第9回 「三つの代表」思想とそれをめぐる論争(2002年11月11日)

 

(注)この原稿は、霞山会編『中国の私営企業等の実態とその国内政治への影響評価』(平成13年度外務省委託研究報告書)に掲載したものである。

 

1.はじめに

 

 中国共産党は現在、50年あまり続いた執政党としての地位を守ることができるのかという大きな危機感に苛まれている。そして、自らの一党支配を正当化するための新しい存在理由を探し求めている。そして、共産党がたどり着いた1つの結論が「三つの代表」思想である。

江沢民中国共産党総書記が2000年2月に提起して以来、この「三つの代表」思想に対する内外の関心は高まっている。しかし、その内容は抽象度が高く、理解しづらいというのが正直な印象である。

他方、2002年秋に中国共産党第16回全国代表大会、いわゆる第16回党大会が開かれる。この会議の最大の関心事は、ポスト江沢民人事であり、江沢民の去就である。江沢民自身、党大会以後も政治的な影響力を維持したいと考えており、そのための江沢民の権威作りのために、自らの思想体系として「三つの代表」思想を打ち出したという見方も根強い。この見方は、おそらく正しいと思う。しかし、本章では、「三つの代表」思想が提起された背景やその内容などを分析し、「三つの代表」思想に対する支持派と批判派との論争を分析し、とかく分かりづらいと言われる「三つの代表」思想そのものに対する理解を深めることに重点を置きたい。

 本論に入る前に、「三つの代表」と言う時、何が、何を「代表する」のか、を明確にしておかなければならないだろう。それは、《中国共産党》が、《@中国の先進的な社会的生産力の発展要求、A中国の先進的な文化の前進方向、B中国の最も広範な人民の根本利益、という3つの事柄》を代表するということである。ここで使われる中国語の「代表」には「を代表する」と「を体現する、具体的に表す」の2つの意味があり(注1)、「三つの代表」の場合は、後者の意味の方が理解を容易にするように思われる。以下、本文中では総称としての中国語「三個代表」は「三つの代表」とそのまま訳すことにするが、動詞として使われる場合などは「代表」を「体現する」と訳すことにする。つまり「三つの代表」とは、「中国共産党が体現する3つの事柄」、もしくは「中国共産党が3つの事柄を体現すること」と理解したい。

 

2.中国共産党を取り巻く環境の変化

 

江沢民は「三つの代表」思想を初めて提起した2000年2月の広東省視察において「党員がすでに6000万人以上に達し、こんなに大きな隊伍は管理しようとしても容易ではない。現在の党建設が新たな情勢、新たな任務に適応していないところが少なくない。党内に思想上、組織上、作風上存在する党や人民の利益に符合していない、そして(それに)反してすらいる問題も少なくない。研究し解決する必要のある新たな状況、新たな問題も少なくない」(注2)と述べた。中国共産党を取り巻く環境は大きな変化を迎えている。

その変化は、大きく次の3つである。第1に、共産主義のイデオロギーに対する信奉が希薄になってきたことである。その原因は、第1に1980年代末から1990年代初頭のソ連、東欧の社会主義国の崩壊であり、第2に計画経済ではなく、改革・開放政策、市場経済によって、中国が経済発展したという事実である。その結果、共産主義の理想よりも経済的豊かさ、自由といった現実が大切であると感じ、人々が多様化してきたこと、これが第2の変化である。第3に、計画経済から市場経済への制度転換が不十分な状況で、職権を利用して、私欲を肥やす党幹部が多くなった。他方、国有企業改革が進み、失業やレイオフされる労働者の増加が深刻な問題となっている。生活困難な一般の人たちの汚職に走る党幹部に対する不満は高まっている。

このような環境の変化の中で、共産党に対する人々の支持が低下しているのではないか。そして50年あまり守ってきた執政党の地位をこれからも守ることができるのか。中国共産党は大きな危機感を抱いている。その対応策として、「どのような党を建設し、どのように党を建設するか」という命題を掲げた党建設工作の強化が提起された。その命題に対する回答を出すためには、その方向性を示した新しい共産党の存在理由が必要となってきた。それが「三つの代表」思想だったのである。

 

3.「三つの代表」の提起

 

(1)経緯

香港誌によれば、「三つの代表」を起草したのは、党中央政策研究室主任の滕文生をリーダーとし、中央党校副校長の鄭必堅と李君如、全国人民代表大会法律委員会委員で元中央党校副校長の★賁思、党中央組織部副部長の虞雲耀、中華人民政治協商会議全国委員会常務委員で元『人民日報』編集長の邵華澤、党中央政策研究室副主任の王滬寧、鄭杭生ら10数名と見られている(注3)。

