ある日の情景



SCENE 0' 〜月明かりの夜 -Clavis-

気が向けば宮殿から歩いて私邸へ戻る、それはクラヴィスの習慣だった。もっとも、私邸へ戻ると言っても一番近い道をまっすぐに帰るわけではない。足の向くままに歩き回ると言った方がより適切かもしれない。自然、館に戻る時刻は一定していない。
たとえばそれは星がひときわ美しい夜であったり、風が誘っているように感じられたり、単に馬車に揺られたい気分ではなかったり、彼が歩きたいと思う理由はさまざまだったが、館の者たちも主の気まぐれは心得ていて、帰りが少々遅くなってもいつものことと心配はしない空気があった。聖地内であれば身の安全は保証されている。もともと闇の守護聖は、宮殿に出向く時刻すら決まっておらず、出仕してもとんでもなく早く館に戻ってきたり、夜中に出歩いたりとその行動に一貫性がない上、周囲の者に行動予定を知らせるということもしない。本人にも確たる予定などないのだから元よりそれは無理な相談で、館の者たちにしてもいちいち心配するだけ無駄という部分もあった。

女王の結界に守られており、気候さえもが管理されている聖地。それに加えて近代的な防御システムによって守られ、衛兵による警護も怠りない。けれども宮殿の要所を固める衛兵の存在はともかくとして、そうした厳重な警戒ぶりは人目につくような無粋さとは無縁で、古典的な様式の宮殿その他の主要な建物があるあたりの美しさは壮麗な一大庭園といった趣がある。
聖地全体を見渡せば、より自然な、人の手が余り入っていない場所が多い。聖地の中心から離れるにしたがって人の気配や人為的な匂いからは遠ざかり、夜ともなれば天に瞬く星と明るい月以外の光源は見あたらなかった。限りなく自然に近い風景が保たれているそうした場所も、幾重にも守られた聖地内にあっては防御網から漏れているなどということはなく、守護聖が一人で出歩いてもその身に危険が及ぶことはまずない。
守護聖であることを厭うクラヴィスにとっては皮肉なことだが、聖地そのものは実は彼にとって生きやすい場所であるのかもしれなかった。

この夜歩く気になったのは、良い月だと思ってのことだった。星見で夜中に出歩くことも多いが、それは彼に課せられた職務の一環であり、心の赴くままに好きなところを歩くのとはまた違っている。
公園を抜けて聖地の中心からは外れた場所に通じる小道を進む。まばらな木立の中を抜けて行く道の先には緑野が広がっている。自然のままの草花の生い茂る場所を、彼は美しいと思う。
管理の行き届いた公園は整然として美しい。マルセルの丹精している花壇も、光の館のばら園も。けれど自由奔放に伸びる草のたくましさ、野趣あふれる花の美しさが彼には好ましい。
クラヴィスの腰あたりまで伸びた草の海。小道はその中に溶けてしまう。緑野に入る少し手前、道端の大きな木の下に腰を下ろして幹にもたれながら目を閉じる。

背に感じる、大きな木の持つ独特の気と。
大気に混じる濃密な草の匂いと。
そして、虫の音と。

それはこの時期にだけ聞くことのできるものだった。季節の移り変わりがはっきりしない聖地だが、自然は固有のリズムを持っている。クラヴィスはこの夜ここに足を向けた理由をこの時になって知った。
ああ…私はこれが聞きたかったのだな…。
自然の中に身を置いて、クラヴィスはようやく自分が生きていると感じる。深呼吸をひとつするごとに生き返ってくる気がする。周囲の気を取り込み、自分もまた自然の一部なのだと実感し、その中に心地よく埋没して自己が次第に希薄になっていく感覚が好きだった。

そこへよく知った気配が近づいてくるのを感じた。目を閉じたままでもわかる、それは光の守護聖に間違いなかった。なぜこんな、何もない場所に彼が来ようとしているのか。執務時間をとうに過ぎていることでもあるし、自分を探し出して叱責したり連れ戻したりするためということはあり得ない。先に来ていたのはこちらなのだから、逃げ隠れするようなこともなかろうと彼の近づくのを待った。が、ジュリアスはクラヴィスの存在にも気づくことなく行き過ぎようとした。その時初めてクラヴィスは目を開いた。どこか頼りなく見える背中が遠ざかろうとしていた。
離れていてもクラヴィスがジュリアスの気配を察するのと同様に、ジュリアスもまたクラヴィスの気配に敏感だ。互いにそうと口にしたことはないが、こちらが気づけば相手も気づく。素振りにそれが表れる。それなのに今夜に限って知らぬ振りで小道を歩いていく彼に、クラヴィスは不審を抱いた。道はこのすぐ先で消えてしまう。
聖地の内だ、放っておいたところで危険はない…。が…。
自分の存在にすら気づかないほどに何かに気を取られている様子の彼をそのまま行かせるのは心許なく、声をかけてみる気になった。
「ジュリアス」
歩みを止めて振り返ったジュリアスは声の出所がわからない風だった。もう一度呼ぶとようやく木の根方で腰を下ろしている人影に目を留めた。自分に注意が向けられたのを確かめてからクラヴィスは尋ねた。
「何をしている、このようなところで」
答えはない。
「珍しいことだ…お前が馬車を使わぬとは」
「……歩きたかっただけだ」
ようやく返った答えは、クラヴィスの予想外のものだった。
全ての時間を有効に使うことだけを考えているかと思っていたが、そうでもなかったか。
それならば…。
「少しつき合わぬか」
さして期待もせず言ってみた。
「そこに座れとでも?」
月の光の加減か、青白く見えた頬。常に揺るぎなく見える彼のいつにない自信のなさ、不安定な心が見え隠れするような線の細さに胸を衝かれた。何となく声をかけただけだったが、そんな顔を見てしまった以上放ってはおけなくなった。
「…疲れた顔をしている…しばらく休んでゆけ」
ジュリアスの瞳がまっすぐに自分を見る。こちらから視線を外すにはあまりにも印象的なその瞳に、しまった、そう思って狼狽する。
今の今まで逃げてきたというのに、どうした弾みか真正面から見つめ返してしまった。無防備な彼に誘われるように。
とうとう捕まった…。
それは狼狽であり、諦めであり、それでいてどこか安堵した気持ちでジュリアスの瞳に見入っていた。

