何が俺の涙を誘うのだろう。俺自身の心の虚弱さに対する憤怒なのか、覚悟無くして捨て去った感傷への愛惜なのだろうか。終わりの無い問いに徒労感を覚えながら、俺は頭の中で急速に緻密さを増し膨張してゆく観念の重みに半ば気を失いかけていた。ヘッドホンのジャズピアノは次第に遠ざかり、やがて視界は暗転して過去へと戻っていった。

 それはほんの三時間前のことだ。例会が終わってから研究室に残って、真名井や竹内と冗談まじりの文学論をやっていた時だった。もう帰ったと思っていた紀理子が、話があるから、と俺を誘い、近くの喫茶店の隅の席で彼女はしばらくのためらいの後で、はっきりとそれを言ったのだった。
 俺のことを愛している、と面を上げながら紀理子は言い、俺の心にいつも射している翳りが何によるのか、そして俺を支えているのがいったい何なのかを知りたいのだ、と彼女は続けた。
 次第に感情が昂ぶっていく紀理子を前にして、俺はたばこをくわえたまま、無表情に彼女の目に光るものを見つめていた。
 ……ああ、似ている。去年の四月、大学に入ったばかりの俺に似ている。あの頃は俺もこんな目をしていた。何かに燃えなければ、自分を賭して燃えること無くして、どうして生きているといえよう。……俺は知識に飢え、思想に飢え、愛に渇き、そして観念を探し求めていた。今の紀理子のような目をして、俺は知識を、思想を、そして最も激しく観念というやつを漁って生きていたようなものだ。
 ……紀理子が燃えようとしているならば、それは決してこの俺そのものに対してではない。紀理子の若さや純粋さが紀理子自身を燃やすのだ。俺は、紀理子が自らの燃えているのを自ら映し見て確認するための鏡にすぎない。……鏡か、俺の鏡は一体どこにあるというんだ。そんなものありはしない。一度失ったが最後、もう俺にそんなもの、ありはしないのだ。いや、俺ばかりではなく、真名井も竹内も、俺たちには、俺たちの世代にはもともとそんなものありはしないのだ。……
 頬に流れる涙を拭こうともせずに小声に話す真剣な顔付の紀理子を眩しく見つめながら、俺の頭に映っているのは眼前の紀理子ではなく、俺の姿、観念という魔物に取り憑かれて漂っていた去年の俺自身の姿だった。