江沢民が最初に公の場で「三つの代表」を提起したのは、2000年2月21日から25日までの広東省視察においてだった。この時、中国共産党が体現する3つの事柄、@中国の先進的な社会的生産力の発展要求、A中国の先進的な文化の前進方向、B中国の最も広範な人民の根本利益、は提起されたが、「三つの代表」という総称は使われていない(注4)。

 「三つの代表」という総称が初めて公式のメディアに登場したのは、2000年3月5日から『人民日報』に3回連載された「カギは党にある」と題する評論員論文においてであった。

 その後、2000年5月8日から15日まで、江沢民が江蘇省、浙江省、上海市を視察し、「三つの代表」に関する重要講話を行い、「三つの代表」を「立党の根本、執政の根本、力の源である」(注5)と位置づけた。

2000年5月18日付『人民日報』3面に掲載された中央党校副校長である鄭必堅の論文「『三つの代表』重要論述と21世紀に向かう中国共産党」は、最初に「三つの代表」を体系的に説明したものだった。この鄭論文を皮切りに『人民日報』3面には、鄭科揚(中央政策研究室副主任、5月25日)、劉雲山(中央宣伝部副部長、6月1日)、曹慶澤(中央規律検査委員会副書記、6月8日)、虞雲耀(中央組織部副部長、6月14日)の4名の論文が順次掲載され、中国共産党が体現する3つの事柄について詳細な説明が、「三つの代表」思想を起草したと思われるメンバーによってなされた。

 

(2)中国共産党が体現する3つの事柄

 中国共産党が体現する「3つの事柄」、すなわち@中国の先進的な社会的生産力の発展要求、A中国の先進的な文化の前進方向、B中国の最も広範な人民の根本利益、はそれぞれ具体的に何を指すのだろうか。中国共産党は何を体現するのだろうか。すでに紹介した『人民日報』評論員論文や鄭必堅論文などをもとに見てみよう。

@「中国の先進的な生産力の発展要求」:歴史を遡れば、毛沢東時代には所有制に代表される生産関係に重点が置かれ、生産力の発展が阻まれてきた。しかし、トウ小平時代には、中国は資本主義段階を経ずに社会主義段階に入ったため、現在資本主義段階で発展させるべき生産力を発展させる社会主義初級段階にあるとして、経済の自由化を推し進め、生産力の発展に大きな成果を収め、中国経済は大きな発展を見せた。そして、現在、中国はなお社会主義初級段階にあり、引き続き所有制関係、分配方式、経済体制、運行システムを含めた生産関係に対する調整と改革を進め、生産力を発展させること、そして第一の生産力としての科学技術を発展させることを掲げたのが、「中国の先進的な生産力の発展要求」である。

A「先進的な文化の前進の方向」:@「中国の先進的な生産力の発展要求」に応えるため、科学技術など新しい知識文化を西側先進国から吸収しなければならないという差し迫った状況にある。他方、自分たちに都合の悪い西側の文化や思想の流入は阻止したいという事情もある。そのため、マルクス主義、毛沢東思想、トウ小平理論という「思想道徳」、すなわちイデオロギーを堅持することと、科学技術、人材育成、事業などを含めた科学文化を発展させることの2点に集約できる(注6)。また別の識者は、これに加え、愛国主義などの民族意識の高揚も含まれるとする(注7)。

B「中国の最も広範な人民の根本的利益」:最大多数の人を満足させる利益のことである。共産党の手中にある権力は「人民に奉仕するために用いられるものであり、権力をもって私欲を謀ること、集団、小集団のために私利を謀ること、少数の人のために私利を謀ることはできない」(注8)とする。

@、A、Bは必ずしも新しい事柄ではない。@は「経済発展を中心とする」というトウ小平理論の継続を再確認したにすぎない。Aはイデオロギーと科学技術という次元の異なるものが並列されており、不自然さを感じる。Bは、党が抱える切実な問題を提起したにすぎない。このように、この3項目を個別に取り出して、その意味を分析しても、抽象的でよく分からない。

 

4.「七一講話」の意義

 

(1)「七一講話」の分析

「三つの代表」思想が提起されてから一年あまりが過ぎた2001年7月1日、中国共産党は創立80周年を迎え、その記念大会で江沢民総書記が重要講話(「七一講話」)を行った。この講話では、中国共産党の成立から80年間の歴史が総括された。しかし、それ以上に多くの部分が割かれたのは「三つの代表」思想についてであり、これまでにない新しい提案がなされた。

@「政党が先進的かどうか、労働者の前衛隊であるかどうかは、主に政党の理論と綱領がマルクス主義かどうか、社会発展の正確な方向を代表しているかどうか、最も広範な人民の根本利益を代表しているかどうかを見なければならない」とした。本来、共産党は労働者階級の利益だけを代表してきたが、より広い範囲に拡大し、階級を基準にしないことを意味していた。

