第17回 日中関係・馬立誠論文が投げかけたこと(2003年5月24日)

 
 今年初め、日本の新聞各紙が大きく取り上げた論文に馬立誠「対日関係の新思考」というものがある。日中間の「謝罪問題はすでに解決している」と述べ、『人民日報』の評論員が大胆な見解を示しているという点で大きな関心が寄せられた。

 私も、これまで何人かの方からその内容を聞かされ、また感想を求められたが、実は昨日までこの論文に目を通していなかったので、何ともいい加減な回答しかしてこなかったことをおわびしなければならない。

 昨日、初めて全文に目を通したが、謝罪問題を含めた日中関係だけではない。むしろ現代の中国人論にまで踏み込んで語られている点に衝撃を受けた。

 他方、馬が日本を日本としてとらえるのではなく、諸外国の1つの国という相対化することで、これまでのタブーを語っているという点で、中国の言論界の限界も見られる。しかし、日中関係の停滞、中国の改革の停滞は、事態の相対化によってしか突破することはできないことを伝えているように思われる。

●「愛国主義」の弊害

 馬は論文の冒頭で、日本軍旗に似たデザインの服を着た中国の有名女優趙薇に対し、中国国内のメディアやインターネットが「民族の裏切り者、売国奴」などと罵声を浴びせ、ある若者はイベントに出演した彼女に「汚水」をぶちまける事態にまで発展したことを紹介し、「この国の人々は、いつになったら、こうした非理性的な衝動から脱することができるのだろうか」と非難する。そして、「近年来、『愛国』の旗を打ち振る非理性的な妄動がしばしば国民の心をとらえ、功を奏しているのは、一部のメディアの社会正義の欠如、無責任な扇動を密接に関連している」と分析し、こうした「愛国」衝動を「国家、民族に対し何の責任も負わない群衆行動である」と糾弾する。

●馬の日本観

 「中国と比較すると、日本は、確かに狭く小さい。・・・人口密度は中国をはるかに上回る。国土の60%が山地で、エネルギー資源に乏しく、地震、台風、火山噴火、津波などの災害が頻発している。日本より条件に恵まれていながら貧困にあえいでいる地域は世界中にあふれている。そう、日本が貧困転落どころか、国内総生産(GDP)5兆jという成果を上げ、世界第2位の高位にある」「2000年の日本の1人あたりGDPは3万5567jで、世界トップだ。世界一流の製造技術を持ち、科学技術研究投資も世界トップ。対外収支の黒字は世界一で、3616億jの外貨準備高も世界一」という現状認識を示し、「事実に即して言えば、アジアの誇りである」と評価する。

 他方、その日本が「長期にわたる経済の衰退により、日本人の多くは中国の台頭にいいようのない恐れを抱いている」という最近の対中観、「中国脅威論」を紹介するが、これに対しても「近代以降、日本は終始、中国の前を歩み、日本の前に居続けたのは米国だけだった。それゆえ、日本人初根に米国に敬服し、中国を見くびってきた。いま中国が日本を全面的に超越するという見通しが初めて現れてきたが、これを、日本が心理的に受け入れ難いことは、不思議なことではない」と日本への理解を示す。

 馬は、ネット上の「高興興」の署名文章を紹介し、これに反論する。高は「日本は1カ月のうちに各種核兵器を生産でき、1年以内に2満期の中距離ミサイル、40万から60万輌の新鋭戦車、20万機の航空機を生産できる」などの見積もりを根拠に、「日本はすでに大規模戦争を発動する能力を備え、真っ先に中国を攻撃する」という。これに対し、馬は高が「細部をきちんと描写しているが、何を根拠にしているか分からない」と一蹴する。そして「近年、我が国で出版された多くの日本研究著作が、日本では、基本的に民主・法治体制が構築されているため、政府の政策決定は多方面の監督と制約を受ける、ということを認めている。誰かが想像するような、『軍部』が思い通りに振る舞う状況は、もはや存在しない」と日本の民主的な政治体制、軍へのシビリアンコントロールを高く評価している。

 また、馬は2002年3月28日『南方周末』に掲載された華東理工大学戦争・文化研究センター主任の倪楽雄の文章を紹介する。倪は「今の時代、経済グローバル化が生み出す協調精神が、世界における主導的地位を占めつつある」中で、日本の政治大国化、軍事大国化を「国家としての正常な状態」の回復と理解を示し、「正常な国家の軍事的希求と、軍事主義発展の道の復活とは、区別しなければならない」と言う。そして馬はこうした倪の見方を「時代とともに進む新思考である」と評価する。

