなが想像する死神によく似ていました。
とあるビルの屋上に、一人の女の子が立っていました。
ひゅう、と風が吹いて少女の身体が軽く押されました。ぼんやりと下を眺めていた少女の身体は、簡単にバランスを崩しました。少女の足が踏みしめたのは、なにもない空でした。
少女の身体はビルの屋上から真っ逆さま。
ああ、自分は死んじゃうんだな。少女はそう考えました。
ところが、少女の視界を覆ったのは黒い影です。すると、落ちる速度が遅くなり、その身体はふわりと地上に降り立ちました。
ぺたりと座り込んでいる少女は、自分を助けてくれた相手を見上げます。
「……死神?」
「肯定だ」
その言葉を聞いて、少女は死ぬ運命にあるのだと覚悟しました。
「私を殺すの?」
「否定だ。俺にそのような資格はない」
「……え?」
「君は今死ぬべき人間ではない。自殺などするな」
「自殺? あたしが自殺なんてするわけないでしょ」
少女は不機嫌そうに答えました。
「あんたは……あたしのこと知ってるわけ?」
死神が頷きました。
「千鳥かなめ――俺の護衛対象だ」
「だったら、あんたの名前も教えてよ」
目深に被っていたフードを下ろして、死神は自分の顔をさらしました。
「ソースケだ」
死神とは人間が考えているような、人を殺して回る存在ではありません。
人の魂は何度も生まれ変わることで成長していきます。正しい生き方をしていれば楽しい来世が、悪い人生を辿ると悲しい来世が待っています。
死神は人の死を看取りますが、それは来世への誕生を意味しています。人が死ぬ原因は、病気だったり、事故だったり、犯罪だったり、いろいろです。ですが、人の死とはどのような原因であっても、それはすべて運命によるものなのです。
厳密に決められた死期は、死神であっても、本人であっても変えることは許されません。
だからこそ、ソースケはかなめを助けたのです。
かなめに気に入られたソースケは、実体化した状態で彼女に連れ回されました。翌日も、その翌日も――。
人間界のことを知らない彼は、どこへ行っても騒動を起こしました。
ある時はソースケと共に逃げだし、ある時はソースケをぶん殴り、ある時はソースケに変わって頭を下げます。大変なことばかりなのに、かなめは楽しそうに笑っていました。
それはソースケにとっても同様でした。これまで義務的に魂の案内を行っていた彼は、初めて人との交流をもったのです。かなめと遊ぶことはとても楽しかったのです。
「死神ってもっと怖いもんだと思っていたけど、そうでもないのね。……ソースケは個性的な方だと思うけど」
「そんなことはない。俺はごく一般的な死神だ」
むっつりと返されて、かなめが笑いました。
「ところで、今日は何曜日だ?」
「火曜日だけど」
「では、学校があるのではないか?」
「今日は創立記念日なの」
「……そうか」
ソースケの質問に腹を立てたのか、かなめが黙り込みました。
もしも、彼女が学校に行っていれば、この時、この場所に、彼女がいることはなかったはずです。
ソースケがいたからこそ、彼女はいまここにいます。
そして、彼女は自分の運命を知りません。
この先の交差点で、彼女はトラックにひかれて命を落とすことになっているのです。だからこそ、ソースケはほんの数日だけ彼女を護っていたのです。
「ほら、信号が変わっちゃうじゃない」
ソースケに声をかけて、かなめが走り出します。
横断歩道の途中で、ソースケがついてこないことに彼女は気づきました。
「ちょっと、ソースケ……」
立ち止まった彼女が、振り向いた瞬間でした。
キキーッ!
突然のタイヤの音。
ドン!