A民営科学技術企業の創業者や技術者、外資系企業に招聘された管理・技術者、個人業者、私営企業家、仲介組織従業員,自由業者などの新たな社会階層を、労働者、農民、知識分子、軍人、幹部らと同様に、「誠実な労働と仕事を通じ、また合法的経営を通じ、社会主義社会の生産力とその他の事業を発展させるため貢献し、・・・彼らも中国の特色ある社会主義事業の建設者である」と位置づけた。そして「労働者、農民、知識分子、軍人、幹部の党員は党の隊列の最も基本的な構成部分であり、中核勢力である。同時に党の綱領と規約を受け入れ、党の路線と綱領のため自覚して奮闘し、長期の試練に耐え、党員としての条件にかなった社会のその他方面の優秀な者も党内に入れるべき」であるとし、新たな社会階層の入党を認めた。

B「経済の発展に従い、広範な人民大衆の生活水準は絶えず高まり、個人の財産も次第に増加している。このような状況においては、財産の有無、財産の多少を政治上の先進と落後を判断する基準にすることはできない。思想政治状況や現実の表現を見て、財産がどのように得られたのか、財産をどのように支配し使用しているのかを見て、自己の労働によって中国の特色ある社会主義の建設する事業に対する貢献を見なければならない」とし、私有財産の有無を入党の基準にしないことにした。Aで私営企業家を「社会主義の建設者」と位置づけたのは、搾取者という言葉を使うことは、私営企業家との団結に不利なため、それを避けるためだと指摘する識者もいる(注9)。

C「社会主義市場経済とマルクス主義創始者が当時直面し、研究した状況とは大きく異なる。我々は、新たな実際を(理論と)結合させ、社会主義の社会労働と労働価値の理論に対する研究と認識を深化させなければならない」と述べ、時代の変化に応じた労働価値説や余剰価値説の概念の変更の必要性を指摘した。

 

(2)マルクス主義との理論的整合性

以上4点が、新しい提案である。そのうち重要なのはAの部分である。すなわち、改革・開放政策、市場経済化によって出現した新たな社会階層の入党を認めたことは、労働者階級の党として存続してきた共産党の一大転換と言える。その中でも、私営企業家の入党を認めたことは、画期的な方針転換と言える。他方、中国共産党が私営企業家の入党を認めるには、マルクス主義理論との整合性が必要である。すなわち私営企業家が搾取者ではなく、労働者(注10)に含まれることを理論上証明しなければならない。@、B、Cは確かにこれまでにない考え方だが、それはAを正当化するためのマルクス主義理論の変更に過ぎない。

さらに、「七一講話」の新たな提案から中国共産党が体現する「3つの項目」を意味づけすれば、@については、新たな社会階層はまさに先進的生産力である。Aについては、科学技術の開発、人材の輩出を担っているのは新たな社会階層である。イデオロギーの堅持という部分は、理論上の正当化のための必要条件である。Bについては、利益を代表する対象を労働者、農民、軍人、幹部だけでなく、新たな社会階層も含めるため、広範な人民に拡大した。

中国社会科学院が発表した階級分析報告「当代中国の社会階層研究報告」(注11)が現在大きな注目を浴びている。その分析は興味深く、新たな社会階層の発生の状況がよく理解できる。しかしながら、この研究プロジェクトは1998年8月、党中央政治局員兼中国社会科学院院長の李鉄映の指示によって開始されたものであった。この開始経緯を考えた場合、「3つの代表」思想を正当化するための御用報告の色彩が強い。

『求是』の編集長である戴舟は「労働者階級の政党は労働者の前衛隊である。これがマルクス主義の党建設学説の核心であり、労働者階級の政党建設の根本原則である。しかし、歴史の各発展段階の具体的な課題が異なっているので、党の建設は先進性の一般的な要求を体現し、先進性の時代的な要求も体現しなければならない。時代のスピードについていけない、時代の要求に遅れをとる政党は、前衛隊の性質を備え、先進性を保持する党であるとは言えない」と述べ、時代によってマルクス主義理論が変化することを肯定している。そして「『三つの代表』の科学論断は、マルクス主義党建設学説に対する重大な発展であり、マルクス主義党建設学説史上の新たな偉大な新機軸の提示である」(注12)として、「三つの代表」をマルクス主義理論の発展した理論として位置づけた。

 