  中国に台頭する民族主義―マスコミ批判

馬は高興興の文章が「特殊な現象ではない」と言う。2002年8月に有名な映画俳優・監督の姜文が靖国神社を参観したことを中国のマスメディアが「売国奴」「裏切り者」と大々的に騒ぎ立てた。これに対し、中国の映画・文芸関係者は「個人的行為」「創作目的」と理解を示したが、マスコミでは彼らの意見がそのようには伝えられず、姜文批判にすり替えられていた。こうしたマスコミの態度に対し、彼らは「人為的にニュースを作るやり方には慄然とする」「価値判断のバランスを失い、最も醜悪なものに喝采を送るものだ」と非難する。そして「情緒化をあおる“愛国者”は、その実、愛国賊である」とまで言う。

馬は姜文事件だけでなく、「類似する現象は全て、民族主義台頭が、対外関係に映し出されたものだ」と言い、1990年代に台頭した民族主義の突出した2つの負の要素を指摘する。1つは「自大」、すなわち自ら尊大に構えることであり、もう1つは「拝外」である。「改革・開放の成果を宣伝し、国民の士気を鼓舞することは必要だが、行きすぎれば、のぼせに変じ、高熱を発する」と警告する。そして、『ノーと言える中国』など、西欧文明を批判し、中国が世界を席巻するといった主張を「十分な論証もなく、独断で結論を導き出している。この無知な妄説が何者かによって“愛国主義”に粉飾されてしまう」と指摘する。

 民族主義台頭の原因として「メディアの無責任な扇動、火付けと大きな関係がある」という。「一部メディアは、商業的利益のために情緒化した低俗な市場の求めに迎合し、最低限の是非すら弁えないところまで堕落し、ごく簡単なことさえできず、わっと立ち上がって人々の興味をあおり立て、耳目を引きつけ、のぼせと高熱を引き起こし、世論環境を悪化させる」とマスコミの役割を非難する。また、日本における中国人犯罪について、「われわれもまた、弱みを隠すことはない。自らの弱点をあえて正視してこそ、自信ある民族たりうるのだ」と言う。

 馬のマスコミ批判は、中国の国際社会認識にまで及ぶ。「現時点で中国が最も必要とし、中国にとって最大の利益になるものは何なのか」と問いかけ、「最も根本的で、避けて通れない大問題は、中国の各界が強く待ち望んでいる政治改革、そして民主建設だ」と答える。しかし、馬はこれ以上この問題には立ち入らない。むしろ、安定と発展のために「国際的なバランスを、巧妙にとる」ことに言及する。アジアでの「中国脅威論」を払拭するために、台湾問題での平和統一、一国二制度、中日友好、北朝鮮の各開発に賛成しない、ASEANとの交流促進、FTA締結などの動きを重視することで、「大国としての責任」を果たすことを求める。

●日中関係の将来

 論文の最後で馬は「経済衰退への不満を利用し、日本の民族主義感情をあおり、時代を逆行させようとする日本の民族主義者の言動も警戒しなければならない」として、石原慎太郎を批判する。しかし、日本では両国の友好促進を求める声がやはり大局であるという。それは「『中日双方の唯一の正しい選択は、中日友好を堅持することである』とする江沢民の論断が、両国有識者の共通の認識であることを物語っている」と江沢民の見解を評価している。

 そして、対日関係でも「古い観念を投げ捨て、新思考を始動させることは、今この時にあたって、極めて重要なことだ」として、「日本の謝罪問題はすでに解決しており、文書化の形式にこだわることはない」「政治大国、軍事大国になろうとする日本の希求、例えば平和維持活動での海外派遣に対して、われわれは、びくびくしたり疑ったりすることはない」と言う。

●馬論文のポイント

まだ馬論文を読んでない方もいるだろうから、引用を中心に主な内容を紹介してみた。ここで馬論文を整理してみると、次の2つにまとめられるだろう。

第1に彼自身の対日観を表明している。まず日本の経済、民主主義を高く評価し、日本の「中国脅威論」を冷静に理解している。そして、謝罪終結論に見る日中友好の堅持を強調している。他方、中国の「日本脅威論」には厳しい批判を浴びせている。

第2に、中国のマスコミ批判を通じて、中国自身への批判を展開している。馬は、現在の中国のマスコミを社会正義の欠如、無責任な扇動、商業主義のため大衆を煽っていると批判し、その歪曲報道を暴露した。また、中国人の非理性的、国家・民族への無責任、情緒化といった気質も批判している。

