『直死の魔眼を持ってしまった男の話』
目が疲れた。
というか、妙に視界が霞む。
眼鏡を外してまぶたの上からもんでみる。
眼鏡を買い換えたばっかりなので度が合ってないのかとも思った。
寝不足で目が疲れているのだろうか……?
数日経ち、妙なものが見えるようになってきた。
目の中に、細かい糸が潜り込んだような、ぼやけた黒い線がみえるのだ。
それは次第にはっきりと、確実に見えるようになってきた。
視界に映る、あらゆる物に、その線が刻まれている。
そう……。
最近やってみたゲームによく似ている。
知っている人間にならば、こう説明するだけで通じるだろう。
『月姫』の中で志貴が見ていた光景とよく似ていると――。
もしかしたら……。
俺でなくとも考えるはずだ。
俺は果物ナイフを持ち出して、手近にあったCDケースに突き立ててみた。
手で割ることもできる脆い物だが、ナイフで切れるような代物じゃない。
それが……、あっさりと切れた。
触れた感触すら感じなかった。まるで、ナイフの幅で作られた溝へ刃を通すように、簡単にすり抜けていた。
いろんな物で試した。
ゴムも、木も、石も、金属も、なんでも切れた。
その切れ味は、テレビで通販している包丁とは比べ物にならない。
俺には、蒼崎青子なんて魔法使いの知り合いはいない。
つまり、魔眼殺しの眼鏡を手に入れる手段なんてなかった。
普通に生活している人間に、そんな機会などあるわけがない。
特殊な人間に特殊な出会いが用意されているというなら、これから会うことになるかもしれないが……。
今の俺は、それまでと変わらない状態で暮らしている。
平凡な会社員として。
なんの変哲もない眼鏡をかけて……。
思うに、『月姫』の遠野志貴は、繊細というか、感受性が強いんじゃないだろうか? 子供の頃に魔眼を手に入れたから、過剰に反応したのかもしれない。
それとも、ゲームの延長のように感じているから、俺自身にその実感が乏しいだけなのだろうか?
あらゆる物に線がみえるので、目が疲れるとか、見づらいということはある。
だが、志貴のように、世界が壊れやすそうだからと不安に苛まれることもない。
これまでと何も変わらなかった。
そして、不都合がないとの同じように、役立つこともほとんどない。
こんな力があったって、普通の生活では使う機会がほとんどなかった。
たとえば、何でも切れると言いながら、それは線をなぞることで行うのだ。線がないところは切れない。
つまり、切りたい部分を切れるとは限らないのだ。
日常的に戦うべき敵もいないし、殺したい相手もいない。
いつもと変わらない、つまらない日常――。
ふと、思いついた。
俺のまわりに魔術師はいない。
少なくとも、そう名乗る人間は。
だが、俺の状況をわかってくれそうな人間に一人だけ心当たりがある。
『月姫』のシナリオを書いた、奈須きのこだ。俺が知る限り、直死の魔眼に一番詳しい人間ということになる。
今や、奈須きのこはプロの小説家である。なんの面識もない俺が会えるはずがない。
ダメ元で、とりあえず著作である『空の境界』に記載されていた出版社宛に手紙を送ることにした。
簡単な感想と一緒に、俺の状況を書き込む。魔眼で切った物の写真も同封しておいた。
後日。
どうやって調べたのか、直接、奈須きのこ本人から電話がかかってきた。
電話口で名乗られたときは、誰かのいたずらかと思って警戒したぐらいだ。
だが、俺は目のことについては、先生にしか伝えていない。おそらく、先生本人に間違いないだろう。
聞かれるままに全てを説明し、日を改めて会うこととなった。
先生が指定したのは喫茶店『アーネンエルベ』。先生の作品に登場する店だが、本当にあるとは驚きだった。
先生に実演して欲しいと言われ、俺は登山ナイフを取り出す。
果物ナイフというのも情けないので、それなりに見栄えのするヤツを購入しておいたのだ。
先生が持参した、腕時計とか、鉄の棒を軽く切ってみせる。
インチキではないのだから、造作もないことだ。
半信半疑だった先生にも、これで信じてもらえたようだ。
力が生まれた原因を尋ねられたが、それは俺にも答えようがない。俺の方が教えてもらいたいくらいだ。
志貴や式のように、死にかけた経験もないのだから。
突然、見えるようになっただけ。
魔術として造り上げたものではなく、もともと持っていた能力が、表に出てきただけらしい。先生の分類によるなら、超能力ということになる。
先生は俺に魔眼殺しの眼鏡を準備してくれるという。
どうやら、知り合いに本物の魔術師がいるらしいのだ。
俺自身は不都合を感じていなかったが、先生に押し切られる形で受け取ることにした。
まあ、志貴が持っているのと同じ眼鏡というだけでも魅力的だ。……コミケで販売される品より、はるかに希少価値が高いし。
「眼鏡はあった方がいい。……君のためにも、まわりのためにも」
先生はそう言っていた。
しばらく経った、ある日。俺は不良にからまれた。
夜の路地裏で三人に囲まれたのだ。
相手はただ金が欲しだけ。獲物は誰でもよかったらしい。たまたま通りかかってしまった不運な人物が俺というわけだ。
だが、まるで怖くない。
俺には直死の魔眼がある。コイツらの死の点がはっきりと見えている。
俺は七夜の体術など持ってはいないが、コイツらだって真祖や死徒ではない。
ごっ!