(3)私営企業家の入党

それでは、共産党はなぜ私営企業家の入党を認めるに至ったのだろうか。その理由を挙げる前に、2つの前提を指摘しておきたい。1つは1997年9月の第15回党大会で、公有制を主体とし、多様な所有制経済と共同発展すること、個人・私有企業を社会主義市場経済の重要な構成要素とすることが決定しており、さらに翌1998年3月の全国人民代表大会において、その方針は憲法に盛り込まれたことである。もう1つは中国経済における私営企業の影響力が高まっていることである。例えば、「七一講話」発表直後の2001年7月5日付『人民日報』には、個人・私営経済について、次のような数字が掲載されている。1999年のGDPは1兆4975億元で、GDP全体の18.3%を占める。改革・開放以来の経済成長率は毎年20%を超える。ここ数年600万人の新規採用を生み出している。また個人・私営企業の税額は830億元を超え、全国の工商税収全体の9.35%を占めている。

 次に理由を考えてみると、中国の経済発展に私営企業の発展は不可欠であるということだ。市場経済化が進み、WTO加盟が実現した中、国有企業改革は急務である。その際、淘汰された企業から生まれる失業者の再就職の成否が、社会安定に最も影響する。その吸収先は私営企業に頼る部分は大きくなるだろう。また技術開発や人材育成もその中心は私営企業である。しかしながら、私営企業が直面する問題は政策による支持に欠けていることによるものが多い。例えば、税収上国有企業には「先に納めて、後で還付する」という制度があるが、非国有企業にはないなど、大企業と中小企業、国有企業と非国有企業の間の不公平差は大きい(注13)。私営企業に対する銀行からの貸し渋りも問題になっている。こうした問題を解決する私営企業に対する各種奨励政策が整備されていない原因は、私営企業が社会的に認知されていないことによるものである。社会的な認知を与えるには、共産党の一党支配体制下では、私営企業家を入党対象にすることが最も簡単な方法と言える。

また、政治的な取り込み、すなわち共産党自身の強化のためにも、私営企業家の入党は重要だ。新たな社会階層に属する人たちは学歴が高く、優秀な人材と考えられており、その象徴的な存在が私営企業家である。共産党は「先に豊かになった人」を将来の中国社会の重要な政治勢力になると見なし、その中の優秀なエリートを吸収し、党の構成要素としようと考えている。彼らは共産党が指導した改革・開放政策の最大の受益者であるため、共産党の支持者であり続けると考えられており、安心感がある(注14)。

 さらに、増加する非公有制企業を共産党が管理するためには、企業内部に党組織を作る必要がある。しかし、非公有制経済組織の党建設工作は進んでいない。その要因として、非公有制経済組織の党員が少ないため、党組織のカバーできる面が小さいことが挙げられる(注15)。全国にある約150万の私営企業のうち、86%に党員がいないという報告もある(注16)。党員拡大は、私営企業家も党員にしなければ進まない。企業管理強化のためにも、私営企業家の入党は必要である。

以上のような、私営企業の発展をプラスに評価することから、共産党は私営企業家の入党を認めようと考えてばかりいるわけではない。広東省党校における研究討論会で、私営企業家は別の党を設立して、その参政問題を解決することを認めてもよいとする大胆な考え方が提起された(注17)。経済的に豊かになったこと、不公平な待遇ばかり受けることから、私営企業家の政治意識が高まることは当然のことである。その時、新たな階級を共産党から排除したままならば、彼らは新しい政党を作り、共産党に対立する政治勢力になる可能性がある。共産党はそれを最も警戒している。それを防止するために、先に彼らを共産党内に取り込んでしまおうと考えている、という側面にも留意しておかなければならない(注18)。

 

5.「三つの代表」思想をめぐる論争

 

(1)批判派の存在

「三つの代表」思想に対しては、積極的な支持を与える勢力(支持派)がある一方で、激しい批判を繰り広げる勢力(批判派)も見られる。

支持派は、すでに挙げた中央党校や党中央政策研究室などに所属し、直接起草に携わった人たちである。他方、批判派は、まとまったグループとして位置づけることは難しい。例えば香港の媒体は、「元党中央書記処書記トウ力群の周りに集まる一連の人たち」といった言い方をしている。

2001年9月26日、第15期中央委員会第6回全体会議が開かれ、「党の作風建設を強化し、改善することに関する決定」(注19)が採択された。その決定の中に、「思想を解放し、実事求是は、さまざまな誤った思想傾向の妨害を断固克服し、『左』があれば『左』に反対し、右があれば右に反対する。右は主に、四つの基本原則を否定し、ブルジョア自由化を行うことである。『左』は主に、思想が硬直化しており、改革・開放を資本主義の導入と発展だと言いくるめることである。新たな情勢下で、『左』と右は新たな表現をもっている。全党同志は冷静を保ち、右を警戒しなければならない。しかし、主には『左』を防止しなければならない」とある。ここで言う「左」は、批判派を示唆している可能性が高い。