 「いや、俺はメットはかぶらない。デモにも出ない。集会には参加するつもりだがな。」
「そんなに考えなくったっていいやないか、なあ鮎川。メットをかぶるのも、タオルでマスクをするのも、写真を撮られないためにするだけやないか。つまらんことで消耗したくないからな。メットかぶったら一般学生でなくなるっていうのもわかるけどなあ、どこかの坊っちゃんたちのやる公認デモと違って、こっちはポカポカやられるしなあ。……まあ、いっぺんデモってみんか。連帯ってもんがどんなもんか、体でわかるから……」
 浮田はあっさりと、そう言ってのけたが、俺はデモることに気が進まなかった。機動隊が恐いのでも、写真を撮られて家に知られるのがわずらわしいのでもなかった。誠実でありたかったから、ただそれだけだった。この闘争の理論的必要性については一応の理解はした。しかし、このデモがいったい何を直接的な目的としているのか、そしていかなる成果が期待しうるのか。そして何より、この俺自身にいったい何を与え得るのか。……俺には納得できなかった。そして納得せぬままにデモに参加することは俺自身を失うことだった。……俺は自分を知るために生きているんだ。自分の行動はすべて確信に基づいたものでありたい。……その一線を守ろうとして、俺はとうとうそのデモには参加せず、夕闇の中を通行人に混じって、デモ隊の傍らに付いていっただけだった。学生証や財布を預けてデモに参加している浮田や真名井、竹内を見失うまいと俺は食い入るように彼らの横顔を見つめていた。デモ隊の向こう側を伴走する装甲車のスピーカーは、列を整えてまっすぐに歩きなさい、などと、この場面に不似合いな口調で叫び、水銀灯に照らされたデモ隊の赤ヘルと機動隊員のジュラルミン盾がギラギラと光って、殺気立った情景を作り出していた。やがて東西の大路と南北の大路の交差するあたりでデモ隊はジグザグを始め、機動隊が五重六重の人垣を作ってデモ隊を一方に押し込もうとした。装甲車が取り巻く中で、スピーカーからは激した口調の「注意」が繰り返され、投光機のまばゆい光線がデモ隊の頭上を舞い、虚ろな目をした機動隊員が盾をアスファルトの上に打ち降ろす鈍く重い音と、デモ隊のシュプレヒコールが奇妙なリズムを取りながら交錯した。
 ……これは現実ではない。俺にとってこの喧騒は何なのか。これが闘争なのか。学習会や連日の戦術会議であれ程鋭い言辞を吐く浮田が酔ったように声を張り上げ、嬉々として旗を振っている。これが奴の言う連帯なのか。……俺には一切が幻のように揺らいで見えた。彼らの闘争とはいったい何のための、誰のためのものなのか。人間の良心と誠実に対する信頼ゆえのものではないのか。……
 虚ろなままに俺は夜空に輝いている星を見上げ、やがて何かが、ふっ、と心の中から抜け落ちていったのを感じたのだった。真名井も竹内も、今は叫ぶことをやめ、黙々と流れに身を委ねているだけだった。彼らの視線と出会った時、俺たちはひとつの時代を終えてしまったことを互いに認め合った。
 あの日以来、俺たち三人は浮田から離れ、冗談以外は寡黙になり、真名井は猛烈な読書家となり、竹内は専攻する数学に打ち込みだした。そして俺は、燃えるべき対象、いや、自分を燃やすための発火剤を求めて様々な研究会、ゼミ、サークルに顔を出し始め、やがてあるサークルで知合ったある女性に恋をした。その人は代史子といった。それは恋愛などではなく、試みとしての男女関係であるはずだった。しかし、いつからか俺は時の流れに俺自身を捨ててしまったのだった。いや、俺のすべてを捨て切っていたのならば、まだ俺は救われていただろう。俺の頭の中には、まだ、誠実とか良心とか優しさとかエロスとか……そんな観念が、俺の現実とは無縁に残っていたのだ。代史子を抱いている時、俺はいつも思ったものだ。今のこの安らぎが永遠に続くのであれば、と。しかし代史子を下宿に送って、ひとり帰る夜道で、俺はいつも、あの観念の魔物に取り付かれるのだった。
「サルトルは従来の実存主義が個人存在の皮膚から外に出ようとしなかったことを反省し、ハイデッガーの世界内存在と投企の概念を社会化し、参加、すなわち、あえて束縛されること、自己の運命化を社会的諸関係の中に投げ込むことに転化発展させた。」
 あるいは
「愛ほどにも、日常のあわただしい営みの流れを中断するものは何もない。世界は他の何ものによっても、愛によってほど喧騒から沈黙へと奪回されることはないのだ。
 愛のもとに必ず存在している沈黙によって、言葉は日常の怱忙から救われ、自己の根源へと、すなわち沈黙へと連れもどされるのである。相愛の人々は、太初の状態の近くに ……そこにはまだ言葉はないが、しかし何時なんどきでも充ち満ちた沈黙から言葉が生まれ出ることの出来る、あの太初の状態の近くに …… いるのである。」
 かつて浸るように読み進んだ書物の中の様々な一節が浮かび、思念が渦巻き、そうした観念と、俺の心の奥底に粘着している情念とが溶け合わぬままに咬合されていった。
 ある日、あの日のデモの先頭に立ち、終始真剣な表情でシュプレヒコールをリードしていた一青年の日焼けした横顔を思い起し、あの真剣な顔付が、報われぬ闘争からくる悲愴感によるのではなく、ひとつの信念に裏打ちされた自己に対する自信によるのだと思い当った時、俺は半ば愕然とし、半ば嫉妬して俺自身のヒューマニズムとやらに訣別したのだった。この俺は、結局はあの一連の闘争とは無縁だったのではないか。誠実といい、人間の良心といいながら、いつもいつも俺の見つめていたのは、この俺自身の姿にほかならなかったのではないか。俺の優しさ、代史子の言う俺の優しさなど、わずかばかりの知識と主体性の無い甘えから作り上げた幻想にすぎないのだ。
 やがて俺はその観念という化物に屈し、代史子に別れを告げた。それが俺にとって良かったのかどうかは考えてはならないのだろう。ただ言えるのは、生の一回性を思えば、危険な賭を俺はしてしまった、ということだ。
 代史子と別れてから長い長い空白の時が過ぎていった。自らをして自らの生を強く鍛えるべきだ、などという観念の化物に屈した自分が、この上もないピエロに見えて、自分に腹を立ててみたり、いや、これでいい、この孤立した状況に自らを立たせなければ真の自立はなく、マイホーム主義のやさ男として凡凡とした生活にその存在の意義を見失ってしまうところだったのだから……いや、しかし、……
 あの時期、俺は確かに狂っていた。心の内の思念と情念との亀裂の中で、俺は深く傷ついていったように思う。孤独、ひとりでしかありようがないということ……あれから俺は変わった。