殴られた。
平然としていた俺の態度で、舐められたと感じたらしい。
後頭部が壁にぶつかる。
衝撃があった。
痛い!
本気でケンカをしたことがない俺は、その痛みに驚いていた。
三人がかりで何度も殴られる。
鼻血がでた。
皮膚がこすれ、肉が潰れ、骨が軋む。
なんでこんな目にあうんだ?
こいつらは笑いながら俺を殴る。
恥ずかしい。
情けない。
悔しい。
そうだ。俺の方が強いのに――。
ナイフを使えば、すぐに切れる。すぐに殺せる。
「やめろ!」
そう叫んだ俺をあざ笑いながら、もう一発殴る。
くそっ!
俺はナイフを取り出して突き出していた。
胸のあたりに見えている死の点。
最初から突き刺さることが決まってたかのように、すとんと、刃はそこへ吸い込まれていた。
それだけ――。
俺の腕には、なんの感触も残らなかった。
それでも、相手は確かに死んでいた。
地面に倒れた男は全く身動きをしない。
残る二人は事情も分からずそいつを揺すった。
確かに俺はナイフを出したが、刺された男は呻き声もあげず、血も流れていない。人がそんなに簡単に死ぬとは思わなかったのだろう。二人がその事実に気づかなくても、それは当然のことだった。
だが、二人はすぐにその結論に達した。──俺に殺されたのだと。
一人がナイフを取り出した。
俺を刺すつもりなのだろう。
俺は黙って刺されるつもりなどなかった。
先に動いた。
こいつは頭だ。
すとん。
ナイフは根本まで潜り込む。
これで、こいつも死んだ。
最後の一人が逃げだそうとする。
俺が危険な相手だと思ったのだろう。
冗談じゃない。
俺は普通の人間だ。
今のだって、たまたま上手くいっただけ。お前らがおもしろ半分に殴ったって人は死ぬ。現に、俺だってお前らに殺されていたかも知れない。
勝手に被害者面をするな。
勝手に逃げるんじゃない。
そうだ。
俺の殺しを見られた以上、コイツを逃がしたら俺は殺人犯として捕まってしまう。
俺は意外に冷静だったらしい。それとも、冷静に考えることができなくなっていたのだろうか……?
追いすがった俺は、そいつの背中にナイフを突き立てていた。
しばらく、会社を休んだ。
三人も死んだ──いや、殺してしまったんだ。
当然、ニュースになるだろう。
目撃者がいれば、俺は捕まるだろう。これまで生きてきた人生が全てパーだ。
アリバイを作ることも考えたが、かえってボロをだしそうなので、思いとどまった。
もともと、俺はアイツらとまったく面識がない。接点がないのだから、人の注意を引くようなことがなければ、容疑者にあがるはずない。
俺は何の決断もできず、自分の部屋に閉じこもっていた。
勧誘などで部屋の呼び鈴が鳴らされると、心臓が跳び跳ねた。
しかし、俺の心配をよそに、あの事件はニュース報道すらされなかった。
死体が発見されなかったのか?
それとも、話題にならないと判断されて、放送を見合わせたのか?
いや、警察が情報を伏せているだけかもしれない。
だけど……。
騒ぎになっていないことで、いくらか気が楽になった。
起きた事実は替わらないが、なんとなく黙認してもらえた気がしたのだ。
そうだよ。
俺はちゃんと就職して働いている普通の人間だ。
あいつらは犯罪者だ。普通の人間を脅かし、金を強奪する、社会の害悪だ。
俺が金を奪われるよりも、あいつらが死んだ方が正しい。
そうあるべきだ。
それに、……そうだ。
もともと、死の線が見えるのだ。死の点があるのだ。
いずれ死ぬ命だし、それが今だっておかしくない。
あいつらは俺のおかげで、これ以上罪を重ねずに済んだんだ。
むしろ、俺が救ってやったんだ。
俺は……。
俺は間違ってなんかいない……。
先生から連絡があった。
眼鏡が手に入ったらしい。
待ち合わせは夜の倉庫だという。
変な話だ。
首を傾げながらも、俺は倉庫に向かう。
人気のない、夜の倉庫へ。
俺はナイフをポケットにしまい、なぜか興奮で胸を昂ぶらせていた。
やってきたのは先生ではなかった。
一人の少女だ。
淡い色合いのワンピースを着ている。若い子にしては珍しくスカートの丈が長く、足首近くまで隠れていた。
奇妙な組み合わせだが、赤い革製のジャンバーを羽織っている。
少女が俺の名前を確認したので、うなずいてみせた。
彼女は先生の代理できたのだろうか?