トラックに激突された身体が、どさりとアスファルトの上に転がりました。
「あ……あ……」
何が起こったのか理解できず、かなめはとっさに声もでません。
「ソースケっ!」
ようやく我に返ったかなめが、慌てて駆け寄ります。
かなめを突き飛ばしたソースケは、身代わりとなってトラックにひかれていました。
「無事……か?」
額から血を流しながら、ソースケが尋ねます。
「しっかりして! いま、救急車を呼ぶから」
「不要だ。それに、俺のここでの仕事はもう終わりだ」
「どういうこと?」
「本来ならば、君はいまこの場で死ぬ運命だった。それが果たされなかった以上、君には新しい運命が手配されるはずだ」
「どうしてそこまでするのよ!? 私を助ける必要なんてないのに! あの時、私は自殺しようとしてたんだから!」
かなめは涙をこぼしながら、本当のことを告白しました。
「君につきあっていて、俺は君は死ぬべき人間ではない思った。死へ逃げ込むなど君らしくもない。自らの力で生き抜いてみせろ」
かなめが抱き起こしているソースケの身体がぼんやりとかすみ始めました。
「ソースケ? 一体、どうなるの?」
「実体化が保たない。俺がここから消え去った時、君は俺の記憶を失うはずだ」
「そんなのってないよ。そんな勝手なことばかり……」
「これは俺が選んだ選択だ。君も自分の人生をまっとうするんだ」
その言葉を最後に、ソースケの姿は消失してしまいました。
路上に座り込んでいるかなめに、通行人が駆け寄りました。
トラックにひかれそうになった少女は、放心したかのように、空を見上げて涙をこぼし続けました。
千鳥かなめは校門に立っています。この2日ほど休んでいた中学校の前です。
彼女は帰国子女でした。自己主張の強い外国で暮らしていたため、彼女の人付き合いとは本音をぶつけ合う事でした。
しかし、日本ではそうはいきません。転校してきた彼女は、意見を曲げなかったり、人の欠点を指摘したことで、クラス中から嫌われてしまったのです。
酷いいじめに耐えかねて、自殺も考えました。
でも、今は違います。
彼女は戦うために、ここへ戻ってきました。
自分を救ってくれた誰かのためにも――。
●
「貴様らしくない失態だな」
「申し訳ありません」
ソースケが謝罪する。
「死神としては失格だ。一時の迷いで、人の運命を左右するなど、死神ごときには許されていない」
彼はソースケの上司に当たる人物だった。
自分の適正については、この際どうでもよかった。その点についてソースケは抗弁するつもりもない。
「彼女の生が長引くことによって、どのような争乱が起きるか、君は理解していないようだ」
「しかし、彼女自身に罪があるわけではない」
「問題は彼女の責任の有無ではない。彼女の存在によって引き起こされる事態の方だ。だからこそ、上層部も彼女の死を決定したのだ」
「ですが……」
「彼女の運命は君の手でねじ曲げられてしまった。彼女は別な形で不運にみまわれることだろう」
「待ってくれ! 今回の責任はすべて俺にある。彼女には手を出さないでくれ」
「そうはいかん。それに、君には君の罰がある。君が全ての責任を負うというのなら、自らの力で対処したまえ」
「頼む。彼女だけはっ!」
ソースケの懇願は聞き入れられず、彼は拘束されて部屋から連行されていった。
「いいんすかね? ソースケはあんたの……」
「それはこの場では関係のないことだ」
傍らの部下が軽い調子でたずねるが、彼はその言葉を切り捨てる。
「そんなに奴が心配ならば、君もつきあったらどうだ?」
「そいつは勘弁」
彼は肩をすくめてみせる。
●
ソースケに与えられた罰――それは、天界からの追放だった。
人間界に転生した彼には、過酷な運命が待ち受けていた。仲間や敵、数多くの死を乗り越えて、それでも彼は生き延びた。
死神と少女は、いずれ再会を果たすこととなる。
彼がほんのわずかだけ時間を遡ったこと――それは神の罰なのか、それとも温情なのか。
死神と少女の人生に幸多からんことを――。
──『死神と少女の話』おわり
あとがき
構想4年(笑)。と言えば聞こえはいいが、単に発案が古いだけという……。
マンガ「BLEACH」を見て、「宗介は死神が似合うかも」と思い立ったのが発端です。
死神の仕事内容はマンガ「死神くん」(作:えんどコイチ)から借用しました。
オチについては、なんらかの作品を連想されるかもしれませんが、意外に散見されるネタです。私がアイデアの元にしたのは、児童マンガ雑誌掲載作品と大御所マンガ家作品です。