 目を起こすと潤んだ黒い瞳が俺を待っていた。俺は何かを言わねば、と思い、言うべき言葉もなく、どのような答えも思い付かない自分に気付き、灰の伸びたたばこをゆっくりもみ消すと、何本目かに火を点けた。
 紀理子は待っている。何を?……俺は何を言えばいいのか。愛しているとかいないとか言えば済むことならば、それはどちらでもいいことだ。しかし俺を見つめている紀理子の瞳はなぜこんなに多くのことを訴えてくるのだろう。
 俺は紀理子の頬を伝わる涙を美しいと思い、無意識に手の甲で彼女の涙を拭ってやっていた。それは純粋さに対する畏敬としか言いようの無い感情だった。人はひとつずつ大切なものを失いながら生きていくものだ、というある作家の言葉を思い返しながら、俺は紀理子を愛しいものに思い始めていた。
 紀理子は、もっと話したいからと言って、明後日の日曜日に研究室で待っていると言い、俺がかすかにうなずくのを微笑して確かめると、恥じらうように伝票をつかんでレジを済ませ、もう街灯の灯っている通りへ飛び出していった。俺は紀理子のあまりの若さに半ば驚き、その後ろ姿を目で追い、彼女の残していった微かな香水の香りを嗅いだ。

 ヘッドホンをはずすと窓の外の雨の音が聞こえてくる。永遠に降り続いて、人間の精神を腐蝕してゆく夜の雨。……
 俺には紀理子という女がわからない。四月以来、同じ研究会に属してはいるものの、二人で話したことなど一度もなく、大学構内で出会ったりしても目礼を交わすぐらいの知合いに過ぎないのに彼女は俺の一体何を知っているというのか。そして俺の演じている不良ぶった平凡な学生のどこに愛するだけの価値などあろう。……あるいは紀理子もまた、過去に癒されることのない心の傷を負った者のひとりなのかもしれず、俺のデカダンの中の自虐的心理を敏感に感じ取ったのかも知れない。しかし、だとすれば、どうして紀理子は再び燃えようと望み、この俺はこうして諦念の内に篭もってしまうのか。……やはり紀理子は若いのだ。そしてまだまだ純粋な心を持ち続けているのだろう。どのような理由であれ、紀理子が俺を選んだ以上、俺は何らかの態度を示さなければならないだろう。人間の持つ精神の純粋さが、おとなになる時には捨てなければならないものだというのなら、なるほどこの俺は格好の捨て場所かも知れない。しかし彼女が燃えるためには、この俺もまた燃えねばなるまい。燃えて燃えて自分を消し去るほどに燃え上がらねば、彼女にとっての澄んだ鏡面とはなり得ないのだから。真剣さに対しては真剣さを以て答えてやることが続く世代の者に対する俺たちの最低の礼儀だとでもいうのなら……いや、徒労だ。それは徒労というものだ。俺にはわかっているんだ。恋愛というやつは普通は暇潰しのおしゃべりだったり、ままごと遊びだったりだし、ちょっとばかりシビアだなどといっても、それは互いの自己放棄に過ぎないのだということを。俺はもう恋愛なんか信じはしない。愛など意味がないんだ。
 ……しかし、あの感情は何なのだろう。今も大学で代史子を見かけたときに俺の心を下から突き上げるあの不可解な焦燥感……罪悪感か、単なる感傷なのか、それとも自責の念なのか……俺にはわかっている。おそらくは今も俺は代史子を愛しているということを。そして一度失ったものは決して二度とは得られないものだということも。