初対面の相手だが、当然のごとくある名前が頭に浮かんだ。
着物こそ着ていないものの、彼女のシルエットがある人物に似ていたからだ。
「もしかして……、両儀式なのか?」
「違うよ」
彼女は言下に否定する。
そうだよな。
小説の人間が現実世界に現れるなんて、そんなバカな話があるわけない。
「あんなヤバイ話で実名を使うわけにいかないだろ」
彼女はこともなげに言う。
「それは……、つまり……、あの“両儀式”のモデルっていうことになるのか?」
「そうだ」
…………。
改めて彼女を見つめる。
硬質な印象をうけるが、確かにキレイな子だった。
だが、そんな人間が実在することや、会えたことは面白いが、彼女が来た理由は不明のままだ。
俺の戸惑いなどお構いなしに、彼女は口を開いた。
「お前は、いままで気づかなくても、その力を持っていたはずなんだ。それが突然表へ出てきたのにはちゃんと理由がある」
「理由?」
「想像はつくんじゃないか? 『空の境界』や『月姫』さ。あの中に出てくる直死の魔眼の記述が、お前を目覚めさせたんだ。知らないままなら問題はなかった。だけど、お前は力の存在を知り、具体的な能力を理解してしまった。だから、脳がその能力を認識してしまったんだ」
「なるほどね。それはわかったけど、肝心の眼鏡はどうしたんだ? 先生から預かってきたんだろ?」
「もう、お前には必要ないじゃないか」
「どうして? 俺はまだ直死の魔眼をもったままだ。力が残ってる」
「そうじゃない。もう、お前は魔眼を塞いでおく意味がないって言っているのさ。お前はもう、向こう側の人間だからな」
「何を言っているんだ?」
「直死の魔眼は危険なんだ。簡単に人の死に触れてしまえる。人というのが簡単に殺せる存在だとわかってしまう。本人自身に死の経験がなければ、知覚する死とは、全て他者のものだけになる。死の実感を得ていない持ち主にとっては、殺しそのものが軽い行為に思えてくるのさ」
「……俺が……そうだっていうのか?」
「だって……、そうだろ? お前はすでに殺しているじゃないか」
唐突な指摘。
心臓を鷲づかみにされたような衝撃だった。
「なんで……それを……」
「ずっと調べていたらしいぜ。お前のこと。無害なのか、有害なのか……」
「それでどうだったんだ……?」
震える声で俺は訪ねる。
その答えが、薄々わかってはいても……。
「なぜここに俺がいるのか考えればわかるだろ?」
彼女の艶やかな黒い瞳がオレを観る。
喉が渇き、俺はごくりと唾を飲み込んでいた。
「お前が殺した人間は、俺の知っている魔術師が処分したよ。死体はもう見つからない。そして、お前もそうなる」
「な、なんだよ、それ!?」
「言っただろ? 危険なんだよ。……オレ達の力は」
「俺達……?」
「“両儀式”の持つ力を、お前はもう知っているはずだ」
俺は“式”に襲われた。
ナイフが俺の皮膚を裂く。
だが、俺は危ういところでかわし続ける。
俺はケンカの経験なんてほとんどない。刃物を振り回したことなど一度もない。
だけど……、なぜだろう?
冷静に相手の動きを見て、それに応じていた。
俺も右腕にナイフを握り、彼女を殺そうとする。
負けていない。
なんとか動けている。
むこうの身体にだって線が見えている。
条件は同じじゃないか。
“式”が殺して、俺が死ぬとは限らない。
どちらかが殺して、どちらかが死ぬのだ。
それなら、俺は殺す側になってやる。
身体が震える。
当然だ。
殺し合いをしていて怖くないはずがない。
そう。
身体が震えるのは、嬉しいからなんかなじゃい……。
「ほらな。お前はもう向こう側なのさ。そうでなければ、オレと殺し合えるはずがない」
“式”が感嘆する。
そこに滲み出ているのは、――喜び。
お互いの死を演出するために、ナイフを振り回す。
白刃が闇に光る。
ナイフが接触すると火花が弾ける。
就職してから運動不足のはずなのに、信じられないぐらいに身体が動く。
だが、それでも“式”の方が上だった。
予測したのと別な軌道でナイフが俺に迫る。
いつの間にか、“式”はナイフを左手に持ち替えていたのだ。
かわしようがない!