さらに決定に「中央の決定と相反する意見を公開発表してはならない。表面では服従するように見せかけ、陰では反対すること、じかにやったり、裏でやったりという二面性のある行動に断固反対する。政治的なデマや、党や国家のイメージを悪く描く言論をでっちあげたり、言いふらしてはならない」とあるのは、一部の媒体に批判派が論文を発表していることへの批判と解釈することも可能である。この党中央の決議は、党内に批判派の存在を明らかにすると同時に、それに対する強い警戒心をも表していると見ることができる。

確かに「三つの代表」思想に対する直接的な批判はない。また、批判は保守系理論誌と見られている『真理の追求』や『中流』といった限られた媒体で展開されているにすぎない(注20)。さらに、これら出版物にも事前検閲があるはずなので、単なる批判派のガス抜きにすぎないと考えることもできる。しかし、批判派を支持する一定の層が党内に存在することも否定できない。そのため、江沢民らは批判派を無視することができないのも確かである。

本節では、いくつかの代表的な批判を紹介しておく。

 

(2)李君如発言に対する黄如桐の批判

 提起された当初、内容があいまいであった「三つの代表」思想だったが、私営企業家の入党を認める方針が示されたのは「三つの代表」思想を起草する上で重要な役割を果たしていると見られる中央党校副校長の李君如への2つのインタビュー記事であった。1つは『百年潮』2000年第9期に掲載された「『三つの代表』と党建設―李君如インタビュー」と題する記事であり、もう1つが2000年10月26日付『ファー・イースタン・エコノミック・レビュー』(英字誌)の記事であった。

李は、『百年潮』誌とのインタビューにおいて、「近現代の政治発展を見れば、民主政治が専制政治に取って代わる過程で、圧倒的多数の国がすでに政党政治に転換している。政党政治の出現と発展は、大衆の政治に対する関心度と参与の意欲を高め、大衆の政治選択性を高めた。・・・一般的状況下で、先進性と広範性を備えて党ははじめて人民大衆の信頼と推戴を手にし、人民大衆の指導核心となり、最終的に執政党になることができる」として、執政党は「広範な代表性を備えなければならない」と述べた。そして、労働者階級の範囲を拡大し、私営企業家を「経営管理に従事する知識分子」と位置づけ、私営企業家の入党を認めることに対し、積極的な姿勢を示した。

さらに『ファー・イースタン・エコノミック・レビュー』誌でのインタビューでは、近く党において私営企業家の入党を認めることに関連する決定が行われることを明らかにした。

 これに対し、中国社会科学院の黄如桐は『真理の追求』2001年第2期に「李君如の党建設問題に関する言論を評す」と題する論文を発表し、李を名指しで批判した。黄は、李が主張する党の「広範な代表性」の範囲が拡大しすぎている点を挙げ、「階級の基礎と統一戦線の対象とを混同している」と指摘する。そして黄は、私営企業家の入党は1989年8月の党中央の通知に反していると指摘する。この通知は1989年8月26日に党中央が通達した「党の建設を強化することに関する通知」のことであり、「われわれは労働者階級の前衛隊である。私営企業家と労働者階級の間には実際には搾取と被搾取の関係が存在しており、私営企業家を入党させることはできない」(注21)とある。黄に限らず、この通知の存在が私営企業家の入党に反対する人たちの根拠となった。これに対し、李は「(この通知は)そもそも正式な採決を経たものではない」と一蹴した。

 

(3)張徳江論文

しかし、黄如桐よりも早い段階で私営企業家の入党問題に言及したのは浙江省党委員会書記の張徳江だった。彼は『党建研究』(2000年第4期)に「非公有制経済の党建設工作における研究、解決しなければならないいくつかの問題」と題する論文を発表した。張は非公有制企業の党建設工作における原則を提起する中で、「私営企業家は入党することができないことを明確にしなければならない」と指摘した。その理由として次の点を挙げた。@党の階級性質と労働者階級の前衛隊戦士の基準があいまいになり、「富裕な人はみんな入党条件を備えている」という誤った指導を生み出す。A貧困を嫌い、富を愛すという旧社会の苦しみをよく知る広範囲な労働者、農民の基本大衆が、思想上党を誤って理解し、感情的に党から疎遠になり、党の大衆基礎に影響を与え、弱体化させる。Bもし、私営企業家を入党させれば、その中に経済力を利用し、基層選挙を操作し、基層組織を統制し、重大な政治結果をもたらすことすらある。理論上の問題点ではなく、現実の問題点を挙げる張は、批判派とは異なるように思われる。

