第22回 上海・北京訪問記(2003年7月21日)

 

 先週、仕事で上海と北京を訪問した。中国の研究者との共同研究の契約のためだが、SARSの影響で、5月渡航の予定が2カ月以上も延びてしまった。そのSARS後の上海、北京だが、すでに市民生活は前回3月に訪れた時と変わりがないほどで、SARS騒ぎがウソのようだった。成田→上海の飛行機だが、私は全日空の夜便を利用したが、乗客も7割ぐらいで予想以上だった。またこれはSARSとは関係ないと思うが、日本人以外の乗客が多いのには驚いた。だいたい中国人は価格の安い自国の民航か東方かを使うケースが多いと思ったが、金銭感覚や意識が変わってきたのだろうか。

 以下、上海と北京の中国人研究者や日本人の研究者・マスコミ関係者らとの面談の一部を紹介し、最近の中国の問題を考えてみたい。

 

●対日政策の「新しい思考」をどう見るか

 馬立誠や時殷弘の論文が日本では注目を浴びているが、中国ではどう捉えられているか。総じて、彼らが唱える「対日政策の新思考」はまだまだ主流ではないということだ。中国人日本研究者は、馬・時が日本のこと、これまでの日中関係の歴史を理解していない、安易な考えであると賛成しない。その背景にあるのは歴史問題だ。特に今年2月の小泉首相の靖国訪問は大きな影を落としていると言う。

 それは、新幹線問題にも反映されていると言う。日本のマスコミは最近、ドイツ方式と日本方式で、日本の新幹線が採用濃厚との報道が多い。これに対し、中国人日本研究者は、歴史問題が背景にあって、日本の新幹線採用に反対する勢力は大きいと言う。そこには日本が新幹線システムを独占し、中国国内の新幹線網のコントロール権を支配するのではないかという危惧があると言う。システム故障や事故発生を見たとき、明らかにドイツ方式よりも日本の新幹線の方が安全性も高い。日本の新幹線を採用する方が、中国の国益に符合していると考えることが合理的であると私は思うのだが、中国人日本研究者は歴史問題の影響は大きいと言う。

 それでは、馬・時論文に対して、中国人日本研究者が反論をきちんとするべきであろうと私は提案した。そして馬・時論文を掲載した『戦略と管理』誌の関係者に、馬・時論文への反論論文を掲載する気はあるかと問うたところ、その可能性は否定しない。しかし、中国人日本研究者はこれにはおよび腰だ。1つの理由は、馬・時論文を相手にする値しないと考えているからだ。そこに日本研究者としてのプライドが伺える。しかし、網1つの理由として、馬・時論文の掲載が、党中央の対日政策の変更を意味するのかどうか、判断しかねているからだと言う。もし、馬・時論文が党中央の対日政策の変更を代表したものだとすれば、批判するわけにはいかない。そのため、大胆な反論が打てないと言う。後者の理由は注目に値するだろう。

 しかし、中国人日本研究者も指摘するように、日中関係は両国間の制約よりもむしろ両国の国内政治の制約から好転しないのが現状だ。中国国内には、共産党の正統性が社会主義イデオロギーの崩壊により、ナショナリズムに頼らなければならず、その格好のまとが日本だという。歴史問題を強調することで、日本をスケープゴードにして、ナショナリズムを高め、共産党の周りに人民を結集するという構図である。このことは、日本ではよく指摘されることであり、私もよく言うことだが、中国人日本研究者がこのように説明するのを聞いたのは私自身初めてのことだ。それ自体少し驚きだったが、「ちゃんとわかってるじゃん」という感じだ。

他方、中国人日本研究者に、日本国内でも右傾化が進んでおり、中国を悪者にしてナショナリズムを高めようとしていることをどう説明するのか、それは中国と同じである中国だけが批判されるべきではない、と「逆批判」された。確かにそうなのである。日本は、国防費の上昇などを理由に中国を批判する。しかし、中国も、小泉首相の靖国神社参拝や教科書問題などを理由に日本批判する。それぞれ、相手の国内の問題を理由に相手国を批判している分には共通なのである。日本だけそうでないとは客観的に見て言えない。根に国内問題がある以上、そう簡単に日中関係が好転することは難しい。それは、中国人日本研究者も理解している。そうなると、現在の日中関係を難しいものにしている両国の国内政治を無視しているという点では、馬・時論文は簡単に解釈しすぎているという中国人日本研究者の指摘は一理ある。私も彼らに会ったばかりなので、少し影響されているので、もうしばらく時間をおいて、再考してみたい。

 

●「三つの代表」と胡錦濤「七一講話」

 政治問題では、7月1日の胡錦濤の講話について、意見を聞いてみた。

ある機関では、6月の「三つの代表」学習綱要が発表されてから、党員に対する学習会が始まった。学習会では、まずその機関の党委員会書記が「『三つの代表』がなければ、SARSは解決しない」などと「三つの代表」の解説を行った後、各党員が「『三つの代表』のどこがすばらしいか」「仕事の中で『三つの代表』をどう実現するか」について意見発表する。そしてレポートを提出する。受講したある研究者は、「もし『三つの代表』が実現していれば、こんな学習運動をやらなくてもいい。実現していないからこそ、大声で言わなければならない」と言い、「三つの代表」に対する理解不足、支持不足ゆえの学習運動の感じがする。