刺される!?
――――。
“式”の動きが止まった。
彼女自身が、自分に起きた事態を信じられないようだ。
俺は持っているナイフを、伸びたままの彼女の左腕に突き刺していた。
「く……」
彼女の左腕がだらりと垂れ下がる。
ナイフがこぼれ落ちて、地面に転がった。
これで、“式”は左手と武器を失った。
彼女は後ろへとびすさって、俺との距離をとる。
俺が何かを仕掛けたわけではない。彼女は自らの意志――いや、彼女の中の何かが動きを止めたのだ。
なんだ……。
“式”には俺を殺すつもりがないんだ。
それだけで十分だ。
殺す技を持ち、殺すための能力もあり、それでも、“式”には俺を殺すことはできない。
殺す意志がない者は、脅威とはなり得ない。
安堵すると同時に、喜びが溢れ出てきた。
どうやら俺は勘違いしていたらしい。
俺は殺すためにここにいるのだ。
そして、“式”は俺に殺されるためにここにいる。
今にも俺は“式”に飛びかかろうとしていた。
“式”を殺すために。
そんな緊迫した状況だというのに、まるで俺の存在に気づかない様子で、三人目がここへ姿を見せた。
「君は殺しをやめたんじゃなかったのか? まったく……」
現れた少年が、傷ついた“式”を非難する。だが、その口調からは、自分自身を責めているように聞こえた。
「仕方がなかったんだ。アイツを放ってはおけないからな」
ふてくされたように“式”が顔を背ける。
少年が俺を振り返った。
「アンタも持っているんだって?」
眼鏡をかけた少年が、俺を見る。線が細く、柔和な顔立ち。
俺は記憶の中から、少年を言い表す名前を探し出した。
「“黒桐幹也”か?」
「いいや」
首を振った少年が、短い棒を取り出す。
表面にはなにかの文字が刻まれていた。
……まさか?
「“遠野志貴”と名乗っておくよ」
そうかっ!?
こいつが遠野志貴のモデルというわけか。
パチン!
“志貴”が手にした柄の中から刃が飛び出した。
そして、アレが七つ夜?
俺は登山ナイフを、“志貴”は七つ夜を――。
振り回される二つの刃が噛み合う。
衝撃と火花。
血と痛み。
大した強さじゃない。
これなら“式”の方が速かった。“式”の方が強かった。
俺程度の相手だから手を抜いているのだろうか?
違う。
そうじゃない。
確か、“志貴”を襲う反転衝動は化け物を相手にした時だけだったはず。
俺は人間だもんな。
あの力は使えないわけだ。
だったら、俺は負けない。
殺されてたまるか。
殺すのは俺の方だ。
こいつらだって、他の人間と同じだ。
簡単に殺せる。
線をなぞるだけ。
点を突くだけ。
俺は、もう殺す側の人間だ。
“式”が言っていたな。
向こう側だって。
そうだ。
俺は人を越えたんだ。
脳のチャンネルが切り替わったみたいに、俺は別な価値観を知ってしまった。
難しいことじゃない。
殺す側だと、別な存在だと、自覚するだけで人は変わってしまう。
――っ!
不意に、“志貴”の姿が消えた。
俺が捉えられるのは残された影だけ。とてもじゃないが、その動きについていけない。
ひどく歪な、人間にはありえないその動き。
“志貴”に流れる七夜の血。
あれは人ではない者を相手に覚醒するんだっけ。
俺自身が感じたように、俺はもう人ではなくなっていたわけだ。
痛みはなかった。
自分の身体を見下ろして、初めて状況を理解した。
俺の胸には、“志貴”の手にした七つ夜の刃が突き刺さっている。正確にその一点を──。
急速に意識が薄れていく。奈落の底へと吸い込まれるように。
五感が失われていく……。
俺の知覚していた世界が、全て失われようとしていた。
ひとつだけ残された孤独感が俺を呑み込んでいく。
これが死……?
俺が殺した三人も同じような寂しさを感じたのだろうか?
いつの間にか俺は倒れていたらしい。
俺の身体は仰向けになり、夜空を見上げていた。
動かせもしない視界の中で、丸い月がぽつんと光っている。
『月姫』で表示されるように、大きくもなく、青くもなく、鮮やかでもない。
ひどくちっぽけな、黄色い月。
それでも。
ああ、それでも……。
月は綺麗だったと思う――。
――――――――――――――――――。
おわり
※ この作品はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とはなんの関係もありません(笑)。