 浙江省は、2000年の統計で、省全体のGDPに占める非公有制経済の割合は47%で、従業員も745万人に上り、非公有制経済の発展状況は全国でもトップクラスである。その浙江省で2000年1月、私営企業家が模範労働者として選出された。そして、同年1月24日付『人民日報』は、「私営企業経営者が省の模範労働者になった」とこれを大きく報道した。後に『真理の追求』2000年第6期に、中国人民大学教授の周新城が「資本家は模範労働者になることができるのか」と題する論文を発表し、「この情報は、中央の党機関紙が肯定的な情報として報道したものであり、思想解放の見本を打ち立て、全国各地に学習させようという意図がある。・・・われわれが驚いているのは、ある高級幹部や党機関紙の編集者の思想混乱がここまできていることである」として、事実上党中央を批判した。当然、浙江省に対する批判派からの風当たりも強くなったことが予想される。

ちょうどそれと重なる時期に、張は『党建研究』に投稿し、私営企業を発展させるけれども、私営企業家の入党までは認めないことを示した。しかし、浙江省党委員会は、張論文発表直後の『求是』第11期に「『三つの代表』の要求を断固貫徹し、社会主義現代化を繰り上げて基本的に実現するよう努力する」と題する論文を掲載した。私営企業家の入党に反対する張論文が反「三つの代表」ととられないよう、フォローしたものと推測される(注22)。また、「七一講話」が発表された直後の『求是』2001年第14期にも再び「『三つの解放』堅持し、党建設理論の新発展を深く認識しよう」と題する論文を掲載し、「七一講話」への積極的な支持を表明した。最初の張論文は時期的に見て、「三つの代表」思想を批判する動きとは無関係に発表されたものと推測される。しかし、その後の浙江省党委員会の動きは、地方における混乱状況と私営企業家の入党問題の重要性を見て取ることができる。

 

(4)国家統計局課題グループの論文

 2000年11月6日付『中国信息報』に、国家統計局副局長の邱暁華を長とする課題グループによる「国有経済が経済発展の抑制勢力となる」と題する論文が掲載された。この論文では、数量的分析をもとに、工業部門196業種のうち146業種は非国有化することを提言したもので、その結果3万9231社以上が改組、再編され、1376.5万人以上の従業員が、レイオフ(下崗)、転職、失業し、7507.9億元の純資産が売却されると試算している。また、同じ新聞には、「民営経済に十分な空間を与える」と題する署名論文が掲載され、課題グループの提言に支持を与えたのである。

 これに対し、国家統計局の元局長である李成瑞が、『真理の追求』2001年第1期に「私有化へと導く万言書を評する」と題する批判論文を掲載した。そこで、課題グループの論文について「データ運営上に大量の手抜かりがあり、偏りをもって全部を語り、事実を歪曲していることを発見した。基本観点上、資本主義国家の国有経済モデルに沿って、わが国の国有経済を次第に公共製品という狭い領域に集中し、ただ市場に対する『補填』作用となっていると主張し、社会主義国有経済の主導作用を根本から否定し、わが国の国民経済を私有化に導こうとしている」として、全面的に否定した。

 この国家統計局の課題グループをめぐる論争は、私営企業の発展の是非をめぐるものであり、直接私営企業家の入党を認めるかどうかをめぐるものではない。しかし、国有企業のあり方を議論した点で社会主義のあり方をめぐる議論である。

 

(5)林炎志論文

吉林省党委員会副書記である林炎志が『真理的追求』(2001年第5期)誌上で発表した「共産党は新しいブルジョア階級を指導し、支配しなければならない」と題する論文は、当誌が組んだ私営企業家入党反対の特集の巻頭を飾った。林は、この論文で、現職の省レベルの幹部としては初めて、中国に「ブルジョア階級が出現した」ことに対する警笛を鳴らしたのである。

林は、「人々が平均主義、『親方五星紅旗』の歴史課題を完全に否定できない中で、私営企業家は急速に台頭してきた。彼らは人口の2%にも達していないが、民間金融資産の50%を占め、資本規模は国有企業の純資産にまもなく追いつこうとし、国内総生産は全体の3分の1を占めている。このような膨大な資本規模をもち、人格化されたブルジョア階級が中国に存在する事実は避けることができない」として、私営企業家をブルジョア階級と位置づけ、中国におけるブルジョア階級の出現を認めた。

しかし、私営企業家の出現、台頭という状況は「党と政府が認めたことであり、党と政府の政策が育成したものである」として、これまでの改革・開放と市場経済導入の政策を暗に批判した。そして「社会主義市場経済を支配するカギは、ブルジョア階級と資本主義の経済要素を支配することである。ブルジョア階級を支配するカギは、党内にブルジョア階級と彼らの代理人が存在しないことである。党内にブルジョア階級が存在しないカギは、新たなブルジョア階級をはっきり見分けることである」「私有制経済は公有制経済を超えることができない、これが前提である。・・・。孫文が『資本を制限し』なければならないと言って、共産党が指導する政権がどうして『私営経済の大きな発展』に制限ができないのか」と述べ、私営企業家の入党に積極的な支持派を批判する。さらに、1989年8月の私営企業家の入党禁止の通知について、一部の地方の党委員会が中央の決定を執行しないことや、一部の人がそれを変更しようと考えていることを批判した。その際、同年8月21日に江沢民が私営企業家の入党に賛成しないことを発表した講話にも言及したことは、江沢民に対し、私営企業家の入党について、認めるか否かの踏み絵を要求しているようにも取ることができる。

