第4回 日中国交正常化30周年記念シンポジウム雑感(2002年8月4日)

 

●盛況のうちに終わった長崎シンポ

去る7月26日、長崎市において、外務省、長崎県、そして私が所属する日本貿易振興会アジア経済研究所主催の日中国交正常化30周年記念シンポジウムが開かれた。中国との交流に長い歴史があるとはいえ、一地方都市である長崎市での開催に、どれだけの聴衆が集まるのだろうかと私自身には一抹の不安があった。しかし、その不安は杞憂に終わった。当日は300人近い聴衆が集まり、会場はほぼ満員となった。シンポジウムとしてはなかなかよかったのではないだろうかと私は思っている。シンポジウムの様子は一部、7月28日付『日本経済新聞』国際面で紹介された。

 

●シンポジウムのプログラム

参考までにシンポジウムのプログラムを紹介しておこう。

    記念対談「日中関係の未来」

司会:倉澤治雄(日本テレビ放送網ネットワーク戦略部長)

対談者:橋本(元駐中国日本国大使)、邱国洪(駐日中国大使館公司参事官)、林川眞善(三菱総合研究所顧問)

※第1セッション「日中経済関係30周年の回顧と展望」

座長:杉田亮毅(日本経済新聞社副社長)

パネラー 服部健治(愛知大学教授)、趙晋平(国務院発展研究センター副部長)、津上俊哉(経済産業省経済産業研究所主席研究員)、徐国雄(中国現代国際関係研究所所長特別補佐)、大西康雄(日本貿易振興会アジア経済研究所主任研究員)、王振(上海社会科学院副主任)、米津博一(大海通称代表取締役社長)

    第2セッション「対等なパートナーシップの構築」

座長:小島朋之(慶応義塾大学教授)

パネラー:陸忠偉(中国国際関係研究所所長)、石井明(東京大学大学院教授)、堀之内秀久(外務省アジア大洋州局中国課長)、王新生(北京大学教授)、佐々木智弘(日本貿易振興会アジア経済研究所研究員)、兪彰年(県立長崎シーボルト大学教授)

 

30年の意味

日中国交正常化30周年という節目の今年、日中関係を振り返り、将来を展望しようというのが、シンポジウムの主題であった。たぶん、このシンポジウムに限らず、関連行事のほとんどはよく似た主題を掲げているだろう。確かに、節目の年ということで、おめでたいことにかわりはない。

しかし、国交正常化から30年というのは、節目の年であるというだけであって、日中関係にとっての転換点になるものではない。日中関係の転換は、むしろ1990年代初めの冷戦崩壊という国際環境の変更と、改革・開放政策、市場経済化によってもたらされてきた中国の経済発展にあった。日中関係の転換はすでに1990年代から始まっている。30周年はその転換の途中にしかすぎないのである。

第1セッションと第2セッションのパネラーが日本人、中国人を問わず、現在の日中関係にとって、これからの日中関係にとって重要なこととして提起した課題は、政府レベルではなく、民間レベルでの交流を深化させること、また交渉のチャンネルを拡大するということであった。しかし、こうした課題が出ることは、何も今に始まったことではない。少なくとも私がアジ研に入所して日中関係を追い始めた約10年前にも日中双方で言われていたことである。たぶん、10年前の国交正常化20周年の時も同様のことは言及されたのだろう。もしかしたら、10周年の時も言われていたことかもしれない。それくらい、良く言えば普遍的で、悪く言えば言うに当たり障りのない日中間の課題なのである。こうした情況は、日本が中国に対してどう対処したらいいのか、その方策を見い出せない現実を如実に表しているように思われる。こうした情況を打破し、日本の対中戦略をどう設定するか、このことが今後の日本にとっての中国との関係構築の課題といえる。

