100回 『人民日報』評論部の連載「社会心理に注目」に注目すべきか
2011116日)

 

 421日から526日まで、断続的に、『人民日報』評論部による「社会心理に注目しよう」という5本の文章が掲載された。この連載の文章が、中国国内のメディアや政治関連サイトで取り上げられているので、タイトルと掲載されている要旨(第2回だけは内容を詳しく見た)、私の見方を紹介する。

 

1回「心理の育成は執政者の試験問題」(421日)

 「社会心理は社会の現実を投射している。考え方を管理することで、人々に理性的な考え方不満表出に替えるように、あっさり考える心理焦りや不安を取り除くよう求めることは難しい。執政者に対して言いたいことは、公民が良好な精神の風貌を樹立するよう率先して提唱し、無形の心理の流れを重視することも必要だが、有形の問題を積極的に解決し、公平正義の社会の現実に着実な心のスープを提供すべきである」

 

2回「包容心をもって、異質思考に対応しよう」(428日)

改革が深まり、さまざまな利益の調整と駆け引きが、自然にさまざまな要求の表出をもたらす。

われわれは理性的で、平和的な討論を高く評価し、他人の批判を謙虚に受け入れる態度に期待する。

しかし、残念ながら、一部の人は、討論で異なる意見を許さず、相互に相手をののしり、他人の過失や秘密をあばいて責め、ややもすれば相手にレッテルを貼り、感情的に争い、真理を追求することに取って替わってしまう。一部の人は、批評や建議に対し、虚心に聞かないだけでなく、「誹謗し罪にし」、権力の意志で異なる声を抑圧すらする。

包容心で「異質な考え」に対応し、対話で立場を協調させ、交流での矛盾を取り除くことで、われわれは最大限に共通認識を形成し、思想観念の進歩を進めることができる。

多元的な社会では、異なる声や意見を尊重することが、公民の表出権を尊重することであり、社会の焦慮を和らげ、矛盾衝突をうまく導く必然的な要求である。

異なる声、ひいては反対意見は、執政水準を高める重要な資源である。異なる声の存在を認めてこそ、各方面の状況を理解、把握することができ、理性的な判断と正確な政策決定をすることができる。

414日に温家宝が国務院参事と中央文史研究館館員との座談会での発言で引用した言葉、「大智興邦 不過集過思」(大きな知は国を繁栄させるが、考え方を集約しすぎてはいけないいろんな知が必要)を、この文章も引用している。このとき温家宝が「本当のことを語れ」と発言しており、それに刺激を受けて、それよりもちょっと踏み込んだ内容になっている)

 

3回「公平正義で、弱勢心態を解消する」(55日)

 「弱者心理の存在と蔓延は、われわれの社会の発展にとって、警告であり、啓示である。これは社会の転換期の心の脆弱と苦境を反映し、心の強さと調和の必ず通るべき道を隠している。公平正義が光輝く下では、規則と制度で公平発展の空間や共に建設し共に享受するプラットフォームを打ち建て、一人一人が努力し、一人一人が機会を有し、一人一人が希望を有する社会でこそ、弱者心理の暗い影から大きな一歩を踏み出し歩むことができる。」

 

4回「理性の追求はどこから始めるのか」(519日)

 「一方的に冷静、安定、理知、抑制を強調することから、党と政府の主導の群衆利益維持メカニズムの完備を強化することまで、公共の理性を育成し保護し、調和社会を構築することはわれわれの歩む道は長い。科学的に有効な利益協調メカニズム、要求表出メカニズム、矛盾調停メカニズム、権益保障メカニズムこそが、非理性を取り除く最も有効な処方箋である」

 

5回「隠れた声に耳を傾けよう」(526日)

 「政府の力で、弱者の表出権を維持することで、彼らの利益は制度化され、規範化されたチャネルを通じて正常に表出される。これが共に建設し共に享受するあるべき正義であり、調和社会構築のカギのありかである」こうした主張の背景に「事実が表明しているように、多くの矛盾衝突事件の背後には、いつも利益表出メカニズムの欠如がある」

(自ら「この特集は敏感な問題を取り上げている」というように、興味深いテーマをどれも取り上げている。しかし言いたいことは、執政者、すなわち政治に携わる党や政府の幹部に対し、弱者に目を向け、彼らに利益表出させることが重要で、そのためのメカニズムを構築しなければならないということに尽きる。だからこそ「敏感」なのである)

 

この問題について5本の文章を連載したことは、確かに注目すべきであり、評論部は勇気をもってよくやったなあという気はする。だから中国国内メディアや政治関連サイトが取り上げるのも理解できる。しかし、その内容は目新しいものではないし、こうした主旨の文章を『人民日報』はこれまで単発で掲載している。だから、私はこの連載に何か政治的な意図あるとは思っていない。

最近の『人民日報』は、連載が多くて、重要だから連載しているようには思われないこともそう判断する理由の1つだ。弱者重視は胡錦濤政権も言っていることだし、この連載が特に「だからどうしろ」という対応策を提示しているわけでない。また何か動員を図ろうとしているわけでもない。確かに内容は興味深いが、それ以上には思えない。

 しかし、この連載のことをここで取り上げたのには、もう1つの理由がある。それは、526日の連載の最後に「本系列の評論はこれで終わり−編者」という但し書きがあったからだ。この但し書きで、「これで最後か」と分かったのだが、『人民日報』のこうした連載で、最後を知らせることは珍しい。だいたい、連載の文章が掲載されなくなって、初めて「あの時が最後だったんだ」と分かるもの。しかし、今回はわざわざ「これで終わり」と書いていたことが、非常に気になった。編集部のやさしさか、いや「これで終わりなんだよ」というなんとなく無念さみたいなものを深読みしてしまった。この連載をめぐって、何か問題でも起きたのだろうか。