また林は「私営企業家が入党することを認めれば、・・・搾取行為が党内で合法性をもつことを意味し」、「党の名称、党章、党の綱領を変更しなければならない」とまで言い、私営企業家の入党に強い調子で反対した。さらに、新たなブルジョア階級が入党すれば、「彼らの能力は党内での指導権の争奪に用いられ、党の性質を変更させる。そしてこのような変更は不可逆性を備えている」と述べ、ブルジョア階級の政権奪取の可能性に危機感を露わにした。

最後に、「党の性質問題において、(トウ小平が主張した)『不争論』を口実にして(論争をせずに)、党の性質を変えてはならない。小さな傷口を開けて、「石橋をたたいてわたる」ことをしてはいけない。党の命運を握って、試すことをしてはいけない」と述べ、私営企業家の入党を認めるかどうかが重大な問題であることを再確認した。

 

(6)「労働者政党」から「国民政党」への移行

 私営企業家の入党を認めることが、フルシチョフの「全人民の党」の再来であると批判する批判派もいる。

1961年10月の第22回ソ連共産党大会でフルシチョフが新しい党綱領を提案した。その内容は、共産主義の第一段階である社会主義社会はすでに完成し、階級対立はなくなり、プロレタリアート独裁は必要でなくなり、国家は「全人民の国家」となった。それに伴い、労働者階級の共産党はソビエト人の前衛となり、全人民の党となった、というものである。

中国社会科学院経済研究所研究員の項啓源は『真理の追求』2001年第1期に「労働者階級の政党がどうして資本家を吸収することができるのか」と題する論文を発表し、「全人民の党」という考え方について、かつて中国が中ソ論争の場で徹底的な批判を加えたことと、そして後にゴルバチョフがその考え方を継承したことを挙げ、「歴史がすでに証明したように、いわゆる『全人民の党』は誤りであり、これがソ連共産党を変質させ、ソ連を変色させ、人民は苦難を受けた」と評した。そして「現在、わが国で私営企業家は入党できると主張する人はたとえ『全人民の党』のスローガンを打ち出していなくても、彼らの主張が全党で実施されれば、わが党の労働者階級の前衛隊という性質は変更し、『全人民の党』が中国に出現することは避けられない」と警告した。

「三つの代表」を重視することは中国共産党が「全人民の党」になったことを意味するという見方に対し、李君如は「似て非ざるもの、自分をだまし、人をもだます話」と一蹴する。李は、「三つの代表」を実行できるのは労働者階級の前衛隊である中国共産党だけであり、「三つの代表」を堅持するには最も広範な人員を代表しなければならないことは党の労働者階級の性質を堅持することと矛盾しない、と説明する(注23)。

 同様に批判派は、私営企業家の入党により、中国共産党がヨーロッパで台頭した社会民主主義政党化することも警戒した。前述の項啓源論文は、1970年代にヨーロッパで労働者階級の前衛隊ではなく、「大衆性」を強調した「ヨーロッパ共産主義」が台頭し、イタリア共産党が資本家の入党を認め、結果的に左翼民主党に代わってしまった例を挙げた。また前述の林炎志論文も、「歴史上、労働者階級が性質を変更したら、例えばドイツの社会民主党は改良主義政党に変わってしまい、・・・その組織上の突破口は『いかなる人』でも入党してもよいと認めたことである」と指摘した。

しかし、支持派は、1990年代に入りイギリスのブレア政権、フランスのシラク政権、ドイツのシュレーダー政権に代表されるようにEC各国が「第三の道」と呼ばれる路線を進み始めたことに強い関心を持っている。かつては資本主義を批判してきたEC各国の左翼政党が、@ソ連・東欧の社会主義の崩壊、AECの経済的地位の高まり、B1990年代の経済情勢の変化に対する既存体制の不適応により、自身の改革を余儀なくされている(注24)。こうしたEC各国の左翼政党の状況は、中国共産党が置かれた状況と類似している。そのため、中国共産党は、ECの左翼政党の改革、すなわち「第三の道」に自らの改革のヒントを見出そうとしている(注25)。しかし、中国共産党が社会民主主義政党に移行しようと考えているかどうかは定かではない。

 

6.論争の特徴

 