こうしたある意味でありきたりの課題を提起する以上は、それまでとは違う論理で提起しなければ「ありきたり」でしかなくなる。結果的に私自身もありきたりな発言をしてしまったようだ。ほぼすべてのパネラーがこのことに言及するとは正直予想していなかった。それでも、関係が多様化している事例をいくつか紹介することで、他のパネラーとの差別化を図ろうと思ったが、その試みは他の同様の意見の中に埋もれてしまったのではないかと、後悔している。

 ちなみに、私が挙げた事例は、1つは昨年のセーフガード問題では、解決に時間のかかった農作物以外に、ワカメもあったが、これは比較的早い解決を見た。その要因の1つとして、交渉窓口である日本側の全国漁業協同組合連合会と中国側のカウンターパートとの間で常日頃から相互交流が行われていたことが挙げられる。この事例からは、日常的な相互交流が問題の発生時の交渉チャンネルとして活かされ、早期解決につながるという教訓を得ることができる。第2に、新潟県と黒龍江省という地方自治体間の交流である。共に寒冷地であることから、道路の舗装技術や凍結防止技術で遅れている黒龍江省に対し、こうした技術で勝る新潟県が技術協力するという自治体交流は、単なる「友好」を唱える交流から実利のある現実的な交流といえる。第3に紹介したかった事例は、拙著にも書いた「日本音楽情報センター」である。シンポジウムでは時間の関係で言及できなかった。

 

●消化不良の政治議論

私がパネラーとして出席した第2セッションの各パネラーは、それぞれの研究、立場から日中関係に対する見方を紹介した。そして、フロアーからは、歴史認識をめぐり、「日本は戦争被害を受けた中国人の立場を理解していない」とか、「日本のために戦死した人たちを無視できない」という相反する意見が予想どおり提起された。また、座長による「日中間に対等なパートナーシップはすでに構築されているのではないか」という問いかけに、各パネラー間で「すでに構築されている」とか、「まだ構築されていない」意見が分かれるなど、ディスカッションが進められた。

しかし、第2セッションにおいて、日中双方のパネラーがディスカッションに入る前の冒頭発言で、誰1人として、歴史認識問題、台湾問題、日本の対中ODA問題、最近の瀋陽総領事館事件について言及しなかったことは特筆すべきことである。ディスカッションでは、すでに述べたようにフロアーから歴史認識問題について質問が出たため、パネラーは回答した。しかし、その他の問題については、最後の総括で座長が駆け足で触れたにすぎなかった(ただし、ODAについては第1セッションで言及され、第2セッションへの継続課題とされていた)。

セッションが終了した後、私は座長の総括を思い起こしながら、たぶんフロアーの聴衆は、日中関係に関するシンポジウムでありながら、今最も注目されている上記問題について日中双方のパネラーから言及されなかったことに違和感があったのではないかと強く思った。幸い、座長が最後取りなしたものの、何か消化不良に感じたのは私だけだろうか。

それでは、パネラーとしての私はどうだったか。私が他のパネラーと異なるのは、世代の違い、つまり改革・開放前を知らない、日中国交正常化前を知らない、新しい世代だという点だった。それ故に他のパネラーとの差別化を図ろうとした点は、日中間に横たわる政治問題は両国の政治体制の違いが大きく関係しているため、今後とも容易には解決することはできないということに言及することだった。これさえもかなりオブラートに包んだものの言い方だった。政治問題とは、歴史認識問題であり、台湾問題このことだ。政治体制の違いとは、中国における中国共産党による一党支配体制のことである。これにはっきり言及せず、「政治問題」「政治体制」と、ある意味でごまかしてしまったことには、詳しくは語らないが、私自身某かの遠慮、抵抗があったことは否めない。外から見れば、「言っちゃえば言いじゃん」と思われるかもしれないが、なかなか難しいものである。この自己抑制こそが、まさに今の中国に対する日本なのかもしれない。私自身、研究者としての自分に対して、そしてシンポジウム主催者の1人として聴衆に対して、反省しきりである。

日中関係を語る難しさを実感し、研究者としてのあるべき姿について考えさせられた私自身にとっても有意義なシンポジウムであった。