馬論文では、とかく第1の部分ばかりが注目されている。しかし、この論文は日中関係を題材にしながらも、その本質は中国人論ではないかというのが私の読後感である。

●中国の対日政策は不動

 中国の対日論の多くはこれまで反日論であったため、馬論文の発表は中国当局、とりわけ胡錦濤新政権の対日政策の大きな変化の兆候と見る向きもある。日中関係の視点から馬論文をどう評価したらいいだろうか。

 胡錦濤新政権の発足が200211月であり、この論文が掲載された『戦略と管理』が発行されたのは200212月であることから、技術的に見て、江沢民の息がかかっているとか、胡錦濤新政権の新たな対日政策の提起と関係しているといった政治的背景をこの論文に見いだすのは難しい。

ただ言えることは、日中関係重視を中心に据える言論は、馬論文で突然出てきたものではないということだ。1998年秋の江沢民訪日で悪化した日本の対中イメージ、そして両国のナショナリズム高揚などにより、日中関係は悪化した。その中、2000年に入り、中国当局は対日関係重視の政策に転じた。それと同時に、2000年初めには馮昭奎(中国社会科学院日本研究所研究員)が『世界知識』に対日経済関係重視を訴える論文を掲載してきた(馮論文に対しても、「売国奴」との批判が多数出た。この経緯は拙著『北京からの「熱点追踪」―現代中国政治の見方』を参照)。馬論文の登場は2000年以降の対日関係重視政策の一環にすぎない。

また、胡錦濤新政権の動向から判断すれば、中国当局の対日関係重視政策に変更はない。政策の継続は、後退でもなければ、発展でもない。中国当局が「謝罪問題は解決済み」と方向転換したわけでもなければ、するわけでもない。ここからも馬論文に政治的背景を見いだすことはできない。

●日中関係発展、中国自身の発展のカギは「相対化」

馬論文を読んで思い浮かんだのが、1986年に一大ブームを巻き起こした『河殤』である。『河殤』は中華文明の衰退を訴え、黄河や長江が象徴する閉鎖性をうち破り、対外開放による再建を呼びかけるテレビドキュメンタリーで、多くの共感を得ると共に、中華文明を批判的に扱うなどの点で、「歴史虚無主義」「西洋崇拝」などの政治的批判を受けた(『現代中国事典』1999年、岩波書店)。馬の中国人に対する批判も『河殤』に負けず劣らず厳しい。そんなことまで言っていいのと思わせるのは、日中関係に関してではなく、同業者であるマスコミへの批判の方である。

 馬論文のカギは「相対化」である。馬は日本を、「日本」として、つまり中国と戦争をして、中国、中国人に多大な被害を与えたという中国にとって特別な国としてとらえるのではなく、世界にいくつも存在する国のうちの1つの国という相対的な国としてとらえているのである。例えば、政治大国化、軍事大国化を希求する日本を「正常な国家」ととらえていることは、相対化していることを表している。

 馬が、日本を特別な国、つまり絶対的な国として、日本に対し同様の評価をしていたら、たぶんこの論文は世に出なかっただろうし、中国国内での反発はもっと大きなものだっただろう。「謝罪問題はすでに解決」という意見は、日本を相対化することによって初めて出てきたものである。また、江沢民が中日友好の堅持を提起したという記述が3回も出てきたことにも違和感を感じる。私は馬が自らの見解を展開する上で、江沢民の提起の延長上に自分の見方があるというように江沢民を免罪符に使っている。こうしたやり方で自らの見解を明らかにするのは、中国の知識人の伝統的なやり方である。知識人の限界を馬にも見ることができる。

そして、馬の日本の相対化は、国際社会の相対化を中国に求めている。日本の経済発展、民主主義体制が、ASEANなど周辺諸国の日本への信頼の根拠であるならば、中国も大国の責務を果たすために、日本を手本に改革を進めるべきだと考えている。馬は政治改革について詳細に言及していないが、日本の政治体制を評価したことは、間接的に中国の政治改革の方向性を示したものと言える。そこには『河殤』同様、中国、中華民族が自信を持つべきであるという鼓舞、エールがある。

情緒化、非理性的な態度を改めるには、相対化しかない。「相対化」は一見、物分かりのいい、レベルの高いもののように感じられるが、別の言い方をすれば、臭いものにフタをする論法でもある。しかし、日中関係を発展させるには、中国を発展させるには、相対化することで本質をはぐらかして、当事者を納得させて、今の停滞した現状を突破することしか、方法はないのかもしれない。相対化して、突破してから、再び絶対化して本質について議論することが、現実的な対応かもしれない。その意味で、馬論文の観点はより深く理解しなければならないだろう。

最後に余談だが、馬が2002年日本を訪問したのは、外務省の招へいプログラムによるものである。その成果がこの論文だったのだから、このプログラムは戦略的に成功したと言えるだろう。