いつも視線をそらしながらジュリアスの叱責や小言をやり過ごしてきたのは、青い瞳に囚われそうな自分を知っていたからだった。囚われそうなのではなく、すでに囚われていたのかもしれない。彼を目にした初めての時から。そのおりに自らに向けられた激しい言葉に。彼の強さに。その後程なくして知った、不器用な優しさに。内に隠した脆さに。
ダイヤモンドのような硬質な強さと同居する柔らかさ、ガラスの如き脆さ。ではたやすく砕け散るのかと思えば図太いまでのしたたかさ、しなやかさを併せ持つ、一見単純明快に見える彼の複雑な内面。ジュリアスという人間を知れば知るほど、惹かれた。
伏し目がちに、横目に、彼を見ないようにしながら、それでも目を離せずにずっと見ていた。もう一度その瞳と向き合えば二度と逃げられなくなる。だから正面から見ようとしなかった。ジュリアスが歩み寄ろうとしていたのを知りながら彼を避け、逃げ続けた。彼に囚われていることを認めるのが怖かった。自分の想いが絶望的なものであることを知りたくなかった。そしてまた、心のどこかでは彼が逃げる自分を追ってくれることを期待していたのかもしれなかった。
…やはり私はお前に恋をしている。
青い瞳を凝視しながらクラヴィスは苦くそれを認めた。じっと見つめ合っている時間が永遠とも思えた。そのまま彼が立ち去ることを半ば覚悟し、半ば期待した頃、ジュリアスは思いがけず近くまで来て並んで腰を下ろしたのだった。
少年のようにとくんと胸が高鳴る。たった今そうと認識したばかりの思い人が隣にいる、それだけのことが妙に嬉しい。恋は苦くて痛くて、甘い。たやすく奈落へと突き落とされ、瞬く間に歓喜へと押し上げられる。何か口にすれば声が震えて自分の気持ちを見透かされそうな気がして、けれどもただ黙っているのもどうかともう一度尋ねた。
「…どうした」
何気ない風を装うのがこれほど困難だったことはなかった。
「別に何も」
「そうか」
答えると口をつぐんだ。彼には彼の事情がある。言いたくなければそれでよい。
それきりジュリアスも何も口にしない。クラヴィスは木に背を預け直し、目を閉じる。そば近くにいるジュリアスが纏う香りに、心が乱される。
ついに観念して認めた恋心は、彼から逃げていた間中胸に抱いてきた想いのあいまいさと比して意外なまでに強く熱い。かといってその感情は言葉にするには唐突に過ぎて、何も言えず、何も言わず、沈黙のうちにしばしの時が流れて虫の音があたりに響き始めた。

ふわりと香りが揺らぎ、耳に触れんばかりに唇を寄せてきたジュリアスの気配にクラヴィスは身じろぐ。

近すぎる。

震える指先、震える心。

「これを聞くためにここにいたのか」
息が止まるほどの緊張の中、低く発せられた心地よい声に思わず聞き惚れた。日頃聞き慣れた凛と張った声とは違う、心を慰撫するような響きにうっとりと聴き入っていた。至高の楽の音であるかのように。それからようやくにしてその音の連なりの意味を反芻してみる。どうやら虫の音を指して言っているらしい。クラヴィスの唇からふうっと長い息が洩れて、体から力が抜けた。ジュリアスの顔を見て頷く。

あれほどに固くなることもあるまいに。
生きることに疲れた私はもう心を動かされることなどないと思っていたが、己を知らなすぎたと言うことか…。

長い年月逃げ続けた果てに自覚したばかりの片恋。それに振り回される自分が滑稽に思えた。

それにしても…虫の鳴き声などに興趣を見出す質ではないと思っていた…。
対極にあると思い込んでいた存在が意外に近いものに感じられて、何とはなし嬉しかった。頷きながら、私は顔をほころばせたのかもしれない。ジュリアスが少し驚いたような顔をして、そして笑顔を見せたから。

その夜のことは月の見せた夢のようだった。私たちの間には不思議に優しい空気があった。ジュリアスはわずかながら私に身を預けてきた。最初は勘違いかと思ったが、こつんと頭が当たってきて、そのまま彼はじっとしていた。
ずっと触れてみたかった金糸が幾筋か、風に流れて頬をくすぐる。早まる鼓動に胸苦しさを覚える。腰に腕を回して抱き寄せたい気持ちを隠して、クラヴィスも少しだけ彼に身を寄せた。急に身近になった彼を、もっと感じたかった。今宵この場所に二人が足を向けた偶然に感謝しながら再び目を閉じる。

囚われることを恐れて目をそらし続けた二十年という歳月に、クラヴィスはひそやかにため息をついた。
ひどい回り道をしたものだ…。
けれども彼はここにいる。今は、それだけでも良いではないか。

背に感じる、大きな木の持つ独特の気と。
大気に混じる濃密な草の匂いと。
虫の音と。
ジュリアスの温もりと。

囚われたのはきっと私だけではない。
お前は満たされているか?
いつかお前に告げるときがくるだろうか。
私の幸せはお前の中にある、と。





■BLUE ROSE■