これについて曾慶紅は、国務院幹部に対する「三・三・三」方針の建議を提出したらしい。この方針は、国務院幹部は業務時間を「三つの代表の学習」、「専門知識の習得」「ルーティンの業務」の3分の1ずつに分け、「三つの代表」学習を重視するものである。しかし、胡錦濤と温家宝に却下されたらしい。

 しかし、これだけの学習運動をしている以上、何らかの意味を見いだすべきだろう。ある研究者は、胡錦濤の「七一講話」を高く評価する。この時期に学習運動を展開した理由は、新体制発足以来「三つの代表」を表だって強調してこなかった胡錦濤が、江沢民に気を使って、行ったもののようだ。しかし、タダでは起きない胡錦濤である。「七一講話」は「三つの代表」重視を強調ながらも、新しい解釈を提示した。それは、新たな「三民」、そして「党は公のために、執政は人民のために」が提示された点に表れており、「三つの代表」が人民のための思想になった点である。

 

●今年3月の機構改革はなぜ頓挫したか

今年3月の全国人民代表大会で決定した機構改革だが、これについて早くから、いくつかの部・委員会を統合して農業委員会、交通委員会、エネルギー委員会、情報管理委員会などの設置が計画されていることをインタビューなどで明らかにしていたある政治学者に、なぜこれらの委員会が設置されなかったのか聞いてみた。

彼は、まずこれらの設置計画が実際に進められていたことを確認した。しかし、その審議過程で、統合対象の部・委員会の間で合意ができず、計画が先送りになったことを明らかにした。

合意ができなかった理由は、業務上の矛盾が調整できなかったからではなく、統合後の主導権をどこがとるかでもめたからだ。例えば、交通委員会では、公安部と交通部の間の対立が激しかった。それはどちらが統合後の委員会のトップをとるかでもめた。また農業委員会では、農業部と国家林業局の間で対立が調整できなかった。これらはまさに「部門利益」の維持をめぐる対立である。しかし、これらの計画は現在も継続審議されており、今後調整が済めば設置される。

機構改革については、私自身が後日詳しく述べようと思っている。

 

●胡錦濤政権の政治改革はホンモノか

 政治改革では、現在「情報公開法」や「監督法」など政治改革につながる法律の整備が進められている。現在進められるべき政治改革は、法治や制度整備といった枠組み作りである。枠組みはできても、うまく執行されるのか、監督・検査は実施されるのかといった指摘はよくされる。しかし、改革は急速には進まない。漸進的に進むものである。その際、まず枠組みを作る必要がある。いったん枠組みができると、その運営の中で、いかようにも中身を変えることが可能になる。

 現在深セン市では中国版「三権分立」が進められている。これは1つの機関の中で、「@決定権、A執行権、B監督権」を分立させ、民主的な政治過程を打ち立てるというものであり、注目されている。これに対し私は、中国版「三権分立」はわれわれのいうところの「三権分立」ではなく、同一機関内に三権があるため三権の独立は保たれない。これでは自己満足にすぎないのではないかと問うた。それに対し、ある政治学者は西側「三権分立」と異なることを認めつつ、次の点を指摘した。例えば監督権の場合、最初は関係者によって組織された監督組織によって、機関に有利な監督評価が出るだろう。しかし、枠組みさえあれば、政治の状況を見て、将来監督評価を行うメンバーに第三者を加えることが可能になる。そのため、監督評価の制度を整備することが第1となる。

 最近の胡錦濤政権の政治改革の動きについて、これをSARSによる一過性ものなのか、それとも長期的な改革の一環と見るべきか問うた。この政治学者は、今年5月か、6月かに発生した広東省でのホームレス李志剛殺害事件を機に、短期間のうちにホームレス収容法が廃棄され、ホームレス保護法が成立した。このように当局が素早い対応を見せたことを、高く評価した。そして、これをSARSとは関係なく、胡錦濤政権の改革へ意欲の表れであるという。しかし、別の人は、李志剛殺害事件の犯人に対し異例のスピード判決が下されたことを、それは司法が政治に利用されたものであり、李志剛殺害事件は中国の体制が旧態依然であることを証明した面もあることを指摘する。

来年3月予定されている憲法改正は重要である。その憲法改正で注目されている「三つの代表」の文言が憲法に入るかどうかについては、入るということだ。そして、私有財産保護については、改正はないという。「ない」というのは、「私有財産保護」という文言は入らないということだ。「私有財産」という言葉は「資本主義」の権化のよう言葉であり、共産党が率いる国の憲法に入ることは自己矛盾である。そのため、例えば「あらゆる財産」といったあいまいな表現で、「私有財産保護」を認めるということはあると言う。