批判派は、「私営企業家の入党を認める」ことを問題視し、共産党は労働者階級の利益を代表する政党であるという古典的なマルクス主義に反し、ひいては共産党の崩壊につながると指摘する。他方、支持派は、共産党が労働者階級の利益を代表することを認めながら、時代に応じて、代表の対象は拡大すると指摘する。この両者の相違は、「中国の特色ある社会主義をいかに建設するか」という命題と「社会主義とはいったい何なのか」という命題の相違に他ならない。

労働価値説や階級学説の変更を、マルクス主義の発展と見るか、それともマルクス主義の根本の放棄と見るか、それはどちらとも解釈可能である。論争としては白黒つけにくいものである。私営企業家の入党を認めることは、「三つの代表」の提起によって、現実のものとして浮上してきたが、1997年の第15回党大会における決定以降の非公有制経済の発展過程の当然の帰結にすぎない、既定路線ともいえる。そのため、批判派にとってはもともと勝ち目のない論争であった。

「七一講話」時に、支持派の命令により『真理の追求』や『中流』が停刊となったことは、支持派が批判派との論争で一定の勝利を得たことを示す象徴的な出来事だった。

 

6.おわりに

本章をまとめると、次の通りである。「三つの代表」思想は、共産主義の理想の崩壊、社会の多元化、党幹部の汚職の深刻化といった新しい状況で「中国共産党はどうあるべきか」という共産党の存在理由の再定義として提起されたものである。しかし、それは共産党が一党支配体制を今後もいかに維持していくかという課題でもあり、労働者階級だけではなく、新たな社会階層を党員として吸収し、組織基盤を強化するために、マルクス主義理論との整合性をとるための理論の変更を体現したのが「三つの代表」思想であった。その中で画期的な変更は、私営企業家の入党を認めた点にあった。この変更をめぐり、中国の特色ある社会主義を追求する支持派と伝統的なマルクス主義を支持する批判派との激しい論争が繰り広げられた。しかし、江沢民の「七一講話」の発表により、「三つの代表」は共産党の新しいテーゼとしての地位をある程度獲得したと言え、論争も一区切りついたと判断していいだろう。

 

(注)

1 『現代漢語詞典』(商務印書館、1991年)、『中日辞典』(小学館、1992年)などを参照。

2 『人民日報』2000年2月26日。

3 『鏡報』2001年7月号、18頁。

4 『人民日報』2000年2月26日。

5 『人民日報』2000年5月16日。

6 『人民日報』2000年3月7日。

7 『理論前沿』2000年第14期、10〜11頁。

8 『人民日報』2000年3月9日。

9『理論動態』誌に掲載された劉鶴(中央党校教授)論文による(『鏡報』2002年2月号、33頁)。

10 ここまでで言及してきた「労働者」とは、中国語で《工人》を日本語訳したものである。しかし、厳密には《工人》は、肉体労働者のことを指す。

11 陸学芸主編『当代中国社会階層研究報告』社会科学文献出版社、2001年。

12 『求是』2000年第13期、6頁。

13 『理論前沿』2000年第20期、8頁。

14 『廣角鏡』2001年第8期、15頁。

15 『理論前沿』2000年第23期、32頁。

16 『理論前沿』2001年第13期、4頁。

17 『理論前沿』1999年第2期、5頁。

18 中国社会科学院研究員の鍾明祖は「非公有制経済が自己の利益や利益表現を求めること、このことは正常なことである。しかし、いかに多元化した利益の要求を表現し、実現し、非公有制経済の健全な発展を奨励し、導入するかは、わが国の憲法と法律の規定に照らし、四つの基本原則を堅持するという基礎の上で、民主と法制の方式を経て完成させなければならない。絶対に利益の表現を口実に、『政治の多元化』を行うことは許されない」と述べ、非公有制経済の発展が共産党の一党支配体制を揺るがすものになってはならないよう警告する(『求是』2000年第18期、23頁)。

19 『人民日報』10月8日。

20党の理論誌である『求是』では、非公有制経済、私営企業における党建設工作の重要性は繰り返し強調するものの、私営企業家の入党問題には直接触れていない。しかし一部、過度の私有化を戒める論文も掲載されている。例えば、「『経済私有化』の観点に反駁する」とのサブタイトルの付いた★倫の論文(『求是』2000年第18期)。

21 『十三大以来的重要文献(中)』、人民出版社、1991年。

22 しかし、実際には「三つの代表」を批判するものとして、香港の媒体などでは取り上げられた。例えば、『鏡報』2001年7月号、23頁、『亜洲周刊』2001年7月9日―7月15日、45頁。

23 『理論前沿』2000年第14期、4頁。

24 『理論前沿』1999年第5期、17〜18頁。

25 『理論前沿』2000年第15期、27〜28頁。