 損な性分だ。観念という魔物に取り付かれたために愛するものを自ら失い、今もこんなに消耗しているじゃないか。俺だけじゃない、真名井も竹内も俺たちの世代は考え過ぎる、そして疑い過ぎる。昔の奴らみたいに信ずることを教えられず、信じるものを持たないからなのか、。そして今の若いのみたいに脳の構造がストレートで単純にできていないせいなのか。どうして俺たちだけがこんなに燃えられないんだ。抜けきれない社会的道徳と中途半端な解放感、自由感の雑居する変な代物なんだ、俺たちは。「弛むことなく汝の心を守れ、そは生命の流れこれより出ずればなり」……こんな聖書の文句に涙を流して感激してしまう俺たち。何かといえば誠実、誠実と言い、一方で自由、自由と叫ぶ俺たち。言葉なんて、思想なんてどうだっていいじゃないかと口には出しても、いつもそれに逡巡してくすぶってしまう俺たち。それが俺たちの世代なんだ。……思念において完全に納得してやれるような恋愛などある訳がなく、自らの行動のすべてを確信して進むなどということは、およそ狂人でなければできはしない。……ああ、俺たちは一生燃え上がることなどできはしない。
 俺は自分の頬を生温い涙が伝って流れるのを不快に感じていた。いったい何が俺に涙など流させるんだ。燃えようとして燃えきれなかった俺の過去に対する憐憫なのか。それとも徒労に終わることを予感しながら、曖昧に受け入れてしまった紀理子に対する愛しさなのか。日曜日に紀理子と会って俺は何を話せばいいのか。昔の俺なら、優しさとか誠実とか愛などという言葉を並べ立てて、紀理子を一時の幻想、観念の虚構に酔わせてやれたかもしれない。事実、去年の俺は代史子にそうして話ながら、自ら幻想を見ることによって、自己の存在と社会の現実を忘れようとしていたに過ぎなかったのかもしれないのだ。去年の俺は弱かった。そして今も、おそらくは……
 俺はまた考え込んでしまった自分を哀れみながら、それでもやはり悩む自分が愛しかった。俺たちはこうでしかありえない。俺たちの世代は観念という幻想を通してしか現実を見ることもできず、現実に働きかけることもできはしないのだ。……
 俺はレコードをジャケットにしまい、冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、冷たい寝床に潜り込み明かりを消した。夜の闇が急に戻ってきて俺を包んだ。窓の外では雨垂れの単調な音が続いている。

 ……俺は何のために生きて行くのだろう。俺を律する価値観などもはやなく、惰性のうちに時の流れに流されているだけの生活。かつての俺はこうではなかった。自分を知るゆえに自らを信じ得ず、俺の優しさを信じるといってくれた代史子の心……愛?、あるいはあれが愛というものなのかもしれない。そうした代史子の心を信じることだけが俺の生を支え律していたに違いないのだ。……今一度、もしかして今一度だけ、俺の心を燃え上がらせることができはすまいか。……

 紀理子の大きな瞳と幼い口元を思い出しながら、俺は紀理子と代史子の顔を二重に見ていた。愛だけが俺を燃え立たせてくれるのかもしれない。そして、これが最後の……
 されど我が心燃ゆることなく……その時俺はこの言葉が狭い部屋の闇の空間に冷たく反響するのを聞いたのだった。肩の力が一瞬に抜けて、ふと寂しい笑いが漏れた。……もう遅すぎる。すべてもう遅すぎる。
 優しいまでに柔らか過ぎる寝床に体を丸めながら、俺は涙の流れるままに闇の深さを測っていた。……我が心燃ゆることなく、されど我が心燃ゆることなく、……

(了)

『修羅賦』No3(1976.10